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作品 - 20161001_812_9146p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ぼくがさかなだったころ Returns

  ダサイウザム

 詩なんか書くヤツみんなクズ。
 これは十数年来揺らぐことのない私の持論である。
 私自身がクズであることは公言している周知の事実なのだから、類は友を呼ぶということなのだろうか、とにかく私の周りに集まる連中はクズが多い。
 渡る世間はクズばかり、世の中には二種類の人間がいる。
 クズか、より酷いクズか、その二種類しかない。
「ダサイ先生、ファンレター来てますよ。」
 昨日の夕方、しとしとと秋雨の降る中を編集者の葛原君が、詩賊の編集部に届いたという私宛の手紙を持って訪ねて来た。
 封筒を裏返して差出人を見ると、宮澤百合子という名前が書いてある。
「女性のファンが付くなんて、いよいよ先生も隅に置けませんね。」
「何を言ってやがる。いくら私がクズだからって、これでも物書きのはしくれなんだ、そりゃあ女の読者だって一人や二人くらいいるだろう。」
「ダメ男に惹かれる女性もいますからね。先生のその自虐的なところが母性本能をくすぐるんですかね? 私が付いていないとこの人ダメになるみたいな?」
「失敬だな君は。知らん。」
「恋に発展したりなんかして。」
「馬鹿言うな。自分で言うのも何だが、ダサイファンの女なんて気味が悪くて相手したくねえや。」
「そうですかねぇ。ぼくはもっと女性ファンが増えればいいと思ってるんですけど。いや、先生の魅力が読者に上手く伝わっていないということは、ぼくら編集部の責任ですね。」
「何だよ急に。ヨイショしたって原稿料はビタ一文まけねぇからな。」
「先生がもっと有名になってくれたら詩賊も売れるし、そうしたら先生の原稿料も、ぼくの給料だって上がるんですよ。」
「だからさ、わかんねぇかな。きょうび詩なんか誰も読んでないって。」
「そんなことないですよ。少なくともぼくは、先生の作品毎回毎回行間まで読んでますから。」
「当然だろ。担当なんだから。給料貰って詩が読めるってどんな身分だよ。」
「そう言われてみるとそうですね。お金払わなくても詩が読めて給料まで貰えるなんて、いい仕事ですね、編集者って。」
「ほんと単純だな、君は。ういヤツめ。君が女だったら抱いてやってもいいくらいだ。」
「いえ、それは固くお断りします。」
「もう! 徹哉ったら、イ、ジ、ワ、ル!」

 そんな馬鹿話をしながら二人で酒を飲み、先生来月こそは締め切り頼みますよ、おう、まかせとけ私はやる時はやる男なんだ、と、ほろ酔いの葛原君を送り出した後、真夜中、布団に潜り込んで一人でコッソリと手紙の封を開けた。
 ドキドキしていたのである。
 私には女性の読者など皆無であるから、不意に手紙などを貰い、まるで片想いをしている中学生のように年甲斐もなく、それこそギャグポエム『悪目くん』の主人公にでもなったようなソワソワした心持ちで、弱冠緊張もしていたし、まさか葛原君の言うことを真に受けたわけでもないが、妙な期待にあれやこれやと想像を膨らませつつ、丁寧に三つ折りに畳まれた便箋を広げたのだった。
 薄紅色の可愛らしい便箋に、小さく線の細い文字がびっしりと書き込まれている。
 中を読んで愕然とした。

 世の中には二種類のクズがいる。
 こいつは、酷いほうのクズだ。



 *****



 はじめまして、ですよね、ダサイ先生? それともどこかで、お会いしたことがあるのかしら。
 突然のお手紙、失礼いたします。
 ダサイ先生はなぜ、私のことをご存知なんですか? 詩賊6月号に掲載された先生の作品『開襟シャツ』、あれは私のことですよね? どうしてお会いしたこともないダサイ先生が私をモデルにして作品を書かれたのかわかりませんが、若い頃の私の気持ち、心情を余すところなく作品にしてくださり、なんとも気恥ずかしく、嬉しく拝見いたしました。
 どうしてだか先生は私のことをよくご存知のようですので、今さら自己紹介も必要ないこととは思いますが、今後の先生の創作のお役に立てるかもしれません、私の話を聞いてください。

