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* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年八月一日 「胎児」


自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?
           (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳)


二〇一六年八月二日 「胎児」


神の手にこねられる粘土のように
わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか?

いったい、わたしを胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか?

また、胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか?

それは、わからない。
わたしは、人間ではないのかもしれない。

この胎は
人間のものではないのかもしれない。

しかし、この胎の持ち主は
自分のことを人間だと思っているようだ。

夫というものに、妻と呼ばれ
多くの他人からは、夫人と呼ばれ

親からは、娘と呼ばれ
子たちからは、母と呼ばれているのであった。

しかし、それもみな、言葉だ。
言葉とはなにか?

わたしは、知らない。
この胎の持ち主もよく知らないようだ。

詩人というものらしいこの胎の持ち主は
しじゅう、言葉について考えている。

まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし
言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。

この物語は
数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり

数十世紀にわたって、
わたしを胎内に宿しているものの物語であり

言葉と
神の物語である。


二〇一六年八月三日 「胎児」


時間とは、なにか?
時間とは、この胎の持ち主にとっては
なにかをすることのできるもののある尺度である。
なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。
この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。
時間がない。
時間がある。
時間がより多くかかる。
時間が足りない。
時間がきた。
時間がまだある。
時間がたっぷりとある。
いったい、時間とは、なにか?
わたしは知らない。
この胎の持ち主も、時間そのものについて
しばしば思いをめぐらせる。
そして、なんなのだろう? と自問するのだ。
この胎の持ち主にも、わからないらしい。
それでも、時間がないと思い
時間があると思うのだ。
時間とは、なにか?
言葉にしかすぎないものなのではなかろうか?
言葉とは、なにか?
わからないのだけれど。


二〇一六年八月四日 「胎児」


わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを
いつ知ったのか、語ることができない。
そして、わたしのいる場所が
ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。
そうして、そもそものところ
わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。
そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。
意識とは、なにか?
それを意識が知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が
袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。
しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。
袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが
たんなる言葉で考えたものの限界であり
言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。
そして、
言葉でないものについて、
この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。
そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。
言葉とは、なにか?
それは、この胎の持ち主にも、わたしにはわからない。


二〇一六年八月五日 「胎児」


生きている人間のだれよりも多くのことを知っている
このわたしは、まだ生まれてもいない。
無数の声を聞くことができるわたしは
まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。
無数のものを見ることができるわたしは
まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。
無数のものに触れてきたわたしなのだが
そのわたしに手があるのかどうかもわからない。
無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし
無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが
そのわたしに足があるのかどうかもわからない。
無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが
そのわたしが存在するのかどうかもわからない。
そもそも、存在というものそのものが
言葉にしかすぎないかもしれないのだが。
その言葉が、なにか?
それも、わたしにはわからないのだが。


二〇一六年八月六日 「胎児」


数学で扱う「点」とは
その言葉自体は定義できないものである。
他の定義された言葉から
準定義される言葉である。
たとえば線と線の交点のように。
しかし、その線がなにからできているのかを
想像することができるだろうか?

胎児もまた
父と母の交点であると考えることができる。
しかし、その父と、母が、
そもそものところ、なにからできているのかを
想像することができるだろうか?

無限後退していくしかないではないか?
あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。


二〇一六年八月七日 「胎児」


この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。
そして意識が朦朧としたときに
ときおり閃光のようなものが
その脳髄にきらめくことがあるようだ。
つねづね
意識は、意識そのものを知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると
この胎の持ち主は考えていたのだけれど
いま床に就き、意識を失う瞬間に
このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。
地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。
かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる
船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。
空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて
太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと
考えたギリシア人もいたわ。
これらは、意識が、意識について
すべてではないけれど
ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら?
わからないわ。
ああ、眠い。
書き留めておかなくてもいいかしら?
忘れないわね。
忘れないわ。
そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から
言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって
つぎつぎと言葉が解けていき
この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。


二〇一六年八月八日 「胎児」


わたしは、つねに逆さまになって考える。
頭が重すぎるのだろうか。
いや、身体のほうが軽すぎるのだ。
しかし、わたしは逆さまになっているというのに
なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。
なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。
わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば
母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。
違うだろうか。


二〇一六年八月九日 「チェンジ・ザ・ネーム」


アンナ・ヴァンの新作が出るらしい。コンプリートに集めてる作家なので買うと思うけど、ハヤカワから出るコードウェイナー・スミス全短篇の2作目は、すべて既読なのだが、せめて、まだ訳してないのを1作でも入れておいてほしかった。バラード全短篇集など、創元は出してほしくない。読んだのばっか。

