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作品 - 20161107_549_9246p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十月一日 「至福の二日間」


きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。

あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。


二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」


投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」


10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある

12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。

きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。

「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。

郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。


あるパーティの日
百人の瞳の大きな人間が選ばれ
皿を配られる
そして鳥にされることになる


怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分


ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか
水飴も売っていたかもしれない
だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ
こぶなのだろうか
頭の一部が妙に大きく膨らんでいた


なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。

草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc

もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田の北欧館に行ったとき、階段に入れ歯があって、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。

収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれ編集者の意向かな。


二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」


きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。


二〇一六年十月五日 「邪眼」


悪意を持って眺めると
相手を不幸にならしめることができる
対抗するには
淫らな思念を相手のこころに投射すること
あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること
って
書いてると
ミスター・ジミーから電話があって
老子の
うらみに対しては徳をもって報いよ
といわれた
まあねえ

ファレル
百枚の葉が耳を澄まして
ぼくを見ている
グリム童話のなかで
森の木々が見てる
といったような描写があったような
ぼくの思考が
川のなかの鳥のくちばしのように
夜の
水草のなかを
何度もつついている
そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか
ファレル
ぼくの思考は
ぼくのからだを包む百枚の葉のように
つめたくあたたかい
わかくて老いているころから
わかっていた
流れながらとどまり
とどまりながら流れていた
ファレル
ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ
ぼくの手は
アクアポリスの背景をなぞる
なぜなぞるのだろう
百枚の葉はじつは百羽の鳥だった
百羽の鳥の喉を通して
ぼくは考えていたのだ
ファレル
きみも気がつくべきだった
ぼくにやさしくつめたい
どうしたのかしら
そんなところで
ゴミ箱が隠れてた
ぼくにはわからないんだけど
いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると
ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない
ゴミ箱が人間の形をしてた
にょきにょきと手足を生やして
ぼくのところにきた
ぼくは
ぽこんとゴミ箱をたたいた
ゴミ箱は痛がらなかった
比喩じゃない
比喩は痛くない
人間じゃないから
人間かも
人間なら蹴ったら痛いかも
蹴ってみたら
ぼくはまだ人間を蹴ったことがない
人間以外のものも蹴ったことがない
蹴る勇気をもつことは大切だ
手で殴るということもしたことがない
ものも殴ったことがない
勇気のない者は永遠に報われない

それもいいかもにょ
苦痛がやってきて
ぼくの鼻から入ってくる
苦痛がぼくを呼吸し
やがてぼくの神経に根を下ろす
鈴の音が鳴る
財布につけた鈴の大きさに
月が鳴っている
ゼノサイド
月を血まみれの両の手がつかんでいる
月の大きさの眼球が
地球の海を見つめている
海は縛りつけられた従兄弟のように
干からびていく
宇治茶もいいね
宇治茶もおいしいね
ジミーちゃんと話してるとホットするよ
そてつ
そうでつ
お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える
緊急輸出
脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません
冷凍怪獣バルゴンっていたな
人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら
冷凍ママ
冷凍パパ
なんてスカンジナヴィアで売っていそう
アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし
ペロペロペロッチ
冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし
体以上に固い
体も硬いけどね
冷凍パパが飛行機で到着
到着うんちが便器のへりを駆け巡る
飛行うんちが飛び交う男子用トイレで
マグロフレークが
未消化のレタスと千切り大根の
指令書がファックスで送られてくる
そてつ
そうでつ
冷凍パパと記念写真
携帯でパシャ
パシャ
冷凍ママも
パシャ
パシャ
ハロゲンヒーターのハロゲン
行くのね
ゼノサイド
ちゃうちゃう
おとついジミーちゃんに
ホロコーストの語源って知ってる
って訊かれた
覚えてなかった
うかつだった
焼き殺す
うううん
焼き殺しつくすのね
ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉
螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね
新体操のリボンのように



二〇一六年十月六日 「Fくん」


いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月七日 「脱字」


カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。

アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼砥(はがめと)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。


二〇一六年十月八日 「られぐろ」


拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。

郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。


森の。 雪で遊ぶ人人
めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、
じつはただ一人が居るだけなのだが。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」)


この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと
おびんずるさまになるのかもしれない
この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと

(武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めまて引用した。)


午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる
こんなときだ
ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」)


なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が
アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが
なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)


とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。
https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK

ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。


二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」


頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。

文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。

毎日のように、amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5

11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。

マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。

11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。


二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」


加藤思何理(かとうしかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。


さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。
たとえば、受難室。
逃避室。
遡行室。
転調室。
反復室。
分岐室。
寓意室。
逆説室。
あるいは蛹化室。

(加藤思何理「赤いスパナの謎」)


一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。
https://pic.twitter.com/9jxrhdMero

もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。

カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。


二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」


きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。

このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。

いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。

アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。


二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」


楽天のフリマで
高い本って
どんなのがあるのかしらと思って
さがしていたら
10万円のがあったのよ
マニアスイゼンノマトね
って思った
そのときふとした疑問がわきおこった
日本語って難しい
スイゼンってどう書くのかしら
スイはわかる
垂れるって漢字
でもゼンはわからない
辞書で見てみたら

よだれとも読むのね
そういえば
あったわ
バナナの涎
そうよ
バナナよ
バナナ
バナナなのよねー
バナナの涎なのよ
口から垂れたわ
バナナの涎が
バナナ味の涎なのよ
子供のころ

