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作品 - 20161001_800_9142p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



真実の芸術は偽りの名誉を超越している。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

Verba volant, scripta manent. (言葉は消え、書けるものは残る)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。
それから曲がった火かき棒が
うろついてがちゃがちゃやっても
ボタンを一つ、それから乾パンのかけらを
たたき出しただけ。
ところがそのときボールはひとりでに
奮える闇の中に飛び出して
部屋を横切り、まっしぐら
難攻不落の長椅子の下に。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

 彼は、その態度や高価な衣服からみて上流階級と思われる背の高い美男子がアーヴァに近づくのを見た。彼女はにっこり笑って立ちあがり、彼を小屋に連れこんだ。
 その笑いがいけなかったのだ。
 彼女は、それまでに、自分のところにきた男に笑いを見せたことはなかった。その顔は、大理石の彫刻のように無表情だったのである。いま、この笑いを見たサーヴァントは、何かが体の中にこみあげてくるのを感じた。それは下腹から拡がって胸を駆けあがり、喉に噴きだして息を詰まらせた。それは頭の中に充満して爆発した。彼は眼の前が真暗になり、(…)
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)

一番興味のあることを見落していた。
われわれは毎日死ぬのだということを。忘却がはびこるのは
乾いた大腿骨の上ではなく血のしたたる生においてなのだ、
そして最高の過去もいまや皺くちゃになった名簿や、
電話番号や黄色に変色したファイルなどの薄汚れた積重ねだということを。
わたしは小さな花や肥った蠅に
喜んで生まれかわってもいいが、だが決して、忘れることはできない。
私はこの世の生活の
憂鬱(メランコリー)や優しさ
のほかは永遠性を退けてやるつもりだ。情熱と苦痛。
宵の明星の向うにだんだん小さくなってゆくあの飛行機の
濃い赤紫色の尾灯。煙草を切らしたときの
きみの動揺の身振り。きみが
犬に微笑みかけるときの仕草。銀白色のぬるぬるした
かたつむりが板石の上に残す跡。この良質のインク、この脚韻(ライム)、
この索引カード、落すといつも、
&の形(アンパーサンド)になる この細長いゴムバンド、
それらが天国で新たな死者によって見出され
その砦のなかに長い歳月たくわえられるのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

スヴェンのいうとおりだった。シルヴァニアンはビーズつなぎに苦心する必要があった。彼は手仕事をしている間は、考える必要はなかったのだ。彼の手が、彼の代りに考えるのである。彼が手ぶらで考えなくてはならないような時は、問題はもう解けたと感じている時だった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』29、藤井かよ訳)

彼の異常な活発さは、始まったときと同じ唐突さで消えてしまったようだった。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』4・1、中村保男訳)

 わたしは思わず息を呑み、その拍子にアメリアの長い髪の毛を何本か吸いこんでしまったことに気づいた。途方もなく気を散らせるこの時間旅行の最中でも、わたしは、このようにこっそりと彼女との親密さを味わう瞬間を見つけていたのである。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』5・4、中村保男訳)

 やれやれ、なんという言葉を知らん男だ、オウム以下ときてやがる。あれでも、女の生んだ子供だというのか!
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第二幕・第四場、中野好夫訳)

 目の前に広がる光景を見たおふくろの目は、このおれの目だ。おふくろの目で、おれがまわりを見ているからだ。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

あらゆるものが何かを待っているようだった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

ロジャーの目をとおして、われわれはかれが見たものを見た。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第一部・9、酒井昭伸訳)

ここにあるのはなんだい?
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 うつらうつらしだしたところで、はっと起きあがった。「なんてことだ、山羊を数えるみたいに聖人たちを数えてしまったぞ(…)」
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 そしてきょうも、あのときのように、ドアの上にぶら下がる黒いリボンを見た。しかしあのとき内心思ったことは今度は浮かんでこなかった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

それで、きみはいつまでそこにすわっているつもりだい?
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 物という物がいっせいに輝き出し、虹の光彩が、鏡や、ドアの把手や、ニッケル製のパイプの中でさんぜんときらめいた。まるで光が、途中で出会うすべての物体を叩いて、その狭い牢獄を打ちこわし、その中に閉じ込められている何かを解放しようとでもしているようであった。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)