 私は今年で三十になる女です。アラサーですね。ネットで詩を書いています。私はPCを持っていないので、それまでネットの世界というものをまったく知らないまま生きてきたのですが、三年前、携帯をスマホに替えたことを機に、ネットを見るようになり、色々と検索をしていくうちに、『現代詩日本ポエムレスリング』ですとか、『頂上文学』ですとか、様々な詩のサイトがあるということを初めて知ったのでした。
「こんなところに詩人がいる! 」
 大げさな言い方ですが、その発見は私にとっては、たとえばギリシャ、イオニア海の断崖絶壁、入り江の奥の奥にそこだけ陽の当たる白い砂浜、ナヴァイオビーチにたどり着いたような、思ってもみなかった衝撃、興奮でした。長らく眠っていた詩への思い、詩作への情熱が、ふつふつと甦ってくるのを感じました。お恥ずかしい話ですが、私にもこれでも若い頃、ぼんやりと詩人を夢見ていた時期があったのです。

 中学生の頃から私は、学校の授業や全校朝礼など、時間的空間的に自由を制限されるような状況や集団行動に対して、動悸、目眩など、一種のパニック障害、不安神経症のような症状を持っていました。息苦しくなるといつも、死にかけの金魚のように空気を求めてパクパクと大きな口を開けて深呼吸していました。おまけに色黒で目が大きかったので、男子からは『デメキン』というあだ名で呼ばれ、肩を小突かれたりノートを隠されたり、虐められることもしょっちゅうでした。

 高校に入ってからもますますひどく、授業に集中できない状態は続き、教師の目には「やる気の感じられない怠惰な生徒」として映っていたのでしょう、日本史の授業中でした、私は態度を注意されました。
「日本の歴史も学べないとはおまえは非国民か。窓から飛べ。」
 先生は笑いながら言って、もちろんクラス全員、それがブラックユーモアであることは理解していましたが、私は瞬間的に頭に血が昇ってしまい、無言のまま窓枠に飛びついたところで、数名のクラスメートに引きずり下ろされました。こいつなら本当にやりかねん、普段からそう思われていたのでしょう、私は誰とも目を合わせることができず、そのまま黙って教室を飛び出しました。誰も追っては来ませんでした。

 高校二年の秋、十七才。私は修学旅行を欠席しました。二時間、三時間に渡る新幹線やバスでの団体移動は、私にとっては拷問に等しいものだったのです。旅行前日まで担任には何度も職員室に呼び出され説得され理由を聞かれましたが、私は黙秘権を行使する犯罪者のようにひたすら無言を貫きました。私の弁護をしてくれる奇特な人などどこにもいないと思っていました。

 クラスメートが修学旅行へ行っている間、課題を命じられてはいましたが、私はそれにはまったく手をつけず図書室で一人、やなせたかし先生の『詩とメルヘン』を読んでいました。大きな見開きページの一面、きれいなイラストに飾らない詩が添えられ、私はすっかりその世界に魅了されてしまいました。それが、私の詩との出会いです。それ以来、胸の奥に溜まっていく泥を、溢れる血を、グチャグチャにノートにぶちまけることが、私の日課になりました。

 父と母は私が物心付いた頃にはもう折り合いが悪く、毎日のように言い争いばかりしていましたが、私が高三に上がる春休み、口論の最中に母は台所から包丁を持ち出し、手首を切り自殺を計りました。父がすぐに取り押さえ、たいした傷ではなかったようでしたが、私は何だか夢の中の出来事のように、ぼんやりと醒めた目で二人を眺めていました。家族というものは、いえ、人間というものは、バカバカしいほど滑稽で、惨めで、くだらないことに一喜一憂している、顔の前をうるさく飛び回る羽虫のようなものですね。その日を境に母は家を出て実家に戻り、その後、精神病院に入院したと聞かされました。

 それからしばらくして、私はふとしたことから拒食症になり、一日にビスケットを三枚しか食べない日々が続き、二学期が始まる頃にはその反動が来たのか、過食症になっていました。誰もいない家の中で、胃がはち切れそうになるまで無理矢理食べ物を流し込み、トイレで喉の奥まで指を入れて吐きました。けれども、いくら吐いても胸の奥の泥は吐き出すことは出来ず、吐けば吐くほどますます深く、底なし沼のように沈みこんでいくのでした。やがて生理は止まり、体重は41kgくらいまで落ち、体重が減れば減るほどどこかほっとして、浮き出たあばら骨を撫でながらつかの間の安心感を得てはいましたが、それでもどうしても自分のことを好きになれず、周囲の人間とも馴染めず、馴染む気すらなく、自分は人とは違う、人よりも数段劣った人間なのだ、と思っていました。これ以上父親の世話にはなりたくない、顔も見たくない、早く家を出たい家を出たいと願いながら、けれども、人並みに社会に出てOLをする自信もなく、かと言って風俗や水商売には生理的な嫌悪感がありましたし、『生活』という言葉の息苦しさに押し潰されそうで、出来るだけ早く死ななければいけない、いずれ死ぬことが私に出来る唯一の責任、私に与えられた使命なのだと、今思えばなんともバカバカしい青臭い病的な考えですが、当時の私は真剣にそう信じ、思い詰めていました。