アン・レッキーのレベルの作家は、そうそういないと思うけれど、SFかミステリーにしか、ほとんど未来の文学はないと思うので、ハヤカワ、創元、国書にはがんばってほしい。


二〇一六年八月十日 「詩は個人の文学である」


ぼく自身は、もうぼくのことについてしか書かないので、ぼくの詩は、個人の文学だと思っている。そして、もう個人の文学しか、詩にはないと思っているのだが、30代から、そう思って書いているのだが、そう、もう、だれも個人には興味がないのだった。まあ、それでいいと思うけれど。


二〇一六年八月十一日 「現代詩文庫」


ぼくの知らない名前のひとのものが『現代詩文庫』にたくさん入ってる。もう何人もそうなんだけど、ずいぶん以前から、そんな文庫には意味があるとは思えなくなっていた。思潮社、どういう編集方針なんだろう?


二〇一六年八月十二日 「世界は滅びなくてよい。」


日知庵でも、かわいい男の子(31歳)と話をしていたけど、世のなかにかわいい男の子がいるかぎり、世界は滅びなくてよい。

アレナスもペソアも47歳で死んでいる。47年組なんやね。ぼくは、47歳までに、よい詩を書いたかと自分に問えば、どうだったかなと答えるしかない。その齢に応じたよいものを書いてきたと思っているから。昨年、思潮社オンデマンドから出た『全行引用詩・五部作・上巻』とその下巻がいまのところ、ぼくの最高傑作だ。

きょうは日知庵でバイトだったのだけれど、だいぶ飲んできた。バイト中にもお客さんからビールを3杯いただいて飲んだけど、バイト上がりにも1杯飲んだ。タバコ吸ったら、クスリのんで寝よう。鏡みたら、顔がゾンビだった。まあ、もともとゾンビ系の顔をしてるけれども。


二〇一六年八月十三日 「芸術」


人間が生きるためには、芸術などは必要のないものの最たるものの一つであろう。しかし、芸術がなければ、人間が人間である必要のないものの最たるものの一つである。


二〇一六年八月十四日 「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」


何年か前、ヤリタミサコさんの朗読会でお会いしたときに、平居 謙さんから、こう言われたことが思い出された。「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」 そのときのぼくの返事、「まだウンコみたいな詩を書いてますよ。」 「ウ」じゃなくて、「チ」か「マ」だったら、最高の褒め言葉だったんだろうな。


二〇一六年八月十五日 「人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのだ」


人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのに、なぜ人間以外の芸術作品を求めてやまないのか。

恋をしているときに、なぜ、ぼくは、それがうつくしい芸術作品の一つだと思わなかったのだろうか。恋が終わってからしか、そのときのことが書けないのは、ぼくが、その恋を作品として見ていなかったからだろうけれど、いまから思うと、もったいないことをしたなあと思う。うん? そうじゃないのかな?


二〇一六年八月十六日 「字数制限」


俳句や短歌が文芸作品であるのは、用いられる語の音節数の制限があるからである。道路に制限速度があるように、詩にも制限語数というのがあってもよいのかもしれない。まあ、ぼくなんかは、違反ばかりしているだろうけれども。


二〇一六年八月十七日 「偶然」


偶然が怖いけれど、偶然がないのも怖い。

いま日知庵から帰ってきた。日知庵に行くまえに、ジュンク堂で新刊本を5冊買った。合計9000円ほど。アンナ・カヴァンの『鷲の巣』、『チェンジ・ザ・ネーム』そして、彼女の短篇が入っている『居心地の悪い部屋』、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻の『アルファ・ラルファ大通り』、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』である。いったい、いつ読むのかわからないけれど、いちおう、これらを買っておいた。そういえば、カヴァンをイギリス文学の棚で探していたが見つからず、ジュンク堂の店員に訊いたら、フランス文学の棚に並べられていた。 「アンナ・カヴァンはイギリスの作家ですよ。」と言うと、「あとで確認しておきます。」という返事が返ってきた。いや〜、びっくりした。どこで、どうなって、フランス文学の棚に行ったのか知らないけれど、商品については知っとけよ、と、こころのなかでつぶやいた。

