遍在的偏在論
鯨に擬態した鳥の一生
あるいは
消えた詩の行方
想像力とはすなわち、物事に対する誤った認識へ、ひとつの寛容的な態度を示しておくための修辞そのものに他ならない。想像力の欠如した犬は、夜空に浮かぶ月の中に、月のもつ白い輝きとその柔らかな形状を記憶している。
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一本の電話線の中を流れるロバの血液量は、アンモニアの含まれたコーヒーカップによって計量される。脳細胞のもつ忘却のメカニズムを鶏の鳴き声が代行しているのであれば、正方形にカットされた衣服の一部を、人は鼻孔と見なすこともできるし、もしくは記念に持ち帰ってみたレントゲン写真と見なすこともできる。ここで最も肝心となるのは、羊の心臓を取り出した外科医がその後、その場所に何を戻すのかという問題である。たとえばここで、一本のボールペンのインクが赤かったとしよう。水槽の中には土が入っていて、そこでは10匹のミミズが飼育されている。便器にはフランス人のサインが記入されているだろう。車は一匹の鉄の蚤で、タクシーのメーターは老人を轢き殺した時にしか止まってくれない。ある男性が道路に落ちていた地図を拾い上げると、それは単にライオンに噛みつかれた鮫の傷跡だったりもする。水道水の中を泳いでいるのは、月の光と同等の虫である。蚊がマラリアで人を殺すのだとすれば、結核で人を殺すのは人なのだろうか。根絶やしにされるべきは美しい言葉と磁石のN極だ。象の糞にはおそらく宇宙が広がっている。穢れた草木の遺伝子と湖面を漂う蛇の大腸は必ず区別されなくてはならない。術後の経過は国営放送によって流されることとなっていた。白い羽をもつ蝶は、鳥にとっては黒い葉だ。光よりも速く這う幼虫が発見されたのであれば、森はもっと静かであっただろうし、人の眼も今ほどよりは大きくなっていなかっただろう。海水に含まれる酸素濃度が年々、上昇し続けている。それに反比例するような形で、図書館における詩集の貸し出し冊数は減少し続けているということだ。けれどもし、あの日、羊の心臓のあった場所へ戻されたものが、赤い字で書かれた一冊の詩集であったならば、決して老人の脳の中でミミズを飼育する必要はなかったし、それを食べる鳥が火の中で夢を見る必要もなかっただろう。
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雨の日を喜ぶものが、自分の涙を隠したがっているとは限らない。それと同じように、鳥の肛門から排泄されたものが、一つの卵ではなく、一羽の鳥だったとしても、人はそれを共食いの結果であるとは思わずに、哺乳類への退化と見なすことだろう。死んだ貝殻には生きた砂が詰まっている。すなわち、25gの砂鉄が蟻たちにとっての致死量だ。雲の上にある水の膜が破れ、そこから海の血が流れ出した瞬間、手帳にひとつだけ残された住所は今日の正午とともに消えていった。空中で開かれた傘は身動きのしかたを忘れ、風の指示に従って飛行機のエンジンへと飛び込んだ。衝突地点で聞こえた爆発音は、3秒後には地球の裏側へまわっている。それを人間の耳が捕らえ、不燃ごみの袋の中へ放出するまでに、猫が二度発情し、鯨が三度の世代交代を果たすだけの猶予が残されている。木の幹にしがみついた高所恐怖症の光を地上にまで降ろすために、総勢39名の年金未納者が命を落とした。川が満たすのは海の自尊心と、そして栄養失調歴18年の瓦屋根だ。公衆衛生維持のため、鳥は街で糞をすることを禁止されているが、それを決めたのは有志で集った3mmの刺繍である。熱せられた鉄板の上を蛇の子どもが這っていく。すぐに皮膚が焼け付いて、蛇は身動きが取れなくなる。そして蛇が焼けて炭になるまで、貧困層の識字率は熊の巣穴の中で夜を明かすのである。胃酸は何故、人体をからだの内側から溶かしてはくれないのだろうか。物質は化学的にその表面から姿を失っていく。林檎の木はその枝先になったいくつかの果実を救うために己の根を枯らしていった。偶数の数は常に奇数の数をひとつ上回っているにもかかわらず、下水管として使用されるパイプの直径は、ちょうど大人一人がその中で生活できるだけの広さになっている。そこから察するに、冬が明けたところで春はこないし、石の中を流れる水が空気との性的接触を果たすこともない。そこにあるのは季節と呼ばれるに値しないだけの景色と、科学的進歩を待ちわびて眠る凍った死体の山々である。
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古びた写真が記録するものは、あの日あの時の一瞬ではなく、あの日から今日までの写真が色あせるのに費やした月日の方である。たとえ月のもつ乾いた体表へと鳥の脳が拡張され、そこで雪の味を覚えることになったとしても、空を満たすのは透明な影であろうし、その光を遮るのは鯨の呼吸である。緑の音は単なる嗜好の問題ではないし、あらかじめ予期された偶発的讃美歌でもない。青の保有する大地は実に広大なもので、そこには芝生が生えていれば、海までもがある。それの与える刺激に鼓膜の粉末は添えられているが、それらのもつ温度と形状はともに共通した塗料を散布している。黴の生えた薔薇の花弁を塩酸に浸してみると、そこに白血球の帯状の沈黙が現れるように、枯れた珊瑚礁に棲む雛鳥たちは、溺死の仕方を忘れて今日も生き続けているのだ。