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作品 - 20170605_699_9659p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


イヴの手が触れるアダムの胸の傷あと──大岡信『地上楽園の午後』

  田中宏輔



 主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べて
よろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと
死ぬであろう」。
                                (創世記二・一六‐一七)

これを愛する者はその実を食べる。
                                  (箴言一八・二一)

 ──地上楽園の午後。ここには二七篇の詩作品が収められている。わずか四行の短篇詩から二
五六行の長篇詩まで、実にさまざまな形式や内容をもった詩作品が収められている。読み手はそ
れを手に取って、こころゆくまで味わうことができる。なかで、もっとも美味なるものは、二五
六行にわたって展開される長篇詩「友だちがまた一人死んだ」である。これは、ただ筆者の憶測
にしか過ぎないが、この詩の題名にある、友だちとは、おそらく吉岡実氏のことであろう。しか
し、それにしても、この詩人の嘆きは、(あえて、この詩作品の表現主体は、とはいわない。)な
ぜ、こんなにも美味なのか。近しいものがこの世を去ることほど悲しいことはない。かつて妹の
死という悲しみが、宮沢賢治の胸のなかで、美味なる詩の果実となったように、親しい友人の死
という悲しみが、大岡信氏の胸のなかで、美味なる詩の果実となったのであろう。悲しみの果実、
その美味なる果肉を一齧り、


 《その人は種を携へ
 涙を流していでゆけど
 束を携へ
 喜びて帰りきたらん》   
 (詩篇一二六)

 そのやうに人は生まれた
 だがいつの日に
 しんじつ束を携へ
 喜びに帰りきたらん?

 生まれ落ちた瞬間から
 ぼくらは種を
 運ぶ人であるよりも
 運ばれていつか
 どこかに転がり落ちるだけの
 旅する種ではなかったか


 そうか、わたしたち自身が種であったのか。逆説的なこの詩句に、とてもつよく惹かれる。こ
ういった逆説的な視点、あるいはapproachの仕方は、大岡氏の詩法の根幹をなすものであり、
この長篇詩だけでなく、『地上楽園の午後』に収められた、すべての詩篇において一貫している。
ユリイカ76年12月号(「大岡信」特集)所収のinterview欄に、「ひとつのことを考えると、ど
うしてもその裏側を考えなくちゃいられない、そういう精神的な習性が身について」いるという、
大岡氏自身の発言があるが、改めてそのことを確認した。また、大岡氏の詩法を前掲のinterview
欄における、大岡氏自身の発言をcollageして解すると、「二元論的な問題をまずつか」み、「二
つのおよそ何か次元の違うようにみえるものを統一する視点」から詩を構築する、というような
ものであるが、同欄には、また、氏自身の、「徹底して矛盾したものが何よりもよく一致してる
ような状態があれば、それが」「絶対というもののイメージだと思う」という、何やら、三位一体
論を彷彿とさせるような言説もある。ちなみに、三位一体論とは、父と子と聖霊が神の三つの位
格であるとするキリスト教の神概念であるが、そこでは、キリストの存在とは「この世に全き人
として存在した全き神である」と定義されている。(高橋保行著「ギリシャ正教」第二章)人で
あると同時に神であるイエス・キリスト、これこそ、氏の語る、「徹底して矛盾したものが何よ
りもよく一致してるような状態」即ち「絶対というもののイメージ」そのものではないだろうか。
どうやら、大岡氏の詩精神の在り処には、聖書世界のvisionが重要な位置を占めているようで
ある。これまでも、大岡氏の詩作品の中には、詩語の出自が、聖書のどこにあるのか容易に知る
ことのできるものが多々あった。もちろん、この『地上楽園の午後』という最新詩集のなかにも、


 かんたんな話ではない
 地上のすべてを押し流す大洪水の
 まつただ中でノアのやうに
 箱舟にまる一年も閉ぢこもるなんて
                                (「箱舟時代」第一連)

という連からはじまる詩作品があり、最初に引用した「友だちがまた一人死んだ」という詩篇
のように、聖書の一節を引用し、それを軸として展開した詩行をもつ詩作品もある。「言葉の現
象と本質──はじめに言葉ありき」のなかに、氏の、

 
 われわれは自分自身のうちに、われわれを所有しているところの絶対者を、所有しているのだ。


という文章があるが、これなどは、小生に、


キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
                             (ガラテヤ人への手紙二・二〇)

という、新約聖書の聖句を思い起こさせるものであり、さらにまた、先に引用した氏の文章の
後にある、


 われわれの中に言葉があるが、そのわれわれは、言葉の中に包まれているのである。


というところなどは、パスカルのつぎのような文章を思い起こさせるものであった。

 
空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私
が宇宙をつつむ。
(『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 パスカルは、いわずと知れた高名な自然科学者であるが、また信仰心の篤いキリスト教信者で
もあった。『パンセ』の断章三四八にある、この文章のなかの「宇宙」という言葉の背後には、
「神」の如きものの影像が垣間見える。
 
 ヨハネによる福音書一・一に、「言(ことば)は神であった。」という聖句がある。大岡氏は、
言葉は絶対者である、という。小生には、氏の見解が、福音書作者の視座に極めて近いものに
思われるが、如何なものか。

──地上楽園の午後。あらぬところに思いを馳せた午後であった。

文学極道

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