きのう、寝るまえに、『恐怖の愉しみ』上巻のさいしょの作品を読んで、つぎの作品の途中で寝てしまった。


二〇一六年八月十八日 「図書館の掟。」


けさ、つぎにぼくが上梓する思潮社オンデマンド詩集『図書館の掟。』のゲラが届いた。やらなければならないことがたくさんあるのだけれど、このゲラチェックを最優先しよう。350ページ分のゲラチェックである。何日でできるかな。

詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、書肆ブンより復刊されることになりました。すべての先駆形の詩が収載されます。(思潮社オンデマンドから既発売の『ゲイ・ポエムズ』、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』、来年発売予定の『図書館の掟。』に分載されているものすべてを含む)きょう、再刊の話をいただいたところで、いつごろ発売になるのか、わかりませんが、ぼくが30代の後半から40代の初めまでに書いた、すべての先駆形の詩を収録する予定です。『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド)とともに、ぼくのベスト詩集になると思います。電子データのない作品があって、その打ち込みで、●詩の長篇の散文があって、しかも、その●詩が全行引用詩でもあるので、本文5ページ・参考文献、超小さい字で5ページを打ち込まなければならず、めっちゃ憂鬱でしたが、あらためて自分の詩を読んで、へえ、こんなの書いてたのとか思ったりしてます。

●詩の散文詩の全行引用詩の本文の打ち込みが終わった。参考文献のところは一日では終わりそうにないけれど、いまではもう読んだ記憶のない本がいっぱいあって、そういう興味でもって眺めながら、あしたから打ち込んで行こうと思う。しんど〜。


二〇一六年八月十九日 「全行引用詩・五部作・序詩」


澤あづささんが、ぼくの『全行引用詩・五部作・序詩』を、ご紹介くださっておられます。新作です。ぼくの望んでいた通りの理想的なレイアウトで、ご紹介くださってます。こころから感謝しております。
こちら→http://netpoetry.blog.fc2.com/blog-entry-17.html


二〇一六年八月二十日 「福武くん」


いま日知庵から帰った。日知庵では、Fくん(31歳のぽっちゃりしたかわいい男の子)と、プログレ、カルメン・マキ、ビートルズの話で盛り上がった。いっしょにカラオケしたかったなあ。こんど誘ってみよう。


二〇一六年八月二十一日 「しんどかった〜。」


やったー。あと数日は確実にかかると思っていた●詩の参考文献の打ち込みが終わった。朝の9時からこの時間までのぼくの集中力は半端じゃなかった。孤独な作業だったけれど、すべての芸術行為が孤独なのであった。ひとりでお祝いをするために、これからスーパーに行って、お酒を買ってきて飲もうっと。

ヱビスビールを飲んでいる。BGMは、2、3日まえに、Fくんにすすめた「四人囃子」の『ゴールデン・ピクニックス』である。日本でさいこうのプログレバンドだった。1曲目はとばして聴いたほうがいいと思うけど、ぼくはとばさずに聴いてる。いまかかってるのは「泳ぐなネッシー」 プログレである。

クリムゾンの『ディシプリン』にかけ替えた。脳みその半分がビールのような気がする。錯覚だろうけど。

あしたは神経科医院に。ここ数日の平均睡眠時間が極端に短い。神経症がひどくなっているのかもしれない。クスリをかえてもらう頃合いなのかもしれない。いまのんでるクスリ、さいしょはのんで数分で気絶する勢いで眠ったけれど、いまじゃ眠るまでに1時間以上かかってしまっているものね。

プリンスの『MUSICOLOGY』にかけ替えた。「CALL MY NAME」のすばらしさ。プリンスはやっぱり天才だった。

ぼくは自分の詩のタイトルに、海外アーティストの作品の曲名をつけることが多いのだけれど、「DESIRE。」の出所がようやくいまわかった。ツエッペリンだった。コーダに入ってたから、長いあいだわからなかったのだった。手放したCDだったから。これで、タイトルの出所のわからないものがなくなった。


二〇一六年八月二十二日 「きょう何年かぶりかで」


きょう何年かぶりかで痴漢された。数年まえに痴漢されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。

きょう何年かぶりかで置換された。数年まえに置換されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。


二〇一六年八月二十三日 「鈴木さんご夫妻」


いま日知庵から帰った。Sさんご夫妻と遭遇。そこで、ぼくの出自の半分が判明した。ぼくは半分、高知で、半分、兵庫だったのだ。ずっと半分、京都人だと思っていたのだけれど。丹波の笹山が京都だと思っていたのだった。55歳まで。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』のゲラチェックばかりで、本が読めていない。きょうは寝るまえに、なにか読もう。ぼくは詩をつくるために生まれてきたんじゃなくて、人生を楽しむために生まれてきたのだ。人間との出合いが、いちばん楽しいけれど、読書は2番目に楽しい。あ、2番目は、お酒かも、笑。

