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作品 - 20160902_168_9066p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)当時、彼は父の農場で働いていたポーランド人の女中を愛していましたが、夢想のなかで自分がこの美しいひざの上に、女中となった聖処女のひざの上に坐っているのだと想像し、女中を聖処女に混同しているのでした。ところでその日、眼を閉じて再び聖処女を見たとき、彼は突然、彼女の髪がブロンドであることに気づきます! 
マリアはエリーザベトの髪をしているのです! 彼は驚き、強い印象をうける! 彼の愛していないこの女性こそ、事実上、彼の唯一の、まことの愛であることを、神みずからがこの夢想を介して彼に教えているように彼には思われるのです。
 非合理的論理は、混同のメカニズムにもとづいています。つまり、パーゼノーの現実感覚はお粗末なものであるということです。彼はさまざまの出来事の原因を捉えることができず、他者のまなざしの背後に隠されているものを決して知ることはないでしょう。しかし外部世界は、それがどんなに隠されたもの、再認できないもの、非因果的なものであっても、無言のものではない。それは彼に語りかけます。ボードレールの有名な詩、「長い反響(こだま)が……混りあい」、「香と色と音とがたがいに応えあう」あの詩におけるように、外部世界においては、ひとつのものは別のものに近づき、別のものと混りあい(エリーザベトは聖処女に混りあいます)、かくして、この接近によってひとつのものは理解されるのです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第三部・混同、金井 裕・浅野敏夫訳)

芸術においては、形式はつねに形式以上のものです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第七部、金井 裕・浅野敏夫訳)

『プヴァールとペキュシェ』の第二部は未完のままに終わったが、この部分は主に『筆写』と称するもので成っている。これは、奇妙なこと、馬鹿げたことを記した文例、自ら愚劣なることを露呈した引用文を蒐めた一大資料集であり、これを二人の書記が大まじめで筆写するのは専ら自己啓発につとめるためだが、フロベール自身の意図するところは痛烈な風刺にあったにちがいない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』4、斎藤昌三訳)

 事物から言葉が生まれるのと同じように、言葉自体から事物が生まれる場合もあるというのが現代の考えのようである。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

芸術はもはや表現するだけでは満足しない。それは物質を変容させるのだ。
(マルセル・エイメ『よい絵』中村真一郎訳)

結局のところ、本は現実の人生ではない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

短く、簡潔で、まがいものでない言葉を使うこと。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

いつもほめられたり励まされたりしていないと落ち着かないような弱さ
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・17、御輿哲也訳)

 そう、じゃああれはうまくいったんだ、成し遂げられたんだわ。そして、成し遂げられたものすべてがそうであるように、それもまた厳かなものとなった。おしゃべりや感情を洗い流してよく考えてみると、それはパーティーの最初からあったようにも思える。ただ、はっきりと見えるようになったのは、やはりパーティーがすんだ後のことで、こうして目に見える形をもつことによって、それはあらゆるものに確かな安定感をもたらしていた。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・18、御輿哲也訳)

なぜあの光景だけは、輪に包まれた光を浴びたように細かい部分まで生々しくよみがえってくるのか、その前もその後も、何マイルにもわたって茫漠たる空白が続くばかりだというのに?
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

 そしてこれが──と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・一七、神谷美恵子訳)

哲学のわざは単純で謙虚なものである。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・二九、神谷美恵子訳)

ぼくにはつねに精神を活動させるなにかが必要なんだ。
(S・C・ロバーツ『クリスマス・イヴ』中川裕朗訳)

 自然は、多様性から力を引き出している。自然の中には、善人、悪人、気が変になった人、絶望している人、スポーツマン、寝たきり老人、身体障碍者、愉快な人、悲しんでいる人、知性的な人、無気力な人、利己的な人、寛大な人、小さい人、大きい人、黒い人、黄色い人、赤い人、白い人など。さらに、いろいろな宗教家、哲学者、マニアックな人、賢者などもいる。避けるべき唯一の危険は、この中の何者かが、他の何者かによって抹殺されることである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