 いまにして思えば、この、すべてのものが不安定で、一時的なものにすぎないという漠然とした印象や、戦慄の事件が迫っているという予感は現実そのものがつくり出していたような気がする。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

「見るというのは明瞭に認識することだけど、憶えているというのは……もっとべつのものなのよ」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・4、酒井昭伸訳)

記憶というものも、その不完全さということがやはり天の恵みなのだ。
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

いかに記憶し、いかに思考過程をはじめるか
(ブライアン・W・オールディス『率直(フランク)にいこう』井上一夫訳)

 ヴェテラン夢想家が夢想にふけるばあいには、時代おくれのテレビや映画みたいにストーリーを夢みるのではありません。小さなイメージの連続なのです。しかも、それぞれのイメージがいくつかの意味をもっている。注意深く分析してみると、五重、六重もの意味をもっていることがわかります。
(アイザック・アシモフ『緑夢業』吉田誠一訳)

 その子にとっては、雲はただ単に雲であるばかりでなく枕でもあるのです。その両方の感覚を合わせ持ったものは、ただの雲よりも、ただの枕よりも、すぐれたものなのです。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 人生における救いとは、一つ一つのものを徹底的に見きわめ、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。心の底から正しいことをなし、真実を語るにある。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十二巻・二九、神谷美恵子訳)

時間は継続を意味し、継続は変化を意味する。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

誤植に基づいた──永遠の生とは?
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 一九五九年の春じゅう、頻繁に、ほとんど毎夜、わたしは自分の生命がいまにも奪われるのではないかとおびえていた。孤独は悪魔(サタン)の遊び場である。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

生は大いなる不意打ちだよ。死がなぜさらに大いなる不意打ちではないのか、
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

実際知恵それ自体よりも愉快なものがあろうか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第五巻・九、神谷美恵子訳)

蜂巣にとって有益でないことは蜜蜂にとっても有益ではない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第六巻・五四、神谷美恵子訳)

 万物はいかにして互いに変化し合うか。これを観察する方法を自分のものにし、絶えざる注意をもってこの分野における習練を積むがよい。実にこれほど精神を偉大にするものはないのである。このような人は肉体を脱ぎ棄ててしまう。しかして間もなくあらゆるものを離れて人間の間から去って行かねばならないことを思うから、自分の行動については正義にまったく身を委ね、その他自分の身に起ってくる事柄については宇宙の自然に身を委ねる。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十巻・一一、神谷美恵子訳)

(…)しかし、しばらくのあいだ、大部分の航空兵にたいしていだいていた気持は、偽りの気持になった。ぼくは彼らを新しい眼で見るようになった。ぼくは彼らが好きなのかどうか、わからなかった。彼らとぼくでは、人間が違っていた。彼らは自信に満ちていたが、ぼくは贋(にせ)ものだった。ぼくは、自分が忘れてしまっていたものに近かった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第一部・6、山西英一訳)

あなたはあたしが最初に思ったふうじゃないのね
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

彼女は、自分で停めたくなったときに停めるのだ。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

ある意味では、ぼくにとって彼女は、今夜以前は存在していなかった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

すべてを理解せずに、その一部だけを理解するなんてことはできない。自然は……すべてなの。何もかもが入り混じってる。わたしたちもその一部で、ここにいることで、理解しようとすることで自然を変化させてる……
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

(…)「──あるものの一部だけを知るのは、あの絵をばらばらに引き裂くようなものだということなの。あの、火曜日に話してくれた女の人の絵……」
「モナ・リザ」
「そう。つまりそれはモナ・リザをばらばらにしてみんなに配って、それで絵を理解したって言ってるようなものなの」
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

思い描ける場所は、訪れることができるの
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

視線の鋭さにわたしは恐怖を感じたが、それが彼女に対するものか自分自身に対するものか、よくわからなかった。
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

「話してくれ」ぼくは翻訳機械を使って、老人に話しかけた。「あなたがたに、こんな考えが最初に浮かんだとき、というか、アイディアのほうであなたがたの頭にはいりこんできたとき、あなたがたはうれしかったんですか?」
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