 二学期も中頃、秋も深まり校庭の木々が赤く染まっていくように、クラスメートの話題も受験一色になり、皆次々と将来を見据えた進路を決めそれに向かい受験勉強をしている中、私は一人焦っていました。どうせいずれは死ななければならないのだから勉強なんてしたくない、かと言って出来損ないの私には就職などは到底無理だ、今やりたいことと言えばしいて言うなら詩を書くことぐらいだろうか、どこかに学科試験も面接もなく受験できる、詩を書くための大学でもあればいいのに。いくらなんでもそんな虫のいい話あるわけないと思っていたら、あったのです。推薦入試は小論文だけ、O芸術大学文芸学部でした。

 K駅を降りて学生専用のバスに乗り、細く曲がりくねった路地を抜けたところに大学はありました。桜並木の坂道を上りキャンパスに入ると、そこは高校とはまったく違う、自由な華やかさで溢れていました。無事に高校を卒業し大学生になった私は、その伸びやかで開放的な雰囲気の中で人目をあまり気にすることもなく、他人と足並みを揃える必要もなくなり、広場恐怖のような緊張感もだいぶやわらいでいくように感じて、これが何か自分を変えるきっかけになるかもしれないと思い、新しい学生生活に期待もしていたのですが、そこでもやはり私は馴染むことが出来ませんでした。周囲を見渡すと、スキンヘッドで全身黒ずくめの女やサザエさんのような髪型で薄汚い破れたTシャツを着た無精髭の男、個性的でなければ芸術家ではないとでも言いたげな奇抜な格好をした者も多く、地元では『丘の上の精神病院』と揶揄されるほどで、作品そのものではなく外見や言動を少しでもエキセントリックに見せようと張り合っているような馬鹿者たちや、芸術よりも合コンが大事といったようなスーパーフリーさながらの獣たちもいましたし、真摯な芸術家の集団と言うよりはむしろ世間からは相手にされない奇人変人の吹き溜まりといった様相で、もちろん私自身もそういう出来損ないの一人ではありましたが、まだ若く芸術に対して憧れもあった私にはどうしてもそれが許せず、その吹き溜まりに自ら安らぎを求めるのも嫌でしたので、作品を創る者が自ら作品になってどうする、芸術家はただ黙って芸術だけを創ればいいのだと、一人で憤っていました。芸術なんて程遠い、所詮私たちは美術館の片隅で誰にも見られることもないまま錆びていくオブジェに過ぎないのだ、いや、そのオブジェにすらなれない私はいったい何なんだ、と思うと無性に虚しくなり、そのまま授業に出るのもやめてしまいました。昼前に大学に来て、誰もいないところで煙草を吸ったり、夕暮れ、四階の廊下から地面を見下ろし、散ってしまった桜の花びらのようにヒラヒラ舞い落ちてしまいたい、今飛び降りたら明日の朝までは見つからずにいられるだろうかなどと、頭から血を流して地面に倒れる自分の姿を想像したりしました。

 そんな短い学生生活の中で、ひとつだけ記憶に残っている授業があります。文芸学部らしく、創作の授業があったのです。眼鏡をかけたまだ若い准教授から与えられたテーマにそって、原稿用紙二枚の散文を書き、次週、准教授がそれを寸評していくというゼミ形式の授業でした。第一回目のテーマは「自己紹介」でした。小さな教室で准教授を囲むようにして向かいあって座る十五人ほどの学生は皆、作家や編集者を志しているような者ばかりですから、自己紹介程度の散文などお手の物とでも言いたげに、始めの合図と共に、競い合うようにして一斉に筆を走らせ始めました。人生や人付き合いにおいてすっかり卑屈になっていた私は、自己紹介などする気も起こらず、何を書いたらいいものか、しばらく周りの学生が何やら真剣にカリカリと音を立てて書いているのをぼんやりと眺めていました。けれども私もこのまま何も書かないというわけにもいかず仕方なく、自己紹介とはまったく関係のない『ぼくがさかなだったころ』という空白だらけの詩を即興で書き提出しました。次の週、返ってきた原稿用紙を見ると、タイトルの横に赤いインクで、『A+』と書かれていました。最高点でした。A+は二名だけ、と准教授は言い、スティーブン・キングが好きだと言うもう一人のA+である男子学生の原稿用紙のコピー(私は霊を見たことがある、という書き出しで始まるその学生の散文は、段落分けするのも惜しい、というくらいにぎっしりと最後まで文字で埋め尽くされていました。)を皆に配り、それを見ながら講義を進めていきました。最後まで私の名前も、私の詩も、話に出てくることはありませんでした。