「日本を沈没させろとおっしゃる……」とレスターがたずねる。
「わしの口から、そう言ってはおらんだろ」
 サッチャーがそう訊き返す。この人の心臓では、バターも溶けまい。
「考えとしては面白いと思わんか。真珠湾の意趣返しみたいなもんでな」
「血迷ってますよ、サッチャー」
 バーナードがそう言いながら、頭蓋骨を温かくしておこうとするかのように、ほつれ毛を頭頂部になであげ、
「こんなことは聞こえてない。聞いてない」
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』8、黒丸 尚訳)

闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)

名前を持つことが自立した実体として存在することである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)

思考を変えていくいちばんよい方法は、想像力の範ちゅうから外へ出ることだ。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第4部、小中陽太郎・森山 隆訳)

(…)帰りは黙りこくっていたが、その顔には許してあげるわと言うような微笑が浮んでいた。
 あの日と同じ微笑を浮かべてラウラがドアを開けてくれた。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

「(…)お料理は少し固くなっているかもしれないわ」
 固くなってはいなかったが、何の味もしなかった。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

 ぼくたちはゴーロワーズを吸った。ジョニーはコニャックならほんの少し、タバコは日に八本から十本くらいなら吸ってもいいと言われていた。しかし、タバコをふかしているのは彼の身体のほうで、彼自身は穴から外に出るのをいやがってでもいるように、あるものの中にじっと身をひそめている。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

(…)そのとき一匹のスカイテリアが彼のズボンをくんくん嗅いだので、彼は恐怖におののいた。人間に変わろうとしている! とても見ちゃいられない! 犬が人間に変わるのを見るなんて、恐ろしい! こわい! が、たちまち犬は走り去った。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

 彼の黄色味をおびた猫のような目はほんの少しだけ開いていて、本当の猫の目みたいに、揺れ動く枝や過ぎ行く雲を映してはいても、その奥にどんな考えや感情が宿っているかを示すことはなかった。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・1、御輿哲也訳)

結局、人は自分の本当の気持ちを言葉にすることなどできないのだろう。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳)

「ママ、パパに何があったの?」
「パパは詩人だったのよ」
「詩人ってなんなの、ママ?」
「パパもわからないっていってたわ。さあ、手を洗って、夕ご飯にしましょう」
「わからなかったの?」
「そう、わからなかったのよ。さあ、手を洗ってっていったでしょ……」
(チャールズ・ブコウスキー『職業作家のご意見は?』青野 聰訳)

私は階段をさらに上って行かなければならない。
何度も階段を上がる。
一生のあいだ、崇高さと奇矯さとの違いをたっぷりと味わい尽くして。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

(…)「美しい人間は心のなかまで美しいと、本気で思ってらっしゃるの? わたしは同意できないわ。その伝でいけば、醜い人間はなかまで醜いということになる」
「いいえ、そうは言ってませんよ」シスター・ブリジェットは面白がっていた。「わたしはただ、美は表面的なものにすぎないという考えに疑問を呈しているだけ」シスターはコーヒー・カップを両手で包み込むように持った。「もちろん、心なぐさむ考えではあるわ──そう考えれば、自分がいい人間のような気分になれる──でも、美しさは富と同様、その人の徳性にとっての財産なの。裕福な人間は、法を遵(じゆん)守(しゆ)し、寛大で、親切でいることができる。極貧(ごくひん)の人は、そうはいかない。一ペニーのお金を手に入れるのに汲(きゆう)々(きゆう)としている人にとっては、親切でいることさえたいへんなことなの」彼女は皮肉な笑みをうかべた。「貧困が人を向上させるのは、豊かでいることもできるのに、みずから貧困を選んだ人の場合だけ」
「それには反論しませんけど、でも、美しさと富がどう関係するのかわかりませんわ」
「美しさは、孤独や拒絶されることからくるマイナスの感情から、人を遠ざけてくれるの。美しい人は重んじられる──ずっとそうだったし、あなた自身がそれを証明している──だから、そういう人たちは、恨みや嫉妬や、自分の持ちえないものを持ちたいという欲求と比較的無縁でいられるの。(…)」シスターは肩をすくめた。「もちろんつねに例外はあるわ(…)でも、わたしの経験では、魅力的な人は、芯まで魅力的なの。外面の美しさと内面の美しさ、どちらが先なのかという議論はあるでしょうけれど、その二つはたいてい、手に手を取って進むものなの」
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』4、成川裕子訳)