チューブでよい曲を聴くために Swings の曲をクリックしたら、いきなり不愉快なCMが出てきて、ああ、人生もそうだけど、ほんと、しょうがないなと思った。

きょう、夜の10時ころに日知庵に行くときに、河原町を歩いてた女の子が、隣の女の子に、「ちゅーしたい〜。」というと、「してもいいよ〜。」と言って、道端で歩きながら、ちゅーしてたのだけれど、20代前半の学生かな、OLかな。わからへんけど、めっちゃいいものを見たような気がした。得々〜。


二〇一六年八月二十四日 「図書館の掟。ゲラチェック終了。」


ブレッズプラスで、こんど思潮社から出る『図書館の掟。』のゲラチェックをすまして、いま郵便局から思潮社の編集長の〓木真丈さん宛にお送りした。あさってに到着する予定だ。で、部屋に戻ると、さっそく、書肆ブンの大谷良太くんから、こんど復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラが。ゲラチェックの地獄はつづくのである。ワード原稿でゲラがきたので、ぼくがプリントアウトしなければならない。これからA4のコピー紙を買いに行こう。

これから書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』の電子データをプリントアウトする。240ページである。まあ、ぼくの詩集では、短いほうである。ぼくの詩集は300ページがあたりまえのようになっている。もちろん、この先に出る予定のものはみな300ページ超えてるのだ、呪。

バッジーを聴きながらプリントアウトをしている。


二〇一六年八月二十五日 「きょうも、ゲラチェック終了。」


書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラチェックをしたものを、いま郵便局から、大谷良太くんに送った。これで、しばらくは、といっても、数週間から1か月くらいは再校のゲラチェックはこないはずだ。ふう。ようやく、9月に文学極道に投稿する作品に取り組むことができる。

ぼくの『全行引用による自伝詩。』を詩集にするときには、女性の知り合いに表紙になってもらおうかなと思っている。同じタイトルで何冊も出すと思うけれど、すべての詩集において違う女性に表紙になってもらおうかなと思う。「自伝」に他人のしかも異性の画像を使うのは、世界でも、ぼくくらいだろう。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』の表紙デザインができあがって、送っていただいたのだけれど、ぼくの詩集のなかでも、もっともポップで大胆なものになっていると思う。ぼくのつぎのつぎのつぎの詩集はまだ表紙を決めていないけれど、人間の顔がいちばん興味深い。

そだ。こんど書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』も320ページをこえていたのだった。ゲラは240枚で済んだのだけれど。


二〇一六年八月二十六日 「ネギは、滅びればいい。」


いま日知庵から帰ってきた。きょうも、来られた方と楽しくお話しできたし、おいしいお酒も飲めて、うれしい。ネギは、滅びればいいと思っているけれども。


二〇一六年八月二十七日 「あれはゲラじゃなくって、」


イーオンで中華弁当を、セブイレで麦茶を買ってきた。きのう、新しい『全行引用による自伝詩。』の引用をだいたい決めた。きょう、塾にいくまえに完璧に選んでおくつもりだ。打ち込みが地獄になるほどの引用量なのだが、いつものことだ。がんばる。

ブレッズプラスでルーズリーフを眺めていたら、8月に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』に、ぜひ追加したいものがあったので、これから投稿した作品を書き改めようと思う。きょうは、そのあと、髭を剃って、頭の毛を刈って、お風呂に入って塾に行こう。

物がいつ物でなくなるのだろうか?(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)

けっきょく、ワードいじってたら、こんな時間に。ヒゲを剃ったり、頭の毛を刈ったりできなかった。しかも、ワード直しが不完全に終わらせなければならなかったし。これからお風呂に。それから塾に。

いま日知庵から帰った。帰ってFB見たら、元アイドルの方から友だち承認がきてて、びっくり。ぼくとアイドルのつながりなんて、まえに付き合ってた青年が作曲家で、アイドルの曲をつくってたくらいだから、なんでかなと、はて〜。でも、もちろん、承認した。なんのつながりなんだろう。おもしろ〜い。

その方のページにとんで、お顔を見たら、おかわいいので、二度目のびっくり。なんのつながりかは、まったく不明。でも、天然のかわいらしさをそなえてらっしゃる方みたいで、よかった。人間の世界って、おもしろいね。どこで、どうつながるのか、まったくわからない。