  『開襟シャツ』


  人生というのは死ぬまでの間の
  壮大な暇つぶしに過ぎんよ、君

  と助教授は笑った
  日々は青葉のように眩しくて

  言葉はいつも僕に寄り添い
  いつでも僕を置き去りにする

  初夏、汗ばんだシャツの胸元を開け
  風を迎え入れる

  身震いするほど美しい詩を一篇書いて
  死んでやろうと思ってた




(ダサイ先生のこの詩、読んだ時思わず息が止まりました。これはまるっきり私のことですもんね。心臓まで止まりそうなほど驚きましたが、大ファンであるダサイ先生に私のことを書いていただけた喜び、どうしてもお伝えしなくてはと思い、このお手紙を書いています。)

 授業にも試験にも出ないまま一年が過ぎ春休みに入り、私は父に呼ばれました。大きな黒い座卓の上に、不可とすら書かれていない白紙の成績表を広げ、父は言いました。「詩人になるっていう夢は諦めたのか」 いつ私が会話もなかった父に「詩人になりたい」などと告白したのか、それは今となってはわかりませんが、私は恥ずかしさと悔しさで、芸術は人から教わるものではない、自らが感じるものだ、勉強なら大学でなくても出来る、と負け惜しみを言いました。父は呆れたのか諦めた様子で、それ以上何も言いませんでした。学生という肩書きを失い、ひっそりと社会に放り出され、今こそいよいよ死ぬべき時が来たように思いました。母と同じく手首を切ることも考えましたが、今私に必要なのは手段でも方法でもない、死ぬ覚悟なのだ、と思い真夜中、マンションの非常階段を上り地面を見下ろし、煙草に火を付け、それから遠くの灯りをぼんやり眺めたりしました。

 結局いつまでたっても死ねないまま、私は二十歳になり、バイトで貯めたお金をもとに、念願の一人暮らしを始めることになりました。築三十年はたつであろう、ボロボロのアパートでしたが、日当たりの悪い薄暗い四畳半の部屋で一人私は、もう二度と誰の言うことも聞かない、と決意しました。カサカサ、と背後で音がして振り向くと、ザラザラした土壁の上のほうで、赤茶色のゴキブリのつがいが交尾しているのでした。

 バイトの給料が月十万程度の、PCどころかエアコンもテレビも冷蔵庫もない貧相な生活の中、ネットの片隅で新たな詩の世界が広がっていたことなど知る由もなく、私は次第に詩から離れ音楽に傾倒するようになりました。詩は音楽に負けたのだ。詩は歌詞に負けたのだ。本当はただ、私の才能がなかっただけなのですが、どうしてもそれを認めたくなかったのです。『elf』という占いの月刊誌がありそこの読者投稿欄に、ricoというPNでイラストを添えたポエムを投稿し常連になっていましたが、その雑誌もしばらくして休刊となり、また私自身の生活も、フリーターとして何度か転職を繰り返した後にようやく正社員の仕事に就くことができ、あれだけ怖れていた『社会人』というごく普通のありきたりで忙しない日常を送る中で、次第に私は、詩を忘れていきました。詩を忘れることでようやく私もかつての、いずれは死ななければならない出来損ないなどではなく、『普通の人』として生きていく資格を得た、今となってはそんな気もするのですが、果たしてそれが本当に良かったのか悪かったのか、たった二枚の原稿用紙ですら埋めることのできなかった空白だらけの私の詩は、そのまま私の生き方のようでもありました。




  『雨空』

  生まれ変わったら詩はもうやめて
  絵描きになろうと私は思う

  小さな屋根裏をアトリエにして
  来る日も雨の絵ばかりを描こうと思う

  灰青色の絵の中で
  雨に打たれている少女は

  何かを叫ぼうとするのだけれど
  私は詩はもうやめたのだ

  晴れることない雨空で
  いつも私の胸は濡れている  




 詩を書かなくなってからも、完全に詩を諦めてしまったわけではなく、心のどこかで、誰にも読まれなくてもいい、自己満足でもいい、この詩を書くために生まれてきた、この詩があれば生きていける、そんな詩を死ぬまでに一篇だけ書いてみたい、もしかしたら心のどこかにそんな淡い思いがまだ残っていたのかもしれません。空白を抱えたまま月日を過ごし三年前、初めて詩のサイトを見つけた時の私の喜び、おわかりいただけるでしょうか。私はすぐにネットポエムにのめり込みました。今では数人の詩友ができ、皆で同人誌を発行しています。ダサイ先生のことは、そのお友達の一人に教えてもらいました。「詩賊っていう詩誌ができたよ」って。そこで初めてダサイ先生の作品に触れ、すぐに魅了されました。いつかは先生にお会いしてお話ししてみたいと思っていましたが、まさか先生も私のことを思ってくださっていたとは!