 ルイーズが言う。「とにかく、この前より楽よ。ドッグフードしか食べなかった頃のことを思えば」
 アンナが言う。「前に犬だったとき──」
 ルイーズは自己嫌悪を憶えながらも、口を挟む。「あなたが犬だったときなんて、絶対に、ないのよ」
 アンナが言い返す。「どうしてわかるのよ?」
 ルイーズが言う。「あなたが生まれたとき、私はその場にいたの。あなたのママが妊娠していたときだってよ。あなたがこのくらいだった頃から私は知ってるんだから」彼女は給使長がしたように二本の指を近づけた。ただし、指にはしっかりと力を込めて。
 アンナが言う。「それより前だもん。あたしが犬だったのは」
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

幽霊はまたもベッドの下に潜り込んで、片手だけ突き出している。まるでベッドルームでタクシーを拾おうとしているみたいに。
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

少女探偵は再度試みる。「このレストランはいつからここにあるの?」
「かなり以前から時々です」と彼は言う。
(ケリー・リンク『少女探偵』金子ゆき子訳)

「そこのテーブル・クロスの上にパンがある」とジョニーは宙を見つめたまま言う。「それは疑いもなく固いもので、何ともいえない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの、おれの外にあるものだ。しかし、おれがそれに触れる、つまり指を伸ばして掴んだとする。するとその時、何かが変化するんだ、そうだろう? パンはおれの外にあるのに、おれはこの指で触り、それを感じることができるんだ。おれの外にある世界も、そういうものじゃないかと思うんだ。おれがそれに触れたり、それを感じたりできるのなら、それはもうおれとは違った、別のものだとは言えないはずだ。そうだろう?」
「いいかい、ジョニー、何千年も前から髯をはやした大勢の学者たちが、その問題を解こうと頭を悩ませてきたんだ」
「パンのなかは昼なんだ」とジョニーは両手で顔を覆って呟く。「おれは思いきって、パンに触ると、二つに切って口に放り込む。何も起こらないと分かっているが、それが恐ろしいんだ。何も起こらないから恐ろしい、分かるかい? お前はパンを切り、ナイフを突き立てるが、何もかも元のままだ。おれには分からないんだ。ブルーノ」
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 それは彼を精神的に支えていると気づくが、操りもし、傷つけてもいる……そうしているのが彼自身でもあり、彼以外のものでもある。
(イアン・ワトスン『ヨナ・キット』3、飯田隆昭訳)

 クレールがそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。日曜日になると、あなたたちは手をつなぎ、ひと言も口をきかずに何時間も歩いたのね。公園には、涸れたヒヤシンスの残り香が漂っていた。長い間散歩しているうちに落葉を燃やす匂いが鼻をつくようになったけど、そんな風に散歩していて、むかし私たちが海岸を歩きまわった時のことを思い出したのね。きっとそれは、自分たちの身にいろいろなことが起こり、川岸を歩いたり、ジャスミンや枯葉の匂いを嗅いだりして、終わりつつある季節の謎めいた予兆を感じとっても、二人ともそのことをけっして口にしようとしなかったせいね。結局、沈黙なのね。クレール、クレール──あなたは私に宛てた手紙でそう書いてきた──君はようやくわかってくれたんだね。かつて僕が持っていたものをまた手に入れたんだ。今僕はそれを所有することができる。僕はふたたび君を見つけたんだよ、クレール。
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

(…)子供の頃はクエルナバーカに家があったので、週末はきまってブーゲンヒリアの花が咲き乱れるあの家で過ごしたものね。あなたは水泳や自転車の乗り方を教えてくれた。そして土曜日の午後は自転車で遠くの村へ行ったけど、あの頃の私はあなたの目を通して世界を発見していったの。(…)
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

幸福な時代! われわれは人生が永遠につづくと思っていた。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』44、浅倉久志訳)

(…)彼女が公園の中で触れ、運び、発見したもの、それが彼女なのだろう。(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

これがすてきでなくて、ほかになにがある?
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』4、浅倉久志訳)

しかし、なにもないということは、なにかがあることを暗示している。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』7、浅倉久志訳)

 サー・ジョンと仲間の美術貴族たちは大英博物館やルーヴルやメトロポリタンの監督として、夢見るファラオやキリスト磔刑や復活(第二のデ・ミル監督の出現を待ちわびる究極の超大作映画の題材)の絵画を揃え、たしかに人間の魂の空虚を巧みに満たしてくれたが、そもそも魂のなかに欠けていたものは何だったのだろうか。
(J・G・バラード『静かな生活』木原善彦訳)

