#目次

最新情報


選出作品

作品 - 20161201_949_9304p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 こうなるとフェルナンドの狂的な公理の一つを認めないといけなくなる、偶然などありはしない、あるのは宿命だという。人は探しているものだけを見出すのであり、心のもっとも深く暗いところ、そのどこかに隠れているものを探す。そうでなければ二人の人間が同一人物に会ったとき、どうして二人の心に必ずしも同一の影響を与えるわけではない、そんなことになるのか? どうして革命家に会ったとき一人は革命に参加し、一人は革命に無関心のままでいるというようなことになるのか? それはおそらく人は最後には出会うべき人間に出会うことになっているからに違いない、したがって偶然というものは極めて限られたものとなる。わたしたちの人生においてまったくびっくりするような出会いというものは、たとえばわたしとフェルナンドの再会は、無関心な人間のあいだを通してわたしたちを近づける見知らぬ力の結果にほかならないのであり、それはちょうど鉄の粉が少し離れたところからでも強力な磁石の磁極に向かって引きつけられるようなものであり、仮に鉄の粉が現実を十分に把握しえないまでも自分の行為が少しでも理解できるとしたら、その動きにおそらくびっくりすることになるだろう。
(サバト『英雄たちと墓』IV・3、安藤哲行訳)

偶然なんです。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

(…)ある未知の展覧会で行きずりの偶然に──というのは彼らはいつもすべてを偶然に見るからだが──出会った、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳)

 ある古人は、「われわれは偶然にまかせて生きているのだから、偶然がわれわれにたいしてこれほど力を持っているのは驚くにあたらない」と言っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

頭のなかに全体のかたちを持っていない者にとっては一片一片を並べあわせることができない。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

哲学は、われわれのうぬぼれと虚栄をたたくときほど、その決断のなさ、力の弱さ、無知を率直に認めるときほど、すぐれた働きをすることはないように、わたしには思われる。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 りっぱな魂とは、普遍的な、開放的な、すべてのことにたいして用意のできている、教えこまれてはいなくても、少なくとも教育のすることの可能な魂のことだ。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

きみは生まれてまだ四日目なんだぞ──
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)

その四日だけでもうたくさんだった。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

四日もあったじゃないですか。
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

四日間の空白を思うと、
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

また私です。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

 さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。もしその女が健康なら、その健康を損なわせる。その女があなたを愛せば愛すほど、あなたはつらくあたり、野蛮にふるまう。その女が「大好きよ」とあなたに言った瞬間から、もうお決まりのことが始まるの。つまり、その女が耐えられなくなるまで痛めつけるのよ。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

四日間の旅、あと二十四時間です。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』上巻・2、小隅 黎訳)

 いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうした積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・29、小隅 黎訳)

きみには、何が見えるんだね?
(フレデリック・ポール『マン・プラス』10、矢野 徹訳)

四日後ではなく、
(フレデリック・ポール『マン・プラス』17、矢野 徹訳)

このつぎで四度めになるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下巻・第十部・125、酒井昭伸訳)

四日目の朝、わたしたちは眩しい日ざしで目をさました。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

 だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。
 どうしてわたしは気づかなかったのだろう?
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

「いっしょに歩こう」と、彼はいった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』17、浅倉久志訳)

(…)アリスは(…)考えたこともなかった。なにもかもひどく面くらうことばかりだった。そしてアリスは、自分が面くらうのが好きだということをわかっていなかった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』36、細美遙子訳)

 詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第三部・32、酒井昭伸訳)

理解は言葉を必要とする。物事のあるものは言葉にまで引き下ろすことができない。言葉なしでしか経験できない物事がある。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

そのような仮定の後ろには、言葉による信仰があり、(…)
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

あなたの考えによると、鳥のいない世界では、人間が飛行機を発明したりしないんだろう! あなたはなんて馬鹿なんだ! 人間は何だって発明できるんだ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

 アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳)

四という数になにか魔術的な意味がこめられていたのだろうか、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

