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作品 - 20161212_335_9342p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


未女/ロールメロンパンナ複合

  澤あづさ

『メロンパンは未完成』と『焼きたて!!ジャぱん』で読んだのちコンビニで見た。メロンパンのつらの皮。降って湧いて去りまたもパン屋へ降りたシナモンロールに、凍りついている顔射の聖痕。男根畑へ散種したのが、たしかアクアシティお台場だった。ソニーでQRIOの踊りを見たあと、シナボンでげんなりしたのだから。

「それで、きみ、名前は。」
「ぼくはぼくだ。きみはきみと呼べばいい。」
「しかあれかし。」

所与。処女だったころカラオケで熱唱しながら、渡辺美里の『My Revolution』を男装の麗人と思い込んでいた。人を「きみ」呼ばわりする女を、ベルばらくらいしか知らなかった(アントワネットよりはオスカルのほうがましだ)からだが(マリーは?)『聖体でないならシナボンを食べればよいのに。』ミルクに薔薇を浮かべたような頬。顔射に薔薇のまみれたような化粧。百合から薔薇が咲くような比喩(掛詞)胎児のまま死にQRIO聖(きよら)なる。

「この丸いのがリンゴで、あの長いのがヘビだ。ぼくが名前をあげた。」
「わたしの名前は。」
「きみはきみだ。なにせほかにきみがいない。」

おもむろに、聖母と言えば百合。一世紀のイスラエルに百合はなかった。チューリップなら咲いた咲いたがそのチューリップもあのチューリップではなかったのですべからく。百合たるべきだった。(いま「おもむろに」と「すべからく」は本当に読まれたのか?)知恵の実がバナナでも、フルールドリスがアイリスでも同じく。ありさえすればよかった。ベルばらでは顔射を断れない。フランス人は神を「tu(きみ)」呼ばわりし、聖書は女性同性愛を知らず。

「しかあれかし。」

アダム(つち)に対しハヴァ(いき)の名は、創世記3章20節によれば、失楽園ののちアダムに定義された。同3章19節までかの女は、同2章23節に『人(イシュ)から取られたもの(イシャー)』と書かれた骨肉であった。その息により命は僕(しもべ)と吹き込まれたのである────対立する、と思い込んでいるその他を、踏まねばあたしへ行き着けない。知恵の実を食ったのでいまさら。

「ほかのきみが生まれるのなら、ぼくが名前をあげる。」
「わたしがあげる。」
「ぼくがあげるのはきみのきみじゃない。きみだ。」

女性歌手の「きみ」に違和感もない。なにせ女性歌人が『君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時』(与謝野晶子)『も少しを君のかたへに見る海のなにも応へぬ波音を聞く』(寺尾登志子)『君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ』(松尾まつ枝) 歌い継いでいる「君と僕」パン工場が魔女を焼いたように妹(いも)よ。女の末(創世記3章15節)よ。



妹よおまえが
先に生まれた

「もし世界にきみとぼくしかいないなら、ぼくらに名前は必要ない。地が妻を名づけた辻褄、ふたりではないと知っていただけだ。ジャムおじさんと愛の花の蜜のように、君と僕と。きみ。いきの絶えた対称を。ぼくが君ではないあかしに。」

夢が
ありすぎた
おまえの、めぢからを縁どる
焼き印に
蜜月に似たもろさがあった
剥がされるため化けたい皮の
人為的な弱みが

ロールパンナ(善)「見上げると空に雲が走り、いつどこにでもいる娘を象る。空のもとに海として母が映る。やがてひえびえと、娘が母の手を取るだろう。そのようにすでに、みなそこへ引き上げられた。どこから来ようと川が海へ束ねられるように。そこが息の束だった。」
メロンパンナ(飛行中)「見下ろすと海に波がうねり、いまそこにいる妹を象る。雲を姉として下へ妹が降る。やがてさめざめと、妹が姉の手を採るだろう。そのようにまたも、水底へ引き下ろされる。どこから降ろうとあめがつちへ束ねられるように。それは息の束なのだ。」
ロールパンナ(悪)「書きたいことしか書かれなかったあかしに。」

神から、割愛された
悪心
わたしはおまえの悪阻である
御前、花から生まれ
女からは生まれなかった

「作者よ君が女だとして、きみが生んだと言えるのか。植えつけられた男根から、どこまで行っても父しか来ない。この大根畑にすら花が咲くのだった。十字架様に。犠牲を根深く磔けるためにかつて。火刑の女囚が空を飛ぶという、夢が魔女と呼ばれ狩られた。去勢不安である。働き蜂が夢を飛ぶならそれは去勢不安である。ほうきのように束ねられて羽が、百花蜜から去りますように。様に。」



『美しい飛行の夢を、一般的に性的興奮の夢、勃起の夢として解釈しなければならないことに胸を痛めないでください。』
『女性でも飛行の夢をみるではないかという抗議をなさってはいけません。われわれの夢は願望を充足させたいと望んでいるものであること、しかも男性になりたいという願望は、意識すると意識しないとにかかわらず、女性には非常に多く見られることを思い出してください。』
(フロイト/高橋義孝・下坂幸三郎訳『精神分析学(上)』岩波文庫一九七頁)

『女性のかくも偉大な曖昧さは男性的な明確さや明瞭さの反対物として切望されている』
『彼女の欠点が大部分彼自身の投影から成り立っていることには、幸せなことに彼は気づいていない』
(ユング/林道義訳『元型論』紀伊国屋書店一四〇頁)

『悲劇の意味がますます失われてゆく社会形態の中では、いつまでもその公演のポスターが貼られ続けることはありえないであろう……。いかなる祭典をももっていないのであれば、神話は生命を維持しえない。精神分析はオイディプスの祭典ではないのである。』
(ドゥルーズ、ガタリ/市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社一〇六頁に、ラカンがオイディプス概念(エディプス・コンプレックス)についてのフロイト神話に対して、上記の警告を発したと書かれている。出典は書かれていない。きっと機械状に無意識の引用だった。)

『確かに夢はオイディプス的』
『volerの二重の意味での、飛躍と窃視のあらゆる対象』
(上掲書三七五頁と、河出文庫の宇野邦一訳『アンチ・オイディプス(下)』一八六頁を確認した結果、あたしの都合ですっかり二次創作した。)



百合そのふた重の花被を「男根がなければ愛せませんか?」二冊もろとも原作レイプする。「お姉ちゃんの生地ハァハァ、」妹も母もなく。「ラブメロンジュース顔射!」母も父もすらなく。あたしは男根畑ではない、と言いたいだけならだれでも言えた。どうとでも言えた。無意識って意訳でほんとは「それ」なんだよ。das Ich und das Es、まごころとばいきん、愛と勇気だけが機械状の精神。原罪って誤訳でほんとは「的はずれ」らしいよ。フロイトはユダヤだったみたいだけど、ああ。デリダも。

注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』(ソレルス論)法政大学出版局五二一頁
注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」終連初行
注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』(ツェラン論)ちくま学芸文庫五九頁
注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節

『あなた方に語りかけているのは誰なのか。それは「作者」でも「語り手」でも「機械仕掛けの神」でもなく、スペクタクルの一部をなすと同時にそこに立ち会ってもいる「僕」である。』(注1)『禁治産者の宣告を受けた唇よ、語れ、』(注2)『ある語る口のまわりに、この唇=傷口はくっきりと姿を現わす。』(注3)『婦人たちには語ることが許されていません。』(注4) あたしが歌えば罪だから詩にした。パン工場が魔女を焼いたように。束ねられて息がめぐらされませんように。

文学極道

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