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作品 - 20180206_302_10232p

  • [優]  菌糸 - 霜田明  (2018-02)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


菌糸

  霜田明

  怠惰

言わなくてもいいことを言ってしまったあとを降る雨は普段よりずっと爽やかだ
雨が降るように日々は台無しなことで織られるんだとわかるから台無しなことを愛する気持ちになってくる
「やればできる」という素敵な発想を信じるからこそ僕らのように怠惰な人間ができあがる
ほんとうは行為者のほうが可能性への信仰が甘いんだ実際に行為しなければ「やればできる」ことを信じられないのだから

  水準

子供との論争なら簡単に勝てると思っているならそれは間違いだ
子供は論理を無理やり押しとおす力が強く大人が何を言っても持論を繰り返すことで言葉の迫力を維持する
そうなると子供が口を閉ざすよりも大人が閉口するほうがほとんどの場合では早いだろう
言葉にはそれを交わす水準がある大人の論理では子供の論理を突き崩せないように
実際に経験してみると激しい言い争いであっても成立している分だけは暗黙の了解を守りあって水準を保っているんだなということがわかる
そして僕は自分でものを考える水準と人と論争・討論する水準もそれと同じくらい差があると感じている
対話によって考えを深めていくことは不可能だ
もし対話に深まっていく可能性があるならば相手の言うことをほとんど無条件で肯定するという方法しかありえない
相手の発想に刺激を受けるとか言葉を取り込むことはありえるかもしれないがそれは一方通行のもので読書と同じ構造にすぎない
双方向性の対話を深めれば相互カウンセリングとでも言わざるを得ない関係に行きつくはずだと思う

  内部

自分を押し通すより人に褒めてもらうほうが嬉しいというのは弱さだ
弱さというのは自分を認めることの弱さだ
自分でそれがいいと感じるのに人にだめだと言われるとだめだという方を重く感じてしまうということがある
自分の方が見る目があると感じていてさえも人の意見が不思議に重くのしかかることがそれが弱さだということだ

  禁止

人にはそれ以上踏み込まれると気分を悪くする空間的テリトリーがあることに気がついたアメリカの文化人類学者が「パーソナルスペース」という概念を作り上げた
その概念を知ってから「醤油とってくれ」という要求は要求というより人の空間を尊重した気づかいなのかもしれないと思うようになった
「パーソナルスペース」が確立している人ほど肉体的接触に性的な色合いの増すことは内気な女性にとってのハグと開放的な女性のハグを比較すればよくわかる
性的関係はふだんは禁止されている行為が許可される関係として起こる
女性が裸を見られるのに抵抗する大きな理由は現代の水準ではそれが「行為の許可」を意味するからだと思う
逆に男性が女性の裸を見て性的興奮を覚えるのは女性のその姿から「行為の許可」というメッセージを受け取るからだ
だから男性が行為に向かうときはいつでも「僕にはできる」という想いを纏っている
綺麗な女性に性的欲望を抱くのは男性であることを決められた僕らにとってそれが獲得と成り替わりの二重の不可能性の代表像としてあらわれるからだと思う
つまり僕が女性としてふるまえないことや扱ってもらえないことが僕の男性として振る舞うことを結実しているならば女性を手に入れたいと考えることは当然だと僕には感じられる

  貞潔

僕は純潔という言葉が好きだけれど「貞潔」や「貞操」という言葉の類語を好んでいるわけではない
僕が彼女と結ばれるより僕の好きな彼女が彼女の好きな人と結ばれてほしいというような感情を「純潔」と呼びそれが僕の好きなものなんだ
「貞潔」は良くも悪くも幼児性にしか宿らない
大人になってもし貞潔というものを握りしめつづけているならばそれは未だに親なるものへの依存を続けていることから起こるのだと思う
僕は「ありがとう」も「ごめんなさい」もほんとうは無効だと考えている
なぜなら感謝も謝罪もその場で精算できるようなものではないからだ
目の前だけの視野では「与える」という一方的な行為は存在しうるが大きな視野で見ると普段暮らしている中にはたくさんの行為がありたくさんの交換がありそれらをすべて把握するのは無理だ
親しい間柄には幾度のありがとうやごめんなさいに相当する行為がかならず相互的に行き交っている
それは目に見えないものを含めてつまりその代表である気遣いや思いやりも含めて
目の前での行為は味気ない言い方になるが「当然だ」というところで捉えなければかえっておかしなことになる
極端なところから言えば恩があるのだから奉仕しろだのという発想が実際に日常会話で生じたりするが恩などというものは存在し得ない
小さな範囲で見る限りしか与えることの優位性も損ねたことの劣位性も保持されないから
もちろん「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うべきでないと主張するわけではない
そうでなくそれは無効のものとしてしか言われないということを理解しておく必要がある
生活は「ありがとう」や「ごめんなさい」の優しさで紡がれている
それが倫理的に無効であることは生活的に無効であるということではないということも同時に理解しておく必要がある
生活は坂道を下る老人の杖のように優しさを頼りにするから
お互い理解することには限界があると信じている心にも
会話は優しさでありうるように

