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作品 - 20180102_408_10145p

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野菜を食べる

  游凪

叔父からビニール袋いっぱいのミニトマトを貰ったのは蝉の声のしない夏。世田谷の安アパートでクーラーは唯一の贅沢品であった。随分と酷使して壊れてしまったので、リサイクルショップで買った扇風機を恋人のようにして過ごした。今年は例年にない猛暑だと毎年、気象予報士は言っているような気がする。畳にへばりつく肌はじっとりと湿っている。くたびれたTシャツをめくりあげて風を通す。首と腕からぬるく抜けていく。安い固形石鹸とい草と汗が混じった匂いがする。青紫色の朝顔の咲いた鉢植えを置いた、開け放った窓から太陽がこちらを凝視していた。深い疲労感に漂って、だらりと横たわったまま感じる熱。空は今日も青かった。

久々に空腹を感じたので起き上がると、時計の針が正午をさしていた。朝から何も食べていない。そういえば、昨日もろくに食べた記憶がない。小さな冷蔵庫からひとつかみのミニトマトを取り出す。ザルにあけて、銀色に鈍く光るシンクに置く。固く閉めた蛇口をひねる。生温い水が滴り、次第に冷たい水が勢いよく流れ出す。跳ねる飛沫が反射して赤くみえる。ザバザバと洗うと、実のしまったミニトマトが輝く。一瞬、触れていることに戸惑う。が、すぐに思い直して洗い続けた。
ザルを振って、よく水を切る。濡れた赤い果実はやはり輝いてみえた。その中でも大きくて形の良いものを選んで摘み、口へと運ぶ。歯を立てると破れた皮から果汁が飛び出して、Tシャツを汚した。噛みきるのをやめて、一粒ずつ丸々頬張る。少し青臭い甘みと酸味が口いっぱいに広がる。やはり塩はいらないと思う。トマトなら欲しくなるのに、ミニトマトは素のままでいい。口内ではパンパンに張った皮から厚い果肉の解放が繰り返される。その感触が楽しい。今までは弁当箱の飾りでしかなかったのに、夢中になって食べていた。
やがてザルは空っぽになった。シンクの台に転がる緑のヘタは青虫みたいだった。ゆで卵が食べたいとふと思ったが、面倒くさいのでやめた。片付けもしないで、乱暴に畳へ転がる。まだ身体は重かった。けれど空腹とは別のなにかが、僅かに満たされていた。
それから雨漏りの染みのついた天井を眺めた。黒い染みはアメーバのように蠢く。色々な動物になぞらえては変形させた。眺め飽きたはずの光景で時間はいくらでも潰せた。

午後四時をまわった頃、むくりと起き上がった。叔父から何度も促されていたので、病院に行くことにした。用意してくれた菓子折りを持って、脳神経外科へと最後の御礼の挨拶に行かねばならない。それからとりあえず耳鼻科に。いや、精神科かもしれない。まあ、菓子折りを渡せれば、後はどうでもいいことだ。ついでに読み飽きた文庫本を持って行くことにした。
ドアを開けると、ムッと土臭い向日葵の匂いがした。素足にサンダルをひっかける。汗でぬめり、少しよろける。まだ蝉の声はしない。

文学極道

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