一
生まれたときからその娘のことを知っていた。
毎年春が来るたびに僕は年齢をひとつずつ更新していった。それでも僕は僕がゼロ歳のままの僕であるような気がしていた。
それは毎朝目を覚まし、関係意識を取り戻すまでのほんの数秒間に存在する部屋だった。
その部屋の中に存在できるものが「不在」である他に何でもないことは、僕がこれまで考えてきたかぎりでは確かなことだった。風が吹けばカーテンは膨らみ、コーヒーカップは机の上に置きざりにされていた。その後反復する僕は、むやみにカーテンを引き、昨晩飲み残したコーヒーを手に取った。そして、その娘は現実の僕やぬるいコーヒーがそうであったように不在ではなかった。
僕の恋人が年齢をひとつ重ねるたびにマイナス方向へ歳を重ねていくらしかった。
二
社会が個人的な言葉を遠くすることがわかった時から個人的な言葉で話し考えようとするたびに、僕は僕自身からプラスの方向へ遠ざかり、それと同時にマイナスの方向に遠ざかるようになった。それは身体という実空間を僕が今存在しているこの中心で置き去りにするために、身体へのイメージが顔面側へ、そして同時に背中側へ、脱け出して酸欠のように色の薄い距離をとるのだった。君を嫌いになることと社会を嫌いになることが、まるで同じことのようになった。
だからその日僕は部屋でぼーっとしていた。なのに部屋にはそこら中で「在ること」がたかっていた。僕はまたその娘を思い出していた。在ることにたかられるのは僕らがいないからなのではないかと思った。すると僕ら関係同士の間には明らかな物性が刻まれていた。
三
「誰も君を愛せない」とそのときだれが言ったんだろう。誰かがそれを君の妄想と決めつけるには明らかに君の表情に刻み込まれていた。どうして解読できない言葉で刻み込んだんだろう。でもその言葉が僕らの言葉のルーツであることは確かだった。僕はまるで既知のものであったように、その言葉をたどたどしく読んだのだから。
君は君はかわいそうだから、みんながかわいそうに見えるのだと言った。僕はたしかにそうだと思った。君が一番かわいそうにも見えた。
君が僕の想像のつかないところで存在しているところで君への愛情が水風船のように膨らんだ。だから君の僕への愛情は僕にとっては存在しなかった。ただ君はそこに存在していた。静止した時間が君の顔から表情を洗いさると君の顔は既知の言葉だけで書かれていた。
四
表情を拭い去れば君の顔を読み下すように街の中に散らばるすべての顔も読めるはずだと信じていた。そうしなければ君という意味はきっと一つのところに決められていたはずなのに。かわりに僕らはお互いというところに安住しはじめたのだった。お互いという場所だけが僕らに唯一共有された場所だった。それからの僕らは自分の顔ばかりが街中に散らばっているのを流れる玉音放送の中で見つけつづけた。
五
ときどき距離は水温のような接触に変わって僕らはそれを反復した。許されている限り完全に支配されているのだと歌いながら垂れて水は土壌へ染み込んでいった。僕らは支配することを認知できなかったから憧れていたけれどそれよりも目で見たものをなりふりかまわず羨望することで自己を維持しようとした。自分から遠ざかる自分を取り込むためにそれ以外のものから距離を取ろうとした。それが自己自身に属さないことを認めようとすることはすなわち羨望視することだった。それを切り離すことで取り込もうとするものを僕らは人格と呼んでだからそれを敬い特別視することにした。
六
マイナス五歳のその娘は笑いながら言葉を忘れていった。固定された顔を持って部屋の底で僕に愛情を示させようとした。
どうして君を無力に仕立て上げようとしたこの目がそれをあの娘へ疎外して僕は無色の君へ接触を試み始めたのか。
すべての反復行為は性的行為でありすべての性的行為は反復行為であった。破壊を信じない破壊と感謝を信じない感謝のやりとりで、接触は僕らの暮らしをどれだけ優しく織り上げていたことだろう。
透明な夢の中で僕は僕の羨望を誰もに正確に伝えるための言葉を覚えたいと臆面もなく話していた。
七
無条件であることが僕らの満足の条件であったのに暮らしは幾つもの条件を僕が欲望したもののように突きつけた。今日幾つかの孤独死の中でどれだけマイナスの年齢が死んでいっただろう。「幸福」は物性行為を意味する言葉だと注ぐ日光を構成する粒子の動きのなかに見た。為すべき仕事さえあればと歌った啄木を僕は思っていた。誰もが維持するために働いていたのに維持されているものを変化させるためのように働き続けてきた。
八
未だあの戦争が避けられえたものだったかのように日本の夏が決められようとしていた。今年の花火大会は大雨で中止。集まった人たちは駅前で長いこと雨が止むのを待っていた。僕は部屋にいて何もすることがなくて蝉の声より青い空を作り出しイメージしてみようと思った。未来が条件付けられたもののように透明な電波をジャックしていた。君の顔を思い出さなければ世界には同じ顔しかないことを恐れていた。
九
この詩がここで終わっても僕の暮らしは生の無条件性を忘れずにいられるだろうか。僕は君との距離を不在と置き換えて表現したことを悔やんでいた。
食わずに生きられないならば条件なしに食うべきだ。働かずに食えないのならば条件なしに働くべきだ。この類の理屈はどちらの方向へ連れて行っても僕らを条件で縛っていなかった。僕らを縛ってきたものはすべて現実の関係だったから。僕は欲望された世界の中で君と関係し始めた。その時部屋は開放されていた。長かった歴史は亡きものにされたようにみえた。細かいガラスの破片が床に散っているのが見えた。僕は時間の中にいなかった。
十
一方向へぞろぞろと家にたどり着こうとする集団は糸のように繋がれて見えた。その糸が僕を縫い合わせる代わりに長い眠りは汗だくの僕に変化した。そのとき窓は開け放たれ鳴き止まない蝉の声が仰向けになった僕の身体を太い腕で夜の底へ押し付けた。風が吹きもう一度僕が忘れ易くなるためにそれから少し長い時間があった。
最新情報
選出作品
作品 - 20170826_857_9862p
- [優] 開放 - 霜田明 (2017-08)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
開放
霜田明