しかし、詩人というものは、みんなきちがいではないですか?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

 詩人の神経は伝導性があり、抑えきれないほどのエネルギーの奔流を運びます。彼は不安です──どれほど不安なことか! 彼は時の動きを感じます。指のあいだには、まるで生きた動脈をつかんだように、暖かいパルスが伝わってくる。ある一つの音で──遠くの笑い声、小さな波紋、一陣の風で──彼は気分が悪くなり、失神します。なぜなら、時の果てまでかかっても、その音、その波紋、その風がふたたびくりかえされることはないからです。これこそがだれもがたどらねばならん旅、耳をろうする悲劇なのです! しかし、きちがい詩人がそれを別なものにしたいと願うでしょうか? 一度も歓喜のないものに? 一度も落胆のないものに? 一度もむきだしの神経で人生をつかみえないものに?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

恐怖には二つの種類がある──本能的なものと、条件づけられたものとだ。
(ジャック・ヴァンス『殺戮機械』5、浅倉久志訳)

 最初は確かにおずおずと、ためらいがちに読んでいた。膨大な数の本を前にして立ちすくみ、どうやって進めばいいのかさっぱりわからなかった。一冊の本が次の本につながっていくような一貫した読書方針もなく、よく、二冊、三冊を並行して読んでいた。次の段階になると、読みながらメモをとるようになり、それ以降はつねに鉛筆片手に読書をした。メモといっても読んだ内容を要約するのではなく、印象に残った一節をただ書き写すだけだった。メモをとりながらの読書を一年かそこら続けてからようやく、時おりためらいがちに自分の考えを書きとめるようになった。「私には文学が広大無辺な国のように思える。そのはるかな辺境へ向かって旅しているけれど、とうていたどり着けない。始めるのが遅すぎた。遅れを取り戻すのは不可能だ」と女王は書いた。それから(それとは無関係に)「エチケットというのは煩わしいこともあるが、気まずい思いをするほうがもっと悪い」。
(アラン・ベネット『やんごとなき読者』市川恵里訳)

「(…)考古学は主として物事のあいだに脈絡をつける過程であって、どんな発見でも、すでに知っている事柄との可能な共鳴を表面化するのよ。ときには、博物館や発掘現場を歩きまわるだけで、眼が開けることもあるわ」
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上巻・第三部・1、山高 昭訳)

「(…)高校時代、(…)僕らはそこで抱きあったんだよ、車がブーンと音をたててハイウェイを駆け抜けていき、カーラジオがBGMを奏でてるなかでね」
 すでに詰め終え、あとは封をすればいいだけになっていたもうひとつのボール箱の上に、彼はガムテープを貼った。彼は側面まで伸ばしたテープの端を親指でしっかり押しつけると、残りのロールを手でちぎった。
「あなたのしたのはそれだけ?」と彼女は言った。
「そのときはね」と彼は言った。
「別のときはどうしたって言うの?」
 彼はにやりと笑った。「まさか君、僕が十代のときにしたことを妬いてるんじゃないだろうね」
 もちろん彼女は嫉妬していた──なぜなら彼女は、人も物事も記憶のなかで完全に忘れ去られることはないと知っていたから。いくつかの過去の出来事を思い起こしてみるとき、われわれはその鮮明さに驚いてしまう。過去の記憶がわれわれの考えをくつがえしてしまうことだってあり得るのだ。
(アン・ビーティ『広い外の世界』道下匡子訳)