きょう、大谷良太くんに、「ゲラ直し、届いた?」って訊くと、「届きましたよ。でも、あれはゲラじゃなくて、まだワード原稿の段階ですよ。」と言われて、なるほどと思った。そっか。ゲラは、出来上がりまえのものを言うんだね。というところで、詩集を出して20年以上になるが、まだ知識不足だった。

あしたはビアガーデンだ。あしたで夏休みが終わった感じがある。月曜から、文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード原稿の打ち込みをする。膨大な量なので、何年かかるかわからないけれど、やることにした。1000枚以上のルーズリーフ、100分の1は打ち込みたい。


二〇一六年八月二十八日 「天罰」


もうちょっとで持ってるCDを買うところだった。デヴィッド・ボウイ、けっこう揃えていたのだ。ひさしぶりに、『Station To Station』が聴きたくなって。アルバム的には、『ダイヤモンドの犬』がいちばん好きかな。やっぱ、プログレ系になってしまう。

いま、Hyukoh のCDを買った。15000円だった。2014年の秋に出た新品を保管していたものらしい。もうしばらくCDは買わないでおこう。2BICのも、さっき2枚買った。ああ、amazon なんかなければいいのに〜。あ、そしたら自分の詩集も売れないか、笑。うううん。

Hyukoh のCDは、しょっちゅうチェックしていたから買えたのだけれど。届いたって、どうせ数日で飽きちゃうんだろうな。部屋にあるCDの棚を見て、ふと、そう思った。まあ、いいか。

Hykoh もう1枚、CDを出してたみたいで、そちらも買った。それも15000円した。もうね、ファンだからね。仕方ないよね。ぼくはね、もうね、バカだからね〜、ああ、amazon なんかなくなればいいのに。いや、なくなったら、さっきも書いたけど、自分の詩集が売れない。ふにゃ〜。

Hyukoh さいしょに買ったのはアルバムで、つぎに買ったのは、アルバムに先だって発売されたEPらしくって、2曲ダブルらしい。まあ、いいけどね。CD、4枚で、合計 33600円以上もした。まあ、本だって、過去に、1冊 50000円くらいの買っちゃったことがあるけどね。ううん。

でも、まあ、いいや。欲しかったものだから。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

あ、さいしょに買ったのが、アルバムだったけど、それは2015年に出たものらしい。あとで買ったのが EPで、2014年に出たものらしい。ぼくのツイート、5つか、6つまえの情報が間違ってた。まあ、2つとも手に入ったから、いいんだけどね。あ、クスリのまなきゃ。二度目のおやすみ。

あ、ぼくの出身中学の弥栄中学が廃校になってたことを、きょう知った。よい思い出は、悪い思い出よりはるかに少ないけど、というのは、運動のできないデブだったからで、めっちゃいじめられっ子だったから、殴られたり蹴られたりばかりしていた思い出があって、ああ、でも、廃校か。ちょっとさびしい。

高校に入って柔道部に入ったけど、中学では理科部だった。高校に入ってから身長が伸びたけど、中学では前から数えたほうがはやかったくらいの身長だった。で、デブだったので、いじめっ子たちの標的だったのだ。思いっきり空中両足蹴りをされたことがある。ぼくがサッカーで動きがすごく鈍かったとき。

神さまは、みんな、ごらんになっておられるので、連中には天罰がくだってると思うけれど、ぼく自体は、彼らに天罰がくだることは願っていない。天罰がくだるのは神さまが設定された宇宙の摂理であたりまえのことだからである。

2年まえに、ぼくにLGBT差別したアメリカ人の男が、昨年、アメリカに帰って心筋梗塞で亡くなった。まあ、こういう天罰なんかじゃないのかな。神さまは、みんなごらんになっておられるのだ。おもしろいことに、この男自体がゲイだったのだ。ぼくはオープンリーのゲイだから、差別したのだろうけど。

いま、きみや主催のビアガーデンから帰ってきた。おなかいっぱい。じつはビアガーデンに行くまえに、森崎さんとごいっしょに、アイリッシュ・バーで、ビールを飲んでいた。どんだけヒマジンやねん、という感じ。

あしたから、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』をワードに打ち込んでいくけど、きょうのうちに、打ち込む順番を決めておこう。けっきょく、語の選択と配列しかないのだ。言語表現には。

ネットで曲数とか調べたら、きのう買った Hyokuoh のCD、2枚ともEPみたいで、どちらも、6曲ずつの収録作らしい。到着したら、正確にわかるけれど、まだ到着していないので、ネットでの情報だけだから、わからないけれど。

