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作品 - 20161029_116_9212p

  • [佳]  GOLD - 熊谷  (2016-10)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


GOLD

  熊谷


目をつむっても真っ暗になんかならない。この世界はどこかしら明かりが漏れ出していて、真っ暗かと思ってもそれは完璧な暗闇なんかじゃない。目を閉じると、まぶたの外に光があるのを感じる。まぶたに通う毛細血管の赤味と、何とも言えない柔らかい黄色いまだら模様。それは、いつか見たクリムトの黄金色に似ていた。愛情とか、安心とか、生命とか、そういうものを想起させるその色を感じながら、私たちはみな夜を迎え、眠りにつく。そのことは私たちにとって素晴らしいことだったし、とても大切なことのうちのひとつだった。



写真に映ったわたしは真っ白だった。いつからこんなに肌が白くなったんだろうっていうくらい白くて、あらゆるものを反射する勢いだった。夫がカメラの絞りを調節しながら、「背景が白いから、君がどこにいるかわかんなくなっちゃうね」とつぶやく。カメラマンの夫が結婚十周年を記念して写真を撮ろうと言い出したときは少しびっくりした。仕事で写真を撮ることはあっても、私生活で写真を撮ろうとすることは滅多になかったからだ。「表情が硬いなあ」と笑いながら夫は腰を屈めた。ものすごいスピードでシャッターを切る夫を見ながら、カメラマンはこんな速くシャッターを切るのか、とその速度にすこしドキドキした。生まれてからこのかた自分の顔に自信がなくて、写真を撮られることが苦手だったわたしがカメラマンの男と結婚したのも変な話だけど、現像された写真を見れば、わたしが彼のことをちゃんと愛しているというのは見てわかるほどだった。



今年、夫は体調を崩した。前から頭痛持ちだったのは知っていたけれど、頻度が一ヶ月に一回から一週間に一回、そうしてだんだん頭痛がない日のほうが少なくなっていった。ときどきトイレで吐く日もあって、ただの頭痛で片付けられないほど日常生活に支障が出ていた。病院に行くと「脳過敏症」という診断が出された。光や音などの刺激に対して脳が過敏になっていて、そのせいで体にさまざまな不調が起きているとのことだった。フリーランスで仕事を引き受けていた夫はほとんどの仕事を断り、家で寝込むことが多くなっていった。体重も減っていって、何だか鬱っぽくもなっていた。カメラマンという光とともに仕事する人間が、光に敏感になってしまうなんて、一体どんな気持ちで寝込んでいるのかと考えたら、とても悲しい気持ちになった。そんなある日、急に夫の右手が赤く腫れ出して、そこから全身に赤いポツポツが広がっていった。じんましんだ。すると夫は重くて大きい黒いカメラをこちらに渡してきて、「あのさ、俺の写真、撮ってくれないかな」と言うのだった。



ファインダーを覗いても、夫が何を考えて、何を感じて、どんな気持ちでいるのかさっぱりわからなかった。子どもがいないまま春夏秋冬を十回繰り返して、それなりにわたしたちは会話を重ねたし、どうでもいいことでケンカもしたし、それでもこうして見飽きた顔をお互い突き合わせながら、衣食住を共にしてきた。写真を撮り終えると、夫はまたベッドに戻っていく。顔にはまだ赤みが残っていて、触るとその膨らみがありありとわかるのだった。赤く腫れ上がった皮膚に、白いわたしの指が表面をなでたとき、「ごめんな、」なんて夫が言うので、ぎゅっと痩せた体を抱きしめた。このとき、初めてひとつになれたらいいのに、と思った。わたしは頭が痛くなったことがないから、夫がどんな痛みを感じているのか一生かけてもきっとわからなくて、わたしたちはどうしたって別々の生き物として生きていくしかなくて、それがすごくもどかしかった。だけど、目をつむっても完全な暗闇がそこにないように、どんなに夫が弱ろうとも、ダメになってしまおうとも、あのクリムトの絵に描かれた黄金色のように、夫に忍び寄るよくわからない暗い何かから守る、明るく柔らかい小さなお守りみたいな存在として側にい続けたいと強く思う。朝が来ればカーテンをあけて、豆腐とわかめの味噌汁を作って、布団のカバーを洗濯する。夜が来ればお風呂の浴槽を掃除して、干した洗濯物を取り込んで、野菜たっぷりの夕食を用意する。そんな風に、生活の輝きを絶やさないでおきたい。この先、あなたが元気になろうとも、元気にならなくとも、まぶたの裏にあの黄金色が見えている限り。

文学極道

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