 自己紹介のつもりで書き始めたのですが、結局いつもの、感傷的な自己憐憫、自分語りになってしまいましたね。ダサイ先生にはそんなこともすべてお見通しでしょうから、恥ずかしいですが、このまま投函します。

 寒くなって来ましたので、お体には気をつけて。これからも、いい作品を楽しみにしています。MC、マイコメディアン、ダサイ先生。

 それでは、また。おやすみなさい。



 *****


 何が、「それでは、また」だ。
 私はとにかく不快だった。
 今まで、これほど薄気味の悪いファンレターをもらったことは一度もない。
 ろくに眠れないまま一夜明け、日中もあれやこれやと煩悶しながら家の中をうろうろ歩き回り夕方、「どうでしたファンレター?」と嬉しそうにやって来た葛原君にこの手紙を見せると、いつもは場を和ませようと口下手な癖に無理して明るく振る舞う彼もさすがに、「いや、まあ……」と言ったきり苦笑いを浮かべて黙りこんでしまった。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
 どちらからというのでもなく、これではどうもやりきれねぇ、酒でも飲むか、自然とそういう流れになった。

 詩なんか書くヤツみんなクズ。
 詩なんか書いてもクズはクズ。
 残念ながら、詩は、あなたを悲劇から救わない。
 むしろ、喜劇を増すだけだ。

 どうして私にはこうもクズばかりが寄ってくるのだろう。
 認めたくはないが仕方がない。
 自らクズを招き寄せ、クズを糾弾し続けること、どうやらそれが、私のライフワークとなるらしい。
 因果応報。
 死ぬまでやってろ。
 これが喜劇ではなくて何だと言うのか。

 私はちびちびと飲みながら考える。
 葛原君は、名前にこそクズが付いてはいるが、人の幸せを願い、人の不幸を共に悲しむことが出来る、のび太みたいないいヤツだ。
 今はしがないアルバイト編集者として、編集長や先輩たちにパシリのように鼻で使われてはいるけれども、将来的には作家を目指し、内緒で小説を書いていることを私は知っている。
 いつかコイツを、私のようなクズのもとから巣立たせて、立派に羽ばたかせてやりたい。
 私は物書きの先輩として、それは、けして、とても誉められた先輩ではないのだし、反面教師にしかなれないのだが、私には私の背負ってきた美学がある。
 黙って、男の背中を見せてやるつもりだ。
 最近では葛原君も、私が良からぬことを考えていると、勘が働くようになってきたらしい。
 帰り際、振り向き様にこう言った。
「あんまり変に刺激しないほうがいいですよ、先生。どんな相手だかわかりませんから。」
 言わずもがな、そんなことは百も承知、こういう、作品と自身の現実の区別が付かない異常者が、いずれ悪質なストーカーへと変貌するのだろう。
 心配ありがとう、しかし私は、痩せても枯れても無礼派だ。
 無礼の道を突っ走る。
 私は彼女に返事を書いた。

「初めまして。
私はあなたのことなど知りません。
私があなたをモデルにしたなどと、つまらん言いがかりはやめて頂きたい。
大層な身の上話をご披露してくださったようですが、ずいぶん陳腐なフィクションですね。
あなたのような詩に溺れたクズが、私は死ぬほど嫌いです。
酒が不味くなる。
詩は、いや、人生は、私小説くずれの慰みものであってはならないと思います。
ただ、生きてあれ!
ぼくがさかなだったころ?
およげたいやきくんかおまえは!」

 深夜、時計の針はもう一時を回っている。
 返信を封筒に入れ、丁寧に糊付けし、〆、を書こうとしたその時だった。
 突然、携帯の着信音(燃えよドラゴンのテーマ)がけたたましく鳴り響いた。
 こんな時間に誰なのだろうか……。
 妙な胸騒ぎがする。
 葛原君ではない、直感でそう思った。
 まさか━━?
 私は封筒を表に返し、先ほど書いた宛名をじっと見つめた。
『宮澤百合子様』
 この胸騒ぎは、間違っても、恋、などではない。
 得体の知れない恐怖に、私は思わず身震いした。

文学極道

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