唇の周りに多量の産毛を残して鳥たちは去っていく。その行き先として指定されるのは、三日も前から失踪中の詩の断片であることが37%の割合として算出されている。それはつまり、ガラス製の不眠は血液の抽出には不向きであるし、夢で得た知識を現実で得た知識と混同することは、溶岩の中に浸された蟻の巣穴を眼の虹彩へと移植することに通ずるだろう。葉の裏側に吐き出された牛の背の模様は、空気に触れることで次第に赤く変色していきながら、最終的には地下室の窓のあった場所へ時計の針を置き去りにすることになる。その針が北の方角を指し示しているころ、鳥の尾に刻まれた星座の形は裁判所に一時の休息を与えてくれる。無作為に選び取られた魚の鱗。その鱗が保護していたはずの新鮮な皮膚の中へ、それを必要とする疲労した涙の中へ、犬の乾いた舌の上に残るのは、少量のナトリウムと思春期のもたらす乳房発達の予兆である。拳銃の中には弾丸の代わりに蝶の蛹が詰められている。鳥が深呼吸を始めてから早くも12年が経過した。月が君のもつ青白い頬の記号だとすれば、人は月と言うのに、何の一文字を選び取ればよいのだろうか。
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音楽の本質は考古学的色彩から導き出された絶縁性のパプリカの中に存在している。劣性遺伝によって生み出された赤色のパプリカは、緊急時の赤い信号機のサインとして使用されていた。点滅を始めた青い歩行者用の信号機の拍子に合わせて、博識者の間に同性愛的性質は広がっていく。残酷なのは優しさの補償として。釘打ちにされた湖の大木はいつまでも倒れる方角を決めかねている。この病が言語感染し、街中の人間が隣人のことをこよなく愛することになったとしても、それはゼラチンによって眼を包まれる幸福のため、指先の爪を鳥の羽根で覆うための二義的な自粛であって、その根本的な目的である黒人の陰茎の浴室栽培は、下水道に設置されたダムの年間発電量に相当する、8リットルの蜂蜜を産み出している。銃声の飛沫の中に含まれる文化的流産は、高層ビルの屋上に塩素消毒されたプールを建設し、そこでは土の中から掘り出されたピアノが飼育される計画となっている。嵐は気化熱の要領で、もしくは帯電した羊たちが産卵を始めるときのような具合で、砕け散った白熱灯を身にまといながら小麦畑の中へと消失する。雑巾は雨漏りする屋根を叱りつけた。屋根が叱られて泣くので、雑巾はまた濡れた。液体が重力に逆らいながら空を昇るころ、窓から外を見つめていた牧師は幼少期のことを思い出す。あのとき、神はまだ存在していなかったし、砂場で横たわる犬の死体は、砂場で横たわる犬の死体のままで存在していたと。鼓膜は聞きなれない音に自分の耳を疑った。地球儀を左右のタイヤの代わりにして、故障した車が夜の都会を去っていく。南極で発見された石油は凍っているので持ち運びやすいのだ。蝶はその口の先端を眠っている少女の手首に近づけた。あれはまだ正気を失ったばかりの人間だ。通りで訳の分からない言葉ばかりを話している。
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死からの逃亡を果たした詩は、あるときにはクロスワードパズルの最後の答えに、またあるときには冷蔵庫の中へ撒かれた肥料に、そのまたあるときには発達異常の鯨に扮して、溺死した鳥の子宮の中で卵の殻が割れる日を待っていた。水は不純な酸素として、海から海へパンに挟まれた具材を媒介していたのだ。鯨は焼け焦げた砂糖の黒さを宇宙の黒さと見間違え、その中へと飛び込んでしまった。だから博物館の化石にはよく蟻が集っている。地理的に言えば妊婦は青空の下で牛の餌になる予定であったが、それは洪水のもたらした最後の功績であったため、もう誰も月を信じなくなった。林檎の木は羊とともに暮らしていくだろう。それから魚の群れは、その親である鯨の呼吸から引き剥がされて、墓石に支払われる給与として犬の舌の上に優しく乗せられる。これが今で言う、幸福のシステムである。水は苦かろうと甘かろうと透明だろうと、鏡は言う。何故、磁石のN極が磁石のS極を恋しがるのかといえば、その衣服がいつも濡れているからだ。船はもう行ってしまった。万国旗を君の好きな長さの分だけ用意しよう。象牙が氷の上を滑っていくのを見届けると、そこには青い花が咲いていた。
(1)そこには青い花が咲いていた。
(2)そこには青い花が咲いていた。
(3)そこには青い花が咲いていた。
(4)そこには青い花が咲いていた。
(5)そこには青い花が咲いていた。
草の根が氷の中に根をはったのか、それとも水が草の根の上で凍ったのか。白い食器と砂漠の枯れ木の間は地続きになっていて、足のある動物は皆、そこを通ることができる。しかし、その地続きによって魚の群れの通路は遮断されてしまっていた。剥がれた鱗を太陽の光に掲げると、その中に血液が循環している様が見てとれた。その人は日曜日だけ、靴下を左の足から履くことに決めている。屋根の修理をすると次の日は雨が降る。国民は一人一人、鳥一羽を自分の口の中で飼うよう義務づけることにしよう。
最新情報
選出作品
作品 - 20170704_578_9730p
- [優] 遍在的偏在論 - 森田 (2017-07)
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遍在的偏在論
森田