基本的には、天才的な書き手のものしか引用していないので、ルーズリーフを並べ直しているだけで、脳機能が励起されているような気がする。日本人の詩人や作家の文章では脳機能が励起されないのは、単なるぼくの好みだけではないようなものがあるような気がする。ぼく自体が日本人的ではないのかもね。


二〇一六年八月二十九日 「こころのない子ども。こころのない親。」


こころのない子ども。こころのない親。こころのない教師。こころのない生徒。こころのない医師。こころのない患者。こころのない上司。こころのない部下。こころのない男の子。こころのない女の子。こころのない男の子でもあり女の子でもある子。こころのない男の子でもなく女の子でもない子。楽な世界かもしれない。こころがあると面倒だものね。でも、面倒だから、ひとは工夫する。こころがあると痛いものね。でも、痛いから、痛さから逃れる工夫をする。こころがあると、こころが折れる。でも、こころが折れるから、折れたこころを癒してくれるものを求めるのだ。

もう順番を決めた。あとは打ち込むだけ。この打ち込み予定のペースだと、『全行引用による自伝詩。』の文学極道の詩投稿欄への投稿には、確実に10年以上はかかりそう。まあ、いいや。

Fくんのツイートを見て、自分もカップ麺が食べたくなったのだけれど、やめておこう。寝るまえの読書は、なし。ルーズリーフを眺めながら、よりよい順番になるかどうか考えながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!

あかん。欲望には忠実なぼくやった。これからセブイレに行って、カップ麺を買ってきて食べようっと。まだクスリのんでなくて、よかった。

大盛の天ぷらそばを食べた。

FB見てたら、ある詩人が「えらくなって自作解説したい」と書いていて、びっくりした。詩人って「えらくなる」ことのできるものなのかしら? ぼくなら、ぜったい、えらくなりたくないけどなあ。そんなん思うてるひと、詩人とちゃうやん。と思ってしまった。こわいなあ。詩でえらくなるという考え方。

詩なんて、ただの言葉遊びで、せいぜい、ものごとを見るときのフィルターになるくらいで、詩を書いたからって、それで、えらくなったり、逆に、えらくならなかったりするものなんかじゃないと思うんだけどなあ。ぼくと同じくらいの齢の詩人だったけど、ほんと、しょうもないひとやなあと思った。

ぼくの詩歴について嘘っぱちを書いてる者が、「ネット詩の歴史」というタイトルのHPをつくっている。調べもせずに、間違った知識で書いていたのだ。こんな者の書いた「ネット詩の歴史」なんてHPには嘘がいっぱいなんじゃないか。嘘をばらまくなよ。間違った知識というか、思い込みかな。しかし、調べもせずに、ひとの詩歴をでっちあげるっていうのは、どういう神経しているのだろう。そして、それをネット上の詩投稿掲示板に書き込んでいたのだ。だれでも見れるところに嘘を書き込む神経って、なに?


二〇一六年八月三十日 「きょうはずっと雨だった。」


きょうはずっと雨だった。塾が休みなので、部屋にいた。外に出たのは、コンビニに2回行ったくらいかな。きょうは酒も飲まず、タバコも吸わず、禁欲的な一日だった。ワードの打ち込みがA4で5ページというのが、ちょっとくやしいけれど。きょうは、はやく寝れるかな。クスリのんで寝よう。おやすみ。

けさ、4枚のCDが到着した。2枚で30000円した Hyukoh のもののほうは大したことがなかった。あとの1600円ほどのと2000円ほどの 2 BiC のもののほうがよい。まあ、たいてい、そんなもの。

うわ〜。2BiC の Unforgettable を聴いてたら、涙が出てきちゃったよ〜。You are unforgettable to me. というのだ。ぼくにも、そういう子がいたのだと思うと、涙が出てきちゃった〜。

きょうも朝から、ワードA4に5ページ、打ち込んだので、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みは、きょうは、これでやめて、ちょっと休憩しよう。6時半にお風呂に入ったら、塾へ行こう。

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。かなり、ベロンベロンである。服を着替えて、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

それにしても、夏休みは、毎日が日知庵帰りだったなあ。


二〇一六年八月三十一日 「嘔吐、愛してるよ。」


サルトルの『嘔吐』とは認識の嘔吐だと思っていたが、もしかしたら、自己嫌悪の嘔吐かもしれない。

愛してるよ。愛されていないのは知ってるけど。ブヒッ。

文学極道

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