  倫理

「嘘をつくことは罪である」と断言した哲学者がいる
「人殺しに追いかけられている友人が、家の中に逃げ込まなかったかどうかと、われわれに尋ねた人殺しに対して、嘘をつくことは犯罪となるだろう.」
これは僕にとって「貞潔」という言葉が意味するところの発想でそれはうさんくさいと感じている
僕の考える倫理は現実に存在しない人間の顔色を窺うようなところにはありえない
人のエゴイズムは自分のものも他人のものも肯定せねばならないというのが僕の考える倫理の第一原則だ
去年の暮れ猫に熱湯を浴びせたりバーナーで焼いて虐殺した男が逮捕された
僕は猫が好きで人間に等しい重さの他者とも見做しているからその男に強い憎悪を持った
人のエゴイズムを認めるということだけではその憎しみについて解決できない僕の倫理は先の原則の上位にもうひとつの原則を加えてはじめて完成する
それは僕には責任があるということだ自分が存在し生活しあるいは死んでいくことについて
僕には責任があり責任は責任を持つものの意志を保証する

  殺人

「犯人Aが被害者Bを刺殺し、被害者Bは死亡した。被害者Bの死亡にBの遺族らCは大きな悲しみと怒りを覚えた。」
僕はその正当な論理に断崖を見つける
殺人は空想的な行為だと書いたことがある
その時の論点は行為するものにおいて人を殺すという行為が空想の範疇でしか達成されないという発想について書いたものだった
だが被害者の側へ視点を移しても殺人は空想的にしか現れないのではないか
Bは死んだというのは現象であり事実だろうがBが殺人によって殺されたということと事故によって死んだことあるいは心臓麻痺で突然死んでしまったことの間にはどのような差があるのだろう
僕には「殺された」とは何なのかとても不安なものに感じられる
人が人を殺せるという水準には生命は存在しないのではないかというのが僕の感じ方だ
それは産まれることと生まれることの差異と似ている
「母親」によって産まれたという大事件の生じる領域と世界に生まれたという領域は違う
たとえば母親になぜ産んだのかと責めることはこれらの混同によって起こっているなぜなら生まれたところに生命の重心は存在するのだから

  責任

人殺しに追いかけられている友人が家の中に逃げ込まなかったかどうかと尋ねた人殺しに対してエゴイズムの尊重は矛盾を露呈する
人殺しの殺したいというエゴイズムか友人の殺されたくないというエゴイズムのどちらかを否定せざるをえないからだ
カントはその矛盾に「嘘をつくことは犯罪だ」という基準で力づくの解決を試みたが僕は「責任」の二文字で立ち向かうことを考える
たとえば僕が異常者に熱湯や硫酸をかけられて苦しい思いをしても僕以外の誰もその苦痛への責任をとれないだろう
たとえば僕が通り魔殺人の被害者になったとして法律がその犯罪者を死刑にしたところで僕の残りの人生への責任をとったことにはならないだろう
責任を負うのは僕が加害者であろうが被害者であろうが状況の中にいる僕自身だ
人殺しの訪問はカントがそう考えたような絶望的な状況ではない
それは僕に選択の可能性を提示しているから現実のいろんな不可能性に比べてずっと容易な状況だ
僕の人生について責任を負えるのは自分自身だけだという前提において僕は原則として他人のより自らの意思を尊重する
その発想を他者へ敷衍するとき人のエゴイズムを認めることの根拠になる
僕自身がした行為の顛末も人が僕にした行為や世界が僕に与えた状況も全ての責任を僕は負わなければならない
僕が嘘をついたことも真実を話して友人の殺しに加担したことも
僕が人を殺したらほかでもない僕が死刑にされるように僕が人に殺されたら僕に落ち度がなくてもその責任を負わねばならないように

  孤独

他人を乗り越えるということがある
他人には長い歴史がある
誰にも言えないような辛い思いをしたりあるいは嬉しい思いをしたり孤独を感じたりしながら人には言えないで
言えないまま死んでいくという領域がある
その領域に向かうことがかえって自分の孤独に正面切って向かうということなのではないか

  純潔

僕は純潔という言葉が好きだけれど「貞潔」や「貞操」という言葉の類語を好んでいるわけではない
僕が彼女と結ばれるより僕の好きな彼女が彼女の好きな人と結ばれてほしいというような感情を「純潔」と呼びそれが僕の好きなものなんだ
「純潔」が好きだ「純潔」という概念はエゴイズムの中に自分の欲望より他人の欲望のほうが重要だという志向が含まれているという発想をとるからだ
片想いが好きだ「貞潔」が示すような親の庇護下にありうる臆病さによるものでなく「純潔」によるものである片想いが好きだ
彼女の幸せなんて僕には望めないに決まっているなぜなら彼女の状況が彼女に迫るものの責任を僕は取れないからだ
相手の人生には責任を負えないのに負えるようにふるまうとき「人のための行為」と呼ばれるいかにもうさんくさいものが現れる
僕は「純潔」が好きだ「純潔」において「僕にはそれができない」ということは悔しかったり苦しいだけではなく愛おしいこともあるんだと知ることができるから
「君が僕の想像のつかないところで存在しているところで君への愛情が水風船のように膨らんだ。」
「何になりたい」や「何がしたい」だけに未来や希望が宿るのではなく「僕にはできない」ことにも宿るのだということが「純潔」を知るときはじめてわかる
 
  欲望

存在することよりも先に
君に欲望されることがあったから
冬の街を目的もなく存在し暮らしていくことが
責任のように反芻される
僕は誰かに欲望されているから
こうして存在し暮らしているのだということに気が付いている
僕を欲望している誰かのために生きることを
欲望していることに気が付いている
それは僕の欲望する人の欲望を
僕が欲望するのと重なっている
僕は僕の愛する君が
君のほしがっているものを手にすることを願っている

文学極道

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