 言語というものは、あらゆる文化にとって、最も本質的生産物だよ。その文化がわかるまでは、言語を理解することは不可能だ。ところが、言語がわからないで、どうやってその文化を理解できる?
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

(…)なぜ、そこで手を止めるか、自分ではわかっている。たとえ、なぜ手を止めたか、わからないようなふりをしようとも。あの昔ながらのうじ虫のような良心というやつだ。野球の一投のように長生きした亀のようにしぶといやつがうごめいているのだ。あらゆる感覚をとおして、おーいイギリス人みたいな猟の名人、こいつはカモだぞという。知性をとおして、空に漂い餌にありついたことのない鷹のような倦怠が、この仕事がすめばまた襲ってくるぞとささやく。神経をとおしては、アドレナリンの流れが止んで、吐き気がはじまるのを嘲笑してくる。網膜の奥の名匠は、自分を含めた光景の美しさを言葉巧みに押しつけてくる。
(ブライアン・オールディス『哀れ小さき戦士!』井上一夫訳)

決定のあり様は、また一般に思考の形式は、決定あるいは思考それ自体なのであって、それは正しい問題の立て方がその解決に等しいのと同じことであり、したがってその効用も一時的あるいは体系的にしか、つまり混沌とした前段階的局面としてのみ、形式から切り放して考えることはできないものなのだ。ということはまた、前提がいっそう重要なものとなるということだ。いや、これが唯一重要なんだ……
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

 我々の内部にあるものは、やはりつねに我々の外側にもあるんだ。つまり、慌てるな、我々が何らかの関係を結ぶことができたものは我々の内部にあると、こう言おう。しかし関係がすべてではない、一つの関係はそのような他の事物の存在を否定したり、あるいはそれにとって替わったりするどころか、それらの存在することを肯定するのだ。関係は自己充足的ではない。
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

どんな秘密も、そこへ至る道ほどの値うちはないのですよ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

まるで存在しなかったかのように
過ぎ去るのは、
記憶に留められないもの
だけに限るのかもしれない。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

 宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界には映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時──涅(ね)槃(はん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
(岡倉覚三『茶の本』第二章、村岡 博訳)

 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てである。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

 ひので貝は美しくて、壊れやすく、はかない。しかし、だからこそ、それは幻影ではない。いつまでも在るものではないからといって、一足飛びに、それが幻影であるなどと思ってはならない。姿かたちが変わらないからといって、それが本物かどうかの証拠になるわけではないのだ。蜻蛉(かげろう)の一日や、ある種の蛾(が)の一夜は、一生のうち、きわめて短いあいだしか続かない。しかしだからといって、その一日、一夜を無意味だとする理由にはならない。意味があるかどうかは、時間や永続性とは関係がない。それはもっと違う平面で、違う尺度によって判断すべきである。
 それは、いま、この時の、この空間での、いまという瞬間に繋がるものであり、「現在在るものは、この時、この場所でのこの瞬間にしか存在しない」のである
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ひので貝、落合恵子訳)

 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 ところでいま私にとって明々白々となったことは、次のことです。すなわち、未来もなく過去もない。厳密な意味では、過去、現在、未来という三つの時があるともいえない。おそらく、厳密にはこういうべきであろう。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
 じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。もしこういうことがゆるされるならば、たしかに私は三つの時を見すまし、それどころか、「三つの時がある」ということを承認いたします。
 それでもなお、不正確ないいならわしによって、「三つの時がある。それは、過去と現在と未来だ」といいたい人があるならば、いわせておくがよい。私は気にしないし、反対もしないし、非難もしない。ただし、そこにいわれていることの意味をよく理解していなければならない。未来であるものがすでにあるとか、過去となったものがまだあるなどと思ってはならない。私たちが正確なことばで語ることは、まれである。多くの場合、不正確な表現を用いている。それでもいわんとすることは通じるのです。
(アウグスティヌス『告白』第十一巻・第二十章・二六、山田 晶訳)

いったい時間とはなんでしょう?
(R・A・ラファティ『秘密の鰐について』浅倉久志訳)