(…)歯痛というのは日常茶飯のことなのに、ふしぎと文学ではあまり取り上げられない。歯痛を扱った作品としては『アンナ・カレーニナ』と『さかしま』と『ブッデンブローク家の人々』の三つぐらいしか思い浮かばないが、これらの小説では奥歯の痛みが忌わしい悪として語られている。おそらく歯痛が卑俗なものであるからだと思うが、それにしても上記の三作がいずれも優雅、上品、洗練された小説であるというのも奇妙なことである。それにひきかえ、結核のほうは文学作品の中で、克明に描き出されている。(…)
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

 ベルナンド・イグレシアスは、教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というものは人を救ったりはしないものだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

いったいあなたは恋をしたことがおありになって?
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・1、野田昌宏訳)

ぐんにゃりと折れ曲がっている。
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第三部・1、野田昌宏訳)

大きくなってくる。
(ニール・R・ジョーンズ『双子惑星恐怖の遠心宇宙船』第一部・6、野田昌宏訳)

愛というものはうつくしいと同時に残酷なものです
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・4、野田昌宏訳)

でも必ず愛は勝つのね、そうでしょ?
(タビサ・キング『スモール・ワールド』14、みき 遙訳)

愛はすべてに打ち勝つ、と人はいう。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上巻・4、浅井 修訳)

美しさへの愛って、それほど強いものなのか?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第三章・1、冬川 亘訳)

 ラテン語の引用をするのもこれが最後、許してくれ。『愛はすべてに勝利する(アモール・ウインキツト・オムニア)』。ただし例外は不眠症(インソムニア)だけ。
(G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)

 ある日を境にして急にまわりの雰囲気が一変するというのは誰しもが知るところだろう。
(ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳)

 クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)

 もちろん、長期療養の後では、勤務はつらい。しかし、レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。
(ミュリエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳)

 きのうの乞食はきょうの名士。ラビの女房は御者になる。馬泥棒は戻ってくれば共同体の長老だ。畜殺人は雄牛になって帰ってくる。
(アイザック・バシュビス・シンガー『死んだバイオリン弾き』4、大崎ふみ子訳)

こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

その物語が、なにかほかの意味だということはないのかね?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第七章・3、冬川 亘訳)

 イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが乾いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳)

 もしかしたら、知るということは、こうした事柄のうちでは、いちばん重要な部分とはいえないのかもしれない。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

 それほどまでに執着を持ってしがみついているのは、偏狭というものかもしれない。おれは、この偏狭さのために、なにかを失っているのかもしれないな。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』9、船戸牧子訳)

天国が公平なところだってだれがいいました?
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』49、細美遙子訳)

 母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めたる歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。正しい光のもとで注意深く観察しさえすれば、その人の日常を彩る恐怖や希望や喜びを知り、その人がひた隠しにしている肉体的快楽のよりどころと結果を見抜き、その人に影響を与えた人びとのおぼろげな、しかし長く消えることのない反映を読みとることができるのだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)

(…)骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は眼の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。そのため誰かが死ぬその瞬間、肉体は突然何か別のものに、《同じ人とは思えない》と言いそうになるほど異なったものになるのだが、一瞬まえと、つまり、魂が肉体から離れるあの神秘的な瞬間の一瞬まえと同じ骨、同じ成分なのだ、そして、魂が離れると肉体はちょうど後に残された家のように生気を失くしてしまう。そこに住み、そこで苦しみ、愛しあった人々が永久に離れたあとの家のように。つまり、家を個性づけるものは壁でも天井でも床でもなく、会話を交わし、笑い声をあげ、愛情や憎悪を抱きつつそこで生を営む人間なのだ、非物質的とはいえ深遠な何か、顔に浮かぶ頬笑みのように物質的ではない何かで家を満たす人間なのだ、むろん、それは絨毯とか本、あるいは色といった物質を通して表に現れる。なぜなら、壁に掛けられた絵、ドアや窓に塗られた色、絨毯の模様、部屋に生けられた花、レコードや本といったものはそれが物質であるとはいえ(ちょうど唇や眉が肉体に属しているように)、魂を表明するものだからである。つまり、魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない、これが魂のもつ一つの脆(もろ)さであり、また、奇妙な精妙さである。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

