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作品 - 20170506_527_9597p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「詩」および「批評」および「鑑賞」

  Migikata

   詩1

だからこれさえもああなってしまった
と思うと抑えきれず
立ち上がって
あの人のそれを夢中でああしていた
あの時の僕、そうするしかなかったのか、僕

今、この地を巡る季節
あの日の街路樹が、今はこんなだ
姿をすっかり改めているじゃないか
風が叫ぶように、降るもの同士が交わすそれのように
あるいは波のように
ずっと昔からついさっきまでの僕が
今、背中から僕を苛み、これもまた巡る
立ち止まる場所は何処にもない
かつてきっと、あの人がそうだったように
残されてしまったそれが
僕を眠らせない
どうにもさせないし
どうにもならない
なることはない

なぜ、僕は自分の知らないところで罪を得たか
いや
そんなことよりも
あなたのあのあられもない恥辱に寄り添いたい
あの時のあの苦痛をともにしたい
止まってしまった時計を握っていると
この地を取り巻く山川草木の総てが
僕たちの間を取り巻く時空を越えて
動く
音を立てる
また動く
僕も動いている
声を上げている

それが今


批評1
 この作品は重要な部分に何一つ踏み込まず、物語の顛末を置き去りにして感情だけが空回りしている。「これがあれでああなった」といった挙げ句に、何が「恥辱に寄り添いたい」だ。何が「苦痛をともにしたい」だ。まったく馬鹿げている。これでは読み手の共感を得ることは出来ない。中学生的な自我の垂れ流しに留まる。表現というものに一から向き合い直した方が良い。

批評2
 現代詩には必ずしもメタファーは必要でなく、作者の想定する解釈に読み手が従う義理もない。「詩」そのものの需要層がごく少数の好事家の間に限定されてしまった現在の状況では、「現代詩史」を踏まえたアカデミックな正統性が意味を失っているからだ。だが、語を解釈するのは読み手の権利であり、読むという行為に約束された愉楽でもある。この詩の、解釈の余地もない単純な感情指示の全編に渡る羅列の、どこに解釈の余地があるというのか。具体的な事物の存在に繋がらない指示語を過度に含む「詩句」は、自ら本来あるべき文脈の流れを絶っている。「詩」になるか否かは、主題の開示の後の段階の話である。

鑑賞1
 ここに描かれているのは「僕」と「あなた」との間の、閉鎖的な関係性である。描いていない振りこそしているけれど、二人の間にあるのは変態的な性行為である。変態行為は個体の関係性の中でのみ成立し、その関係性が壊れたとき、名手の手で半身に切り取られた魚がしばらく水槽で泳ぐように、グロテスクな感情が構成した内的宇宙がほんの少しの間読み手の感覚の中を蠢くのだ。そして死ぬ。この詩は作者の体験にも読み手の体験にも深く根ざさない以上、程なくして忘れられる作品である。せめて読者は忘れ去るまでのほんのひと時、その暗い快楽を作者とともにしたい。

鑑賞2
 詩の読み手というものは、どういう訳か自分の解釈を狭い場所に閉じ込めたがる傾向がある。これは明らかに反戦詩だ。戦争を知らない世代が、今や年老いて晩年を迎えつつある戦争世代に向けて、惜別の辞を述べているのである。戦争に対して、一方的な幻想を持ってしてしか対処できない安倍内閣の描く未来に対し、より生々しく死者と生者の感覚に繋がることによって異議を唱えている。誰も言わないことであるが、先の大戦による死者の大半は無駄死にであった。一人一殺どころではない。大陸や離島で食糧補給もないまま病気や怪我で死んだ者、効果のない「特攻攻撃」で何の成果も上げられずむざむざ敵弾に倒れた者。安全軽視の消火指示で空襲の逃げ場を失って死んだ者。生き残って道義を失い、人を手に掛けてしまった者、狂った者。そういう人々の記憶に作者は繋がろうとしているのだ。
 それが明示されていないというのは、読者が試されているのである。自分たちの親や祖父の世代の受けた恥辱と痛苦に対して、誰が誰にどういう形で責任をとらせたというのか。この国の人々の恥辱と痛苦は狭い関係性や閉鎖的な性ではなく、もっと直接歴史と生活の上流にある生の営みに繋がるべきなのに、誰もそれがわからない。
そのことをこの詩は告発している。

批評3
 表現に対するシニスムが開陳されている。言葉は指示する文脈が明確になればなるほど、既存の文脈の中に回収され、他の何かと置き換え可能な既製品として消費されるしかなくなる。美術や音楽と同様に新しい表現が無限に模索され、新しさそのものの価値が作品の価値を上回る事態は、一部の突出した意識を持った層の暴走ではなく極めて生真面目な詩の価値の探究の結果に他ならない。その新しさから置き去りにされた「大衆」は、進歩というよりも目先の変化の波に揺動しつつ無限の消費を繰り返させられているのだ。
 「この」「その」「あの」という近称・中称・遠称によって核心を欠落した感情の枠組みに対し、読み手は批評者と鑑賞者に分けられる。いやむしろどういう態度をとるか、という旗幟を明確にすることを迫られるのだ。あるいはまったく読まないか。だが、この作品は「読まない」読者をも想定しつつ存在しているのだ。その存在を夢想だにしない時代の人類に対してもブラックホールは存在し、影響力を持っていた。敢えて言うと、この作品は文学作品というものの形をとった躓きの石である。

文学極道

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