 時間とは何だろう。子どもが時間を経験するとき、それは何の意味も持っていない。子どもは舞台裏で何が進行しているかなど、ほとんど、あるいはまったくわからない。だから何かが起きたときには、それが突然起きたようにしか思えない。もしきみがまだ幼すぎて、灰色の雲がやがて降る雨を意味することを知らなければ、まだ経験が浅すぎて、きみに向かってやってくる犬が、きみが逃げるよりも速く走れるのだということを知らなければ、この世はどれほど異様なところに見えるだろう。それをきみも想像してみてほしい。大人は急ブレーキを踏まねばならない事態に遭遇したとき、腹を立てるし、天気予報がいい加減だったというだけで、不機嫌になることがある。
 子どもの立場に立ってみれば、人生とはつねに猛スピードで過ぎてゆくか、じれったいほどのろのろと過ぎてゆくかのどちらかなのだ。とっておきのアイデアがひらめくのは夜寝るときだし、サーカスはあまりにもはやく終わってしまう。サヤインゲンはいくら食べてもなくならない。漫画は風刺に満ちた誇張ではなく、ごく当たり前の日常描写にすぎない。子どもは突然、壁に衝突することもあるだろう。距離とスピードの関係を正しく測ることができないからだ。
 漫画の中では人間が崖から落ちる。
 子どもは床の上で、毛布にからまって目をさます。ベッドから落ちてしまったのだ──どんなふうに落ちたかなどわかるはずがない。
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジュディ・9、亀井よし子訳)

 現在は、われわれがそれを自らの前に残した時、再び未来となる。わたしは確かにそれを残し、わたし自身の時代にはほとんど神話でしかなかった過去の深淵に身をひそめて、待ったのである。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』38、岡部宏之訳)

これまでに生きた者は一人残らず、まだ時の何処かで生きている。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』39、岡部宏之訳)

 過去において永遠に根ざしていないものは、未来においても永遠ではありえないのである。そして、彼の喜びと悲しみを熟考すると、自分はもっとずっと小さいものではあるが、彼とそっくりだと思い当たった。おそらく、牧草が杉の巨木について考えるように、あるいは、これらの無数の水滴の一つが、〈大洋〉に思いを馳せるように。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』45、岡部宏之訳)

かれを生きたまま食べようとしたりはしないわ。かれがそれを望まないかぎり
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

 時間などは存在しないんだ。空間も存在しない。かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するんだ。おまえはおまえで、自分自身とチェスをし、またもおまえは自分に王手をかけてしまったんだ。おまえはレフェリーなんだ。道徳は、おまえ自身の規則に従って行動するための、おまえ自身との約束だ。おのれ自身にまことであれ、だ。さもないと、おまえはゲームを台無しにするぞ
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

口先だけの言葉だからこそ、忘れられませんよ、と彼は心の中でつけ加えた。
(ロバート・シルヴァーバーグ『生命への回帰』13、滝沢久子訳)

「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっぽけなものであることが多いの」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・10、酒井昭伸訳)

(…)わたしは見ていた。見ながら、すべてに形と意味をあたえていた。
(グレッグ・ベア『火星転移』下巻・第四部、小野田和子訳)

きみはいまなんという名?
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

それが嘘でないとどうしてわかる?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

どうして、ぼくが嘘をつくんだい?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』4、岡部宏之訳)

あなたがあたしに嘘をついてるのが今日わかったわ
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

あらゆる可能性を想定する想像力を持つ者は、だれでもパラノイア患者さ
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』10、宇佐川晶子訳)

この男を読みちがえていたのだろうか?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』5、宇佐川晶子訳)

ゴォーン! 一万の青銅の銅鑼がいちどきにたたかれて一つの音に凝縮した。高台の家々の庭で、谷間の都市で、カラファラ人たちは一家の銅鑼を鳴らして太陽との別れを知らせる。一つにとけあうその音は青銅の鳥のように舞いあがって、その翼の羽音がホテルを揺さぶり、窓々をふるわせた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』4、宇佐川晶子訳)

その向こうにはわかりやすい情景がまた一つ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

嘘にはそれなりの美しさがある。それなりの生命と整合性がある。
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第四章、増田まもる訳)