牛についてなにを知っている?
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)

馬鹿な牛たちとは
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』9、小川 隆訳)

神聖な牛だ。
(グレッグ・ベア『斜線都市』下巻・第三次サーチ結果・21/、冬川 亘訳)

うるわしき雌牛たちよ!
(イアン・ワトスン『我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ』美嚢 透訳)

沈黙がつまりは正式な自白になる瞬間を待ちうけていた。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

夕闇がせまっていることに彼は気づいた。そして帰ってきた自宅は、これまで一度も暖炉の火をつけたこともなければ、暗がりに浮かびあがる家具がほほえみかけてもくれないし、だれも涙を流さず、だれも嘘をつかない場所だった。
(ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳)

 あきらめることができたら、きっと目が開かれて、しあわせになれる。くよくよしないで。まだ若いし、何年か苦しんだって損はしないさ。若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?
(コードウェイナー・スミス『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)

エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることができなかった。
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳)

もしかすると、それこそが、あなたってひとなんじゃないかしら、あなたが記憶するものが
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

世界は物語でいっぱい
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』15、野口幸夫訳)

思い出というのは、わたしたちにいたずらをするものよ
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

(…)性は渾然一体になることができず、その混淆と自然の潮流へわれわれを同時に連れて行ってはくれないのだから、とあんたに教えたのであった。つまり、その区別があってはじめてわれわれは互いに寄り添い、それを取り戻すために離れ離れになり、そして別人であるが故にまた触れ合いを求める、そのためにこそわれわれはばらばらであることを赦されているのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「それに場所よ。どんなところでも、たとえ想像でもいいから、あたしたちがふたたび生まれ変ることができるような場所があるはずだわ」
「場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。(…)」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。
(ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳)

(…)永遠の業罰の静けさの中で、わたしはむせび泣いた。わたしの嘆きに比べれば、宇宙は小さなハンカチでしかなかった。
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

「ああ、心は鳥のよう」と女はゆっくり音楽にあわせて体を揺すりながら、静かに口ずさんだ。「あなたの手にとまるわ」
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』5、小川 隆訳)

(…)しかし、そんなことは、彼にはどうでもいいことだった。滅ぶべきジェマーラが崩壊してしまうことさえも、彼にはどうでもいいことだった。彼のなかには、風がたえず埃を撒き散らす乾いた土地、埋もれた宝、人間の体がもぐりこめるような、あの空っぽの水盤などがあった。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

彼は存在していたのだろうか?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

きみは存在しているの?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

 気に入りませんな、人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並べ替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。
(コリント人への第二の手紙五・一七ー一八)

ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)

 ときどきほんとうに、あれは夢にすぎなかったのだと思うことがあります。着ているもの、手の動き、話すときの口つきまで、なにもかもありありと眼前にうかんで見えるからです。こんなに物のかたちが見えるのは夢の中だけですもの。目覚めている昼間には、細かいところに注意するひまがありません。あまりに多くのことが起こりすぎるので、片っぱしから忘れていきます。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

われわれがいいかげんな存在だからさ。
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』15、斎藤伯好訳)

恐怖ほど長く持続するものは何一つない。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いったんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三ー一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」民族の興亡常ないが、その興亡のあとに殘るものは、その民族の持つ美である。そのほかのものは皆、傳承と記録のなかに殘るのみである。「美を高める民族は、人間の魂と生命を高める民族である。」
(川端康成『ほろびぬ美』)