(…)しかし、先に述べたように、変わったのは私だけだった。私以外はすべてが昔のままだった。歩道、ライムの木の街路、未だに始終修理が必要な樫の囲い、昔は怖かったのに今はただ薄汚いだけの大きな屋敷、ヨーロッパアカマツの傍らの教会、道の赤い砂、鉄板に豚の浮彫のある飾りが目立つので記憶している、教会の隣の一風変わった家──みな同じだ。だが、何にもまして、鹿が昔と同じなのが印象的だ。昔と同じく妖精のようで、見ていると心が躍る。昔と同じく、神秘的な動き方をする。私が、子供の時以来今日まで鹿を見る機会が殆ど無くてよかったと思った。特に、まだらのある鹿は一度も見なかった。今日の驚きと歓喜の感動を新鮮に保つため、今後しばらく又鹿を見るのは、やめておこうと思う。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 私の思い出の鹿苑を数十年振りに訪ねた後、一マイル半歩いて市場のある町に来た。ここで昔最初の弓矢を買ってもらった小さな玩具とキャンデーの店を探してみたが無駄だった。どこにあったか覚えていたのだが、店に代って新しい大きな建物が立っていた。弓矢を買ってくれたのは独り者の訪問客の一人だった。こういう人は、僅かな金額で、子供の世界に輝きを与え、この世を天国に変える魔力を持っているものだ。最初の弓矢を再度入手できないのは辛い悲劇の一つである。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 かれは自分が冷水の入ったコップになった気がした。何たる気ちがいじみた考えだ! コップの外側の水滴みたいに冷たい汗が噴き出していた。身体の中は冷たくて仕方がない! かれは腕をくみ、慄えはじめた。やっと指先が毛布をまさぐり、それをつかむと身体に引っぱり上げた。
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁賀克雄訳)

(…)この世で一番不幸な人の中に、過去において自分が蒙った被害を忘れられない人がいる。また、自分が他人に与えた危害を忘れられないので不幸になっている人もいる。実際、人間というのは、記憶しておきたいことは忘れ、忘れたいことは覚えているように生まれ付いているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

鉄道での旅行者の遺失物が今ロンドンの主要駅の一つで販売されている。その品物のリストが発表され、それを見た多くの人が人間の忘れっぽさに驚いている。だが、件の統計上の数字が入手できれば、忘れる客がそんなに多数だということになるかどうか、私は疑問に思う。実は、私が驚くのは人の記憶力がいい加減だということより、その素晴らしさである。現代人は電話番号まで記憶しているではないか。友人の住所も覚えている。ビンテージワインの年号も覚えている。(…)
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)現実の釣竿は忘れてしまう。この種の記憶喪失は、いかに彼が魚釣りを楽しんだかの嬉しい証拠である。彼が釣竿を忘れるのは、詩人がロマンチックな事柄を考えていて、手紙を出すのを忘れるのと同じである。この種のぼんやりは私には美徳のように思える。忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函など無視する魂を持っているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)真実というものは、人によって耐えられる量、ふさわしい分量が決まっている。おれと話をする人間の中でも、弱いやつほど作り話や嘘を欲しがる。そういうやつには真実を嘘で塗り固めて、生きる助けにしてやらなければならない。生の言葉ですべてを語れる相手は、限りない知力と寛い心をもった存在、つまり神だけだ。神が相手の時はシニスムは考えられない。というのはシニスムは、相手が耐えられる以上の真実を伝えたり、我慢できる以上のどぎつい言葉を発するのに役立つからだ。そこで思うのだが、友達関係を耐えられるものにしようと思ったら、たがいに相手を買い被らなければならない。それに見合った優れた人間にならなければと重荷に感じて、相手がいつも不快になるほどの買い被りが必要だ。その分量があまりに多いと、相手は傷つき、関係を断ってしまうだろう──一生の絶交になることもある。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)愛が完全かどうか(…)を見る試金石、まちがいなく見分ける指標は何かと言うと、次のようなまれな現象が起こっているかどうかだ。すなわち、顔に欲望を覚えるという現象。体のどの部分より顔にエロティシズムがあるように思われる時……それが愛だ。おれは今、顔こそが人間の体の中でもっとも官能的な部分だということを知っている。人の体の中で真に性的なのは、唇であり、鼻であり、とりわけ目なのだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

それは私の顔だ。たびたびきょうのように、むだに終わった日に、私はじっと自分の顔をながめて時を過ごす。私にはこの顔がちっともわからない。他人の顔は一つの意味を持っているが、私の顔にはそれがない。私の顔が美しいか醜いかも、決めることができない。醜いと言われたことがあるから、そうだろうと思う。しかしそう言われても腹立たしくはない。じつを言うと、人が土くれや岩の塊りなどを美しいとか醜いとか言うように、そういう種類の形容詞を私の顔に与えうるということが、私を驚かせるのである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

人々の顔を眺めるのは彼にとって楽しいことだった
(ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)