 こわくない、とラムスタンは自分に言い聞かせていたが、それは自分への嘘、あらゆる嘘の中で一番簡単な嘘だった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

 窓の外をながめているうちに、ぼくはフッとおかしなことを考えた。
 この瞬間は、このときかぎりのものであるが、しかし永遠にここにありつづける、というようなことを考えたのだ。──ぼくたちは錯覚しているのだが、時間は決して過ぎ去っていくものではない。どんな短い瞬間にしても、永遠の一部であることに変わりはなく、そして永遠という言葉が不滅を意味しているのであれば、瞬間もまた消滅してしまうはずがないではないか。
 そんなことを考えたのである。
 時間はつねにそこにありつづける。うつろい、変化していくのは、時間ではなく、ちっぽけな生き物であるぼくたちのほうなのだ、と……
 今、この瞬間、ぼくが眼にしている夏の光、耳にしているセミの鳴き声は、永遠にここにとどまる。そして、ぼくだけが老いていき、死んでいくのだ。
(山田正紀『チョウたちの時間』プロローグ)

神とことばを交わすことができるのは、神と同じ、異端者、アウトサイダー、そして異邦人ということになるだろう。これが地獄の驚異だ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 巧妙な芸術家というのは、大変なはったり屋で、いつも先回りをし、自分の負けを絶対に認めない。理性が狂ってしまったことも知らずに、それをエロティシズムだとか、武勲の誉れだとか、国家の要請だとか、永遠の救済だとか言ってごまかしている。そして狂人たちは喜んで協力もするのだが、自分たちを気づかってくれる人間に狂気をちょっと分け与えておけば、思いどおりにできることをちゃんと知っているからだ。いいかい、すべて問題は、人生の幻想を持ち続けるために、理性という幻想を持ち続けることにある。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ…… 私は記録する機械だ…… 私は「ストーリー」や「プロット」や「連続性」などを押しつけようとは思わない…… 水中測音装置を使って、精神作用のある分野の直接記録をとる私の機能は限定されたものかもしれない…… 私は芸人ではないのだ……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というものは全部で一個のまとまったものになるいくつかの構成単位に分れているし、そう考えるべきものだ。しかし個々の単位は興味深い性の配列のように、前後左右どんな順序に結びつけることもできるものである。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というのは一つひとつが、何か実体のないうつろいゆくもの、事物や思想を固定化したものにほかならない。発話された言葉を定着させるという必要性に迫られて、何世代にもわたる精神が選別と形象化を繰り返してきた末に、ようやく今の形になったものだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)

 ある時期にわれわれは言葉というものを獲得し、それとともに向こうの世界から隔離されてしまった。世界を直接に理解するのではなく、思考が体験を媒介するようになったのだ──観察するのをやめてみれば、自分が思索の対象と切り離されていることはすぐにわかる。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・21、嶋田洋一訳)

 法廷は内部に静止した黒い人影を吊るしたガラスの球のように、微動だにしなかった。その静寂は空虚ではなく、音楽の休止のように豊かで芳(ほう)醇(じゅん)だった。それは巨人の足どりにおける休止であり、一歩ごとに人間は蹂(じゅう)躙(りん)され無力化した。裁判長も、廷吏も、傍聴者も、みなショックを受けて無力な状態にあり、目を大きく見ひらいて激しく喘(あえ)いでいた。(…)
(ゾーナ・ゲイル『婚礼の池』永井 淳訳)

 二月の中旬でも、天候が彼の遅すぎた決心を受け入れて、明るい青空の日々が続いた。まったく季節外れの陽気で、それを真に受けた木々が早々と開花したほどである。彼はもう一度トプカピ宮殿を見てまわり、青磁器や、金でできた嗅ぎ煙草入れや、真珠で刺繍した枕や、スルタンの肖像を描いた彩画や、預言者マホメットの化石になった足跡や、イズニック・タイルや、その他もろもろに、敬意に満ちた、わけへだてのない、不思議そうなまなざしを送った。そこで、山のようにうず高く、眼前に広がっているのは、美だった。商品に値札を付けようとする店員みたいに、彼はこの大好きな言葉をこうしたさまざまな骨董品に仮に付けてみてから、一、二歩退いて、それがどの程度ぴったり「マッチ」しているか眺めてみた。これは美しいか? あれは?
(トマス・M・ディッシュ『アジアの岸部』IV、若島 正訳)

