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作品 - 20170621_033_9696p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


カラジウム

  kaz.

→フォーメーションユニオン〓!〓!〓!〓!……(1)

カラフルなキメラに窓は外されて世界史が通底する門が開かれる開かれる開かれる開かれる……(2)
そのイメージを、……(3)
まず、赤、それは空に伝わり、糸となって降り注いだ、ここまででもう陳腐だ、それを表すのが青、信号機となって灯る、それはやや緑、ダイオードが、入道雲に乱反射してさざめく、白、ぎんぎらとしたそのぬめり、焼尽する火、ブレスせよ、吸い込め、それらを、オレンジが投げられた、プラズマの放電がみかんを焼き尽くす、黒焦げ、苦労したな、この色の香りは燻製のようで、灰色、『バイオエシックスの基礎づけ』という教科書の匂い、紫色の煙でそれを精液の臭いに変える、マジックの色、交わりたいという色、ピンク、フラミンゴのように股を広げたか、あるいは秒速5センチメートルの桜の花びらの落下速度か、色彩には緑青を付随させる、その錆色の窓枠を取り外す、尻尾が蛇のライオン、彼女の体毛は風を引き起こす、枝垂れ柳のように靡いて、通風口のような彼女の鼠蹊部が開く、……(4)

そこに掟の門がある、……(5)

門がある、門がどっしりと構えている、門番は非常にさり気ない言伝を預かっている、
「いいかな、およそどんな技術という技術も、書かれた瞬間に終焉する」
「なぜって。理由なんてないさ、あるのは倫理だけ」
「山川の倫理用語集のP259を参照してみよう。『いき』それは九鬼周造の『いきの構造』の中で洞察された、江戸時代の日本の美意識」
「すい、つう、いきの三要素に分かれ、それぞれが相反する要素を構図的に意識し合う」
……(6)


注解
なお、タイトルとなったカラジウムはサトイモ科の球根植物で、葉の模様が特徴的である。熱帯生まれであるため雨に強い。

(1)カラジウム→フォーメーションユニオン変換の公式を導出したときの、アドニスの台詞を参照。「君は詩学か? 否詩学か? 神智学か? 審判待ちで。」なお、!は普通のエクスクラメーションマーク、〓は反転したエクスクラメーションマークである。それを組み合わせて!〓!〓!〓という形態を作っている。

(2)岡崎体育のアルバム「XXL」初回限定版特典を参照。「こんなぶっ飛んだことを書かれても、削除対象にできないのが残念だ」という、有名な台詞がある。その発言からして、この表現が意味するのは、およそどんな出来事も門――もちろんこれは神や女性器といったメタファーなのだが――を通して開かれるのみであり、さらには窓――これも外からの光を取り入れるという役割からして、神や女性器のメタファーとなっている――という表現からして、推察するに、この一節が言いたいのは、色彩豊かな合成獣、すなわち遺伝子の作為的な突然変異ないしはノックアウトを適用した生物によって、窓そのものが外され(この一節だけで小説が書けそうだ、何故なら窓枠を取り外すのには一定の手続きがいるからだ、とりわけこの辺りの市街地の住人には。何故ならこの地区では窓枠を取り外す行為は条例によって規制されており、外界からの明るい光を取り入れる、すなわち形質転換的な禁忌の行為として見なされているからだ。まず、役所に窓を外す旨を書面で提出しなければならず、次に付け替える窓を購入した際の領収書を「窓枠購入証明書」に付随して提出しなければならない。役所における一般的な見解としてはそれは騒音対策であったり、遮光性能の向上であったりするわけだが、どうしてそういう書類を提出しなければならないのかといえば、それは窓枠というものが一種の贅沢品として見なされているからである。)、世界史が通底する、というのは窓を外すことによって世界の歴史がよく見えるから、それは窓枠に歴史があるように、最初木製でブラックウォルナットを使っていたのが金属製の真鍮やアルミを使ったものに変わるように、という程度の意味合いであってそれ以上でもそれ以下でもない、と言及することによってさらなる意味の付随を図るのだが、という話はさておき窓――すなわち女性器――が外されてその向こうに門が見え、門――すなわち第二の女性器――が開かれるのが見える、その様子を再現すると、窓が外されて開かれ、門の閂が外されて開かれる様子が、ありありと目に浮かぶだろう。