歯を磨いてるときに
口から垂れたのよ
バナナ味の練り歯磨きの涎が
自分の傷口に溺れて
アップアップ
電話のシャワーを浴びて
シャワーを電話に向ける
新しい電話だと思ってたら
昔の電話だった
電話から離れる
フンフン
それでも返事だけはあって
離れられない
ススメ学問
福澤アナ
きょうカキツバタを太田神社に行って
見てきた
なんてことはなかった
帰りに
アイスコーヒーを飲んだ
ネットカフェに寄ると
犬をつれた婦人が
そばを通った
よく見ると
どの席にも
犬がたたずんでいた
ぼくはひとりで帰った


二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」


帰ってすぐに
実母から電話があった
「きょう
 母さん
 死んだのよ」
「えっ」
「きょう
 母さん
 車にぶつかって死んでしまったのよ」
気の狂った母親の言葉を耳にしながら
お茶をゴクリ
「また何度でも死にますよ」
「そうよね」
「またきっと車にぶつかりますよ」
「そうかしらね」
母親の沈黙が一分ほどつづいたので
受話器を置きました
母親も病気なのですが
ぼくよりもずっと性質が悪くて
悪意のない悪意に満ちていて
ぼくのこころを曇らせます
まあ
こんな話はどうでもよくて
郵便受けのなかには
手紙もあって
文面に
「雨なので……」
とあって
からっと晴れた
きょう一日のなかで
雨の日の
遠い記憶をいくつか
頭のなかで並べたりして
読書をさぼってしまいました

キリンはりんごで
グレープはあしかだった


二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」


いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。

いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。

ジーン・ウルフ『ナイト』I 脱字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。

ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』のつづきを読もうかな。


二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」


きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。


二〇一六年十月十六日 「キッス」


青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。

あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。


二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」


きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。

きみやに寄る前にジュンク堂で詩集のコーナーで、いろいろ詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなと思って帰ったら、amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。

きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。

こんな曲を歌ってらっしゃる方だ。

https://www.youtube.com/watch?v=XrPxksvrB2g&feature=share

というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。

ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年まえの写真です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。

そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個はいってて、サービス満点だった。


二〇一六年十月十八日 「20億の針」


ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。


二〇一六年十月十九日 「一千億の針」


『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしくなくちゃね。

『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」


吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った
吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど
話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ
むかしは電話というものがあって
すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが
冷凍庫が普及するにつれて
みな沈黙する間
そこに自分が入るか
相手に入ってもらうかして
沈黙にお時間をやりすごすことにして
コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである
冷凍庫から出てすぐには
頭がはたらかないので
コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている
吉田くんの前にコーヒーを置いて
完全解凍するのを待った
三時間ほどして
吉田くんの意識がはっきりしてから
ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた
アフガニスタンの青年のペニスは
ユリのめしべにそっくりだった
トイレで爆発
ホモフォビアの連中の仕業
スカンクのからだを
けりつづける
骨が砕けて
水枕のようにやわらかくなった
スカンク
ヤンキー風の青年は
といっても二十歳にはまだなっていない
少年は
はじめてのセックスは犬とだった
まじめな顔をして言う青年に唖然とする
ドラッグブルーとドラッグレッドのために
キッズがドクターを襲う
トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年
「どうでもいいじゃないか
あいつらのことなんて
なんで
おれがこんなことをしなきゃやならないんだ
それに
いくらゲイだからといって
こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし
ああ……」
その青年の意識から叙述する
犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち
ゴーストの意識から叙述する
ゴーストには違って見える
一枚一枚の葉っぱが人間の目に
藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に
テロ
トイレで爆発
すぐにニュースが流れる
ハンカチが新聞になる
新聞が語る
そうだ
凍結地雷が
トイレのなかに仕掛けられていた
凍りついた人間犬
犬のように四つんばいになっている奴隷人間
その奴隷人間にしがみついている主人
奴隷人間の首からぶら下がったプラカード
「こいつは犬です
犬野郎です
虐げてやってください
辱めてやってください
小便を飲ませてやってください」
能の舞をする貴族
真剣の刀を振り回す九条家の御曹司
ホモフォビアのテロ攻撃
ドクター
ちんぴらキッズ
テロの爆発のすぐあとに
対話型ニュースペーパーで
犬奴隷が凍結地雷で
凍りついた姿で
トイレの前にいるのを知る
凍りついた犬奴隷に
小便をかけるキッズたち
小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が
じょじょに解凍されていく
ニュースペーパーで
その画像をみる青年


二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」


疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。


二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」


ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。

「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。

でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。

とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。

FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。

ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、「時のないホテル」と「REINCARNATION」。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。

チューリップのアルバムも買った。タイトルは、「Someday Somewhere」。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。

クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。

あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」


言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。

きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8

ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。

いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。

ひさびさに、 VERY BAD POETRY と The World's WORST POETRY のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十四日 「騙る」


ジーン・ウルフ 『ナイト I』 脱字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」  「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。

国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。

ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。

きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、amazon で、『MISSLIM』を買った。

あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト I』を読み終わる。

ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。

ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。

現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。


二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」


ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。

野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。

ジーン・ウルフ 『ナイト II』 誤字 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。

2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものをみた」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。

「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。

ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。


二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」


これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。

塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。

四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。

いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十七日 「脱字」


ジーン・ウルフ 『ナイト II』 脱字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。


二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。

あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト II』あともうちょっとで終わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。

竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。


二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」


森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。

いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!

毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第3巻が1冊、売れたようだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8


二〇一六年十月三十日 「竹田先生」


きょう日知庵で、竹田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。


二〇一六年十月三十一日 「誤字」


今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!

ジーン・ウルフ 『ウィザード II』 誤字 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。

文学極道

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