「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。
 彼女はひどく早口で言った。
「この画集を買うだけのことはあったでしょ、ね?」
 その言葉がどんなに自分を喜ばせてくれたかを隠したいと思って、彼は軽い《ああ》という感嘆詞を抑えつけた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめていらっしゃるんですの? ……」
 なにを彼が見つめていたか? 解きがたく縺れあった彼の権利と彼のさまざまな過ちを。イレーヌにさまざまなことを説明してもらいたいという望み、というよりはむしろ、イレーヌではなく、《誰か》に、同時に彼女でもあり彼でもあるような誰かに、彼女よりもよく、彼よりもよく、彼ら二人を一緒に合わせたよりもよく理解できるような誰かに、それを待つことで彼が生涯を通してきたあの《同時代人》、そして今日エルサンのために彼ができることならそうなりたいと思っているあの《同時代人》に、さまざまなことを説明してもらいたいという望み。そういう公平な人間を、争う余地のないあの判断を彼はあまりにも当てにしすぎていたのだろうか? 彼は嫌らしいほど純朴だった。そうだ、少なくともこのことだけは彼も理解していた。すなわち、純朴さも嫌らしくなることがあり得るということだけは。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

 ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。波しぶきがあびせかかった、クジラのように大きな波が、しかし海は静まりかえっていた。光がまぶしかったが、あたりはもう夜のやみだった。
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳)

 世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳)

裏切りは人間の本性ではなかったかな?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)

きみがそう思うのは、そう思いたいからだ。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』〈銀河系の道〉、宇佐川晶子訳)

 聡明(そうめい)な人生の目的は同じ時代を生きる人たちの教訓になるように失敗してみせることである。なぜなら人は決して勝利からは学ばず、敗北からしか学ばないからである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第6部、小中陽太郎・森山 隆訳)

 愛というのは誰か好きな相手がいて、その相手と会えなくなることだ。そして再会すること
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

なんのことはない、子どもの遊びである。そしてぼくたちはふたりともそのことを笑う。とはいえ、彼女は本当には笑わない。それは一つの微笑である。静かな、献身的に──ちょうど同じようにぼく自身も微笑するのだろうと思う。
(エーベルス『蜘蛛(くも)』上田敏郎訳)

不潔きわまる貧民窟にも夕日はさして、人の想像力をかき立てたことだろうし、また、山の尾根で、大きな谷の上で、あるいは崖や山の中腹で、あるいはまた不安と恐怖の美に満ちた海のそばで、人びとは、未来の生のすばらしい姿を心に描いていたにちがいないのだ。花びらの一枚一枚、陽を浴びた木の葉の一枚一枚、あるいは子供たちの生き生きとした動き、また、人間の精神が自己を越えて芸術に高まる幸福な瞬間など、こういうもの全部が、希望の材料となり、努力への刺激となったにちがいない。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)

「話をすることが」と彼はまた言った、「それが一緒にいるいちばんいいやりかたかどうかよく分りませんけど……」
「話をしないことがですわ……」と彼女はまずそう言った。
「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、「どんな欲求でも、もしそれに逆らうものがあれば、とてつもない強さにまで高まるかもしれない」
「分ってますわ」と彼女は言った、「水を飲みたいとか、道を歩きたいとか、裸になりたいとかいう欲求ね……」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)

人はなぜ本を書いたり、絵を描いたり、歌をうたったりするの? コミュニケートするためじゃない。芸術を作るためよ。魂から魂に、心から心に語りかけるためだわ。分かちあうため……分かちあうためよ……
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』ひとりの天井は、もうひとりの床、宇佐川晶子訳)

精神とは肉体に拘束されたものではないのだ。知性とは頭(ず)蓋(がい)骨(こつ)の中に閉じ込められているものではないのだ。自分が望みさえすれば、考えは頭の中から外へと飛び出し、まるで輝くレースが広がるように絶え間なく成長してゆく。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

 ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

いまやわれは独り地上にあって、この大地はわがものなのだ。
草木の根はわがもの、暗くしめった蛇の小道にいたるまでも。
空と鳥の小道の枝々もわがもの。
だが、わが自我の火花はわがものの領域を超えている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・21、宮西豊逸訳)

スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

わたしを選びたまえ。
(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)

このわたしを
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.