(3)岡崎体育「感情のピクセル」の歌詞を参照。「イメージを」と謳っている。この段落が言及したいのは次のような見解である。すなわち、フォッサマグナに足を踏み入れたということで事実上倒錯が始まっていたとする初期アリストパネスの見解から外れてバシュラールを擁護する形で炎天下の堤真一を呼び起こす呼び声ならぬ呼び笛を――人はそれを篠笛と呼ぶ――詩の中に音として取り入れた結果、この連は本来連結されていたそれまでの行から改行されて下ったのである。

(4)赤と言及したときに赤い空が思い浮かび、空に結ばれた創世記エヴァンゲリオンのATフィールドの如き赤い糸が空から垂れ下がってくるのを想像して、それが『赤い糸』を連想させるような陳腐なものであったような気がして青い色の空にチャネルを切り替え、すると青という言葉から青信号が連想されて青信号の中の青色発光ダイオードが喚起され、それはやや緑であることが認められ、その光が入道雲に乱反射するときの色はきっと緑色の雲だけれども、その想像をあえて逆手にとって白色、ミルク色の空を呼び起こし、そのぬめりがぎんぎらとした感触を舌に与え、それが燃えているときの火の色はおそらくはオレンジであり、『アリエナイ理科の科学』を参考に調理したバーニングみかん、すなわち電子レンジ内のほの明るさの中で電極を刺したみかんに放たれる電気の映像を撮影しようとしたらフィルムが焼けて磁気も受けて使い物にならなくなり、黒色のフィルムを取り出すのにも苦労したなあという過去の印象が湧き上がってきて、ここで唐突に灰色に切り替わる、書物の色、そして音楽はジミ・ヘンドリックスの「パープルヘイズ」なので紫色の煙、紫が魔法っぽい色なのでマジックの色、マジックのキュキュっという書き音が鳥の性行時の鳴き声みたいなので「交わるときの色」という意味で用い、そしてはっと我に帰るとピンクがフラミンゴと共に幻視され、あるいは落下する桜の花びらと共に幻視され、そうして色彩を意識したときには錆色である緑青がかねてより錆びついている取り替えた窓枠と共に思い起こされ、その窓枠を取り外しているキメラは遺伝子改変のため尻尾が蛇のライオンのようになっており、その体毛は運動するにつれ風のつむじを引き起こすのだ。その風が、その(彼女=)キメラの鼠蹊部にある女性器を、一言で言えば、花開かせる、というわけだ。

(5)フランツ・カフカ『掟の門前にて(原題はVor dem Gesetz)』を参照。ちなみに、これを実写化したドラマ映像がYouTubeにかつて流れており、見たことがある。灰色のモノクロームの色彩の中で、掟の門番とのやり取りが始まるのだった。さらに言えばジャック・デリダのカフカ論も『掟の門前にて』を扱っており、このカフカ論の中では「Gesetz(法律、令、掟といった意味合い)」が翻訳に先立って示されており、その翻訳の不可能性、誤謬性を脱構築している、と論じている。

(6)最終連。それまでの連との繋がりが断たれ、それまでの流れからいうと起承転結の転に近いものになっている。しかしこれまでの解説を踏まえて読むならば、それまでの連が音韻学に立脚した自由連想的、連鎖的なものであったのに対し、この連は言伝という形で台詞が続くようになっており、「あるのは倫理だけ」という連が印象的に響くが、その倫理さえも前の連が参照した『掟の門前にて』において脱構築された《Gesetz》とみて読むならば、もはや何も存在しない、と表現するのが正しく、そのような侵犯をなすことによって表現されるのは、この連以降に連綿と続く一種の自己注解という形式そのもの、ないしはそれ自体である。しかしそれでも美意識だけは残るのだと言おうとしての『いきの構造』なのだ。もっとも、これだけの言伝では「いき」を再構成することもままならないだろうけれども。

参考文献
Mimesis: The Representation of Reality in Western Literature, Fiftieth Anniversary Edition. Princeton UP, 2003.
『参考文献により注解をズタボロに引き裂く』Mr. Children編著
『Mr.によるMr.』Mr.著
『アーティストは境界線上で踊る』斎藤環ほか

文学極道

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