 苦しみは人生の視野を拡げ、より同情心ある人物にする。自分も同じような目に遭っていれば、他人の不幸を理解しやすくなるというわけだ。
(P・G・ウッドハウス『それゆけジーヴス』5、森村たまき訳)

(…)もっとも、悲劇といえば、かれがぼくに語ったことが、真実だとしたら(ぼくは真実だと信じていますが)けっきょく、そんなことを言えば、人間の一生なんてみんな悲劇ですからなあ。舞台へなんかへかけられるものとはまたちがった、もっと不思議な悲劇ですからなあ
(アーサー・マッケン『パンの大神』4、平井呈一訳)

人生の幸福は非常に少ないものにかかっている。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第七巻・六七、神谷美恵子訳)

 人間には、人間的でない出来事は起りえない。牡牛には、牡牛にとって自然でない出来事は起りえない。葡萄の樹には、葡萄に自然でない出来事は起りえない。また石にも、石に特有でないことは起りえない。かように、もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起るのならば、なぜ君は不満をいだくのか。宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・四六、神谷美恵子訳)

つぎのことを記憶せよ。無花果(いちじく)の樹が無花果の実をつけるのを驚いたら恥ずかしいことであるように、宇宙がその本来結ぶべき実を結ぶのを驚くのも恥ずかしいことである。同様に医者や舵取りが患者に熱のあるのや逆風の吹くのを驚くのも恥ずかしいことである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・一五、神谷美恵子訳)

 万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致している者はない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・二一、神谷美恵子訳)

魂の働きのなかには、低級なものもいくつかある。その面から魂を見ない者は、魂を完全に知ることはできない。そしておそらく、魂が単純な歩き方で進んでいるときにこそ、それをもっともよく見てとることができるのだろう。情念の疾風は、魂を、それが高い位置をとっている場合に、より多くとらえる。それに加えて、魂はおのおのの材料の上に完全に身をのせきり、そこで全体で働きを行い、けっして同時にひとつ以上のことを扱わないのだ。そして材料を、それに従ってではなく、みずからに従って扱う。事物というものはおそらく、独自に、それ自身の重さや寸法や性質を持っているのだろう。しかし、われわれのなかへはいってしまうと、魂は、自分の了解しているとおりにそれらのあり方を裁断して、事物に着せかけてしまう。(…)
(…)われわれに事物についての了解を与えているものは、われわれ自身なのだ。
(モンテーニュ『エセー』第I巻・第50章、荒木昭太郎訳)

 われわれは皆断片からできていて、あまりにかたちをなさない多様な組成をしているので、一片一片が瞬間ごとにおのおのべつの動きをする。われわれとわれわれ自身とのあいだには、われわれと他人とのあいだにあるのと同じくらいの相違がある。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

「もう終りにしましょうよ」と彼は言った、「二時近いですよ」
「それももっと多くを言うために少なく言う言いかたですの?」
「それとは反対に、『聖書』のなかでは、言葉がいかに表現の新鮮さを保ちつづけてきたか見てごらんなさいよ」
「それはきっと言葉遣いがとても単純な箇所でしょうね」と彼女は言った、「毎日の言葉が使われている箇所ね」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野昭正訳)

(…)そして、おそらく、その景色があれほど美しくなかったら……とはいうものの、ただひとつの状況を異なるものとして想像することなどできるだろうか?……人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるものなのだ、と彼には思われた。あれは彼らにとって目眩(めくるめ)く驚異だった。六月のこよなく美しく晴れた日のことで、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)

スヘヴェニンゲンの浜辺も、他の浜辺と同じように、地雷を埋めた浜辺だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