眼よ、くまなく視線を走らせよ、そしてよく見るのだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 過酷な逆説だが、あらゆるものを表現し、あらゆるものに意味を与えようとすれば、結局それは、あらゆるものから意味を剥奪することになり、文学という冷たい、人為的な方法によって、あらゆるものを表現するのは不可能だということを知らされる破目になるのだ。それに気がついたのはいつだったか? レストランの主人夫婦に浜辺から追い立てられた、痩せて、貧しい、無花果売りの女の、あの下品さそのものであろうか? ぼくの視線を捉えようとするその女の眼を見るのをぼくが拒否したこと、その女と、女が抱えている問題がぼくの思考の中に入り込み、ぼくがあの島に求めていた平穏が乱されるのを拒否したことであろうか? (…)
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 だがおれは電話をしなかった。他人の人生を少しだけましなものにできる、ほんのちょっとしたこと。あのときもそれをしなかった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第一部・5、嶋田洋一訳)

 おれは待ちつづけた。煙を吸い込んでは吐き出し、今聞こえる悲鳴の中に、かつて耳にしたたくさんの悲鳴の残響を聞きながら。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)

それは別の場所に存在する、別の森の木々だった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)

しかしそれを見たとき、だれが森だと思うだろう。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

 ぼくの最も深い感情は、あまりにも長いこと自分で知らずにきたので、今それに触れてもまるで他人のものみたいだった。次第に腹が立ってきた。
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』3、岡部宏之訳)

別の人間になるというのはどうかな?
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』14、岡部宏之訳)

だれでもみんな自分とは別のものでありたいと願ってるんだから
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

別の自分になることだけだ。
(グレッグ・イーガン『宇宙消失』第二部・7、山岸 真訳)

なぜ、この一日をわたしと過ごしたのか
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』1、浅倉久志訳)

今夜わたしたちがこうして出会ったのは、ただの偶然ではないはず。
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳)

(…)乾いた噴水 からっぽの広場 風の中の銀色の紙 遠い町のすりへった音……なにもかもが灰色でぼやけ……頭がちゃんと働かない……むこうでハリーとビルの物語をしているきみはだれだ?……広場がカチッと焦点をとりもどした。わたしの頭の中のもやは晴れた。(…)
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』おぼえていないときもある、浅倉久志訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

道は歩きやすかった。とりわけ、けもの道を見ようとせず、足がひとりでに道を見つけるようにすれば。
(テリー・ビッスン『熊が火を発見する』中村 融訳)

 オアは小さく笑った。「ああ、まったくさね。そう、計画はある」
 ベン=アミは大人の話を聞いている子供が感じるような、あるいはその逆の、欲求不満を感じはじめていた。「わかるように話してくれ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面13、嶋田洋一訳)

 このことを、彼は深い感動をこめていった。わたしは自分の態度の冷たさを責められている思いがした。きっと悪い経験をかさねたため、わたしのなかに冷たさと不信が生じていたにちがいない。わたしも生まれながらのそういう人間ではなかった。だから、わたしは人に対する信頼の念を失うことで、人生においていかに多くのものを失ってしまったことか、また、きびしい警戒心を身につけることで、得るところがいかに少なかったことか、としばしば思ったのである。こういう心理状態が習慣になっていたので、ほんとうに悩みそうな、もっと大きな問題のばあいよりも、こんどの会話のことでわたしは悩んだ。
(チャールズ・ディケンズ『追いつめられて』龍口直太郎訳)

(…)小さな子供のときでさえも、恐ろしいことが四方八方から群がりよって来た。いつも何かわけのわからない暗黒の片隅があり、のぞき知ることのできない暗い恐怖の世界があり、そこから何かがいつも彼のほうをうかがっていた。そのため、彼は見ていてあまり格好のよくないことばかりやってきたのだった。
(ウィラ・キャザー『ポールのばあい』龍口直太郎訳)

文学極道

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