(…)今(なんて言葉だろう、今なんてものはありはしない)、ぼくは河に面した手すりに腰をかけ、赤と黒のツートンカラーの遊覧船が通るのを眺めている。写真を撮る気になれない。ただあわただしく行き交う事物を眺めながら、腰をかけたままじっと時の流れに身をまかせている。風はもうおさまっていた。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)家は、決められた時間に食事をとるしっかりした家庭で、うす暗い客間があり、ドアの脇にはマホガニーの傘立てが置いてある。壁にはロマン派の風景画がかかっているにちがいない。家で勉強していると、時間は雨の日のようにのろのろ過ぎていく。母親に期待をかけられている彼は、最近父親に似てきた。アヴィニョンの叔母さんに手紙を書かなくては。お金を持たないそんな彼のためにパリの街々とセーヌ河がある。(…)一袋十フランのフライド・ポテト、四つに折り畳んだポルノ雑誌、空のポケットのような寂しさ、幸運な出会い。町は未知の事物で埋めつくされている。風や町にも似た気易さと貪欲な好奇心に駆られて彼はそれらの事物を熱愛する。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)悪は──何世紀にもわたって記録されてきたのとは異なり──混沌(こんとん)の道具などではないのだ。創造こそが混沌の力なのだ。ほら、この真理は自然界のあらゆる仕組みに見いだせる──花粉の雲や、蠅(はえ)の群れや、鳥の渡りにだ。こうした出来事は正確さこそあれ、混沌としている。その正確さは過剰さからくるものであり、百万発撃って標的に数発あたるようなものだ。いや、悪は混沌ではない。簡潔さであり、システムであり、断ち切るナイフの一突きなのだ。とりわけ、回避不可能なことだ。善のエントロピー的解決であり、創造性の絶対的単純化なのだ。ヒトラーはずっとこのことを知っていたし、国家社会主義はつねにそれを具現していた。電撃戦や強制収容所がこの単純さの戦術的表現でないとすれば、なんだというのか?
(ルーシャス・シェパード『メンゲレ』小川 隆訳)

──とはいえ、こうしたこともしょせん人間性の一部ではないだろうか?
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』1、内田昌之訳)

 時の歩みをもっともよく教えるのが手である。手は、ひとが三十歳になる前から老いはじめる。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』35、鼓 直・杉山 晃訳)

 わたしは両手を上げて、見ようとした──今は手の甲に静脈が浮いていることも知っていた。手に静脈が浮き出した時が、人が大人になった時なのだ。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

(…)「どうやら、死ぬことは気にしていないみたいね──さばさばしてるもの」
 わたしは御者台の背にしがみついた。「そりゃ、死は異常なことではないからね。ぼくのような人間はきっと何千人も何万人もいるよ、死に慣れている人間は。人生のうちの本当に重要な部分はもう終わってしまったと感じている人はね」
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

花?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)

これまで知ってきたものがすべて光の中に溶けたり暗闇の中に逃げてしまったのだ
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わりに』小川 隆訳)

「メタファーとはなんだね? だれか?」
「メタファーは、ふたつのものを類似させる言葉のあやです」
「ちがう、ふたつもまちがいがある。類似は最初からそこにある。メタファーはそれを見るだけだよ。そしてメタファーは、たんなる言葉のあやではない。人間の精神の本質そのものだ。われわれ人間は、類似性や対比や関係を見出すことで、自分たちの周囲のものを、自分が経験したことを、自分自身を理解しようとする。われわれはそれをやめられない。たとえ精神がそれにしくじっても、精神は自分に起きていることをなんとか理解しようと努力しつづける」
(コニー・ウィリス『航路』下巻・第二部・承前・34、大森 望訳)

ほんとに、何度言えばわかるの? 比喩は現実なのよ
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

 比喩は象徴の一種なの、いい? そして象徴は、〈技〉の基礎です。わたしたちは象徴を通じて現実を操作するのだから、したがって、象徴もまた現実であり、現実でなくてはならないのよ。
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

必要なのは幻影だけれど、幻影にはモデルが必要だ。
(メリッサ・スコット『地球航路』5、梶元靖子訳)

 そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。
(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)

存在は秩序を必要とする。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

「わたし、どれくらいいられるの?」
 自分の思考の谺(こだま)にも似た質問に、彼は思わずたじろいだ。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

どうやら自分の経験と酷似しているような表現に出くわしたのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 詩人の真価は、有限な表現による言語の舞いではなく、知覚と記憶、知覚されるものと記憶されるものへの感受性、それらのほぼ無限の組みあわせにこそある。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 右半球であつかえるたった九語の語彙だけで、どうやって立派な詩が作れるのかと、不思議に思うかね?
 答えはこうさ。小生は一語も言葉を使わなかったのだよ。詩にとって、言葉とは二義的なものにすぎない。なによりたいせつな対象は真実だ。ゆえに小生は、強力な概念、直喩、関係を用いて、物自体(デイング・アン・ズイツヒ)──影のなかにひそむ実体をあつかった。たとえていえば、ガラスやプラスティックやクロムアルミニウムすら出現しないうちから、より高度な強化(ウイスカード)合金の骨格を用いて、エンジニアが摩天楼を築きあげるがごとく。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

(…)この小屋がまた、奇妙に居心地がいい。なかにあるのは、ものを食うための食卓、眠りかつセックスをするための寝棚、大小便用の穴、黙々と外を眺めるための窓、それだけだ。小生の環境は、まさに語彙を反映していたといえよう。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

大むかしから、監獄とはもの書きにとって最高の場所だった。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 彼女のおろかな恐怖はすべて流れ去り、彼女の力のなくなった手は、静かにヘンリーの手に握りしめられ、臨終の言葉に、ひそかな音のリズムを見いだして、それを楽しんでいるかのようだった。
(ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)

(…)彼はこの皮肉っぽい軽い詩のように、いとも簡単に詩が浮かんだ頃のことを思い返した。今は詩作もずっと知的で計算された言葉の選択と配列になっている。自分の生活の中で内側から自然に湧き上がるものが、はたしてあるだろうか。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 サディーはとても優しい子でした。詩は情熱だけれど、人生のすべてである必要はないということを教えてくれました。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 人間が一生許すことも忘れることもできないもの、それはその人間が幼くて無力であるときに受けたひどい仕打ちだ。
(P・D・ジェイムズ『皮膚の下の頭蓋骨』第五部・37、小泉喜美子訳)

(…)ある哲学者の言葉を、確かロジャー・スクルートンだったと思うけど、思い出しましてね。"想像したものが与える慰めは想像上の慰めではない"
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第二部・19、青木久恵訳)

詩はかならずしも意味をもたなくてもいい、自然のものがしばしば意味をもたないように。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

詩の目的はひとの幸福に貢献するにある。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

 ソネットの厳しい規則が詩作に高い水準を強制できるように、科学的な事実に忠実であることは、よりよいSFを生みださせることができる。これを無視するのは、自由詩型についてのロバート・フロストの言葉──"それはネットを下ろしてテニスをするのに似ている"──を思いおこさせる。
(グレゴリイ・ベンフォード『リディーマー号』のあとがき、山高 昭訳)

文体は主題から自然に生まれるものだ
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

オーデンいわく、「詩は実際の効用をもたらすものにあらず」。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

 そして若いころ書いたわたしの詩一篇だ。この詩はとるに足らないもので、いまのわたしとしてはできれば破って棄ててしまいたい代物だ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 それが印刷されたとき、どんなに得意であったかは、今でもよくおぼえている。これでみんな、おれが詩人だということを知るだろうと、あの当時は思ったものだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 世間の普通の人は詩など読まないものと、わたしは思いこんでいた。雑誌を見ていて詩が出てくると、人々は「おや、ここは詩じゃないか」と言って、そして急いでページを繰って小説を探そうとする。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

そりゃ今だって詩人はいるさ、それは誰も否定しないよ、でも誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

「やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ」
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

 こんなに見つめあったりするのは、なにか気脈の通じる人間どうしだけができることだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

(…)わたしの手はわたしの視線を追って、できるだけの早さでカンバス上を走りまわるのだった。ところが、そのわたしの視線は、また、現実に見えないものまで求めているのだった。つまり、そこにあるものではなく、かつてそこにあった、そしていつかはそうなるだろうという対象の姿を求めるのである。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』10、井上一夫訳)

 私は、ときたま穀倉とか台所とか人目につかない所とかで見かけることのある、その用途はもはやだれにも説明できないような、そういった物や、箱や、什器(じゆうき)のことを考える。われわれが時間の行(こう)業(ぎよう)を理解していると思うことの虚しさ。時間はその死者たちを埋葬して、その鍵を手許から離しはしない。ただ夢の中でのみ、詩の中でのみ、遊戯の中でのみ──蝋燭を点し、それをかざして廊下を歩くならば──われわれは、はたしてわれわれであるのかどうかもわからないこのわれわれの存在よりも以前にわれわれであった存在を、ときとして垣間見るのである。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・105、土岐恒二訳)

 わたしたちは知ることのなんと少ないことか──迫り来る寒さにしても、奇蹟や死、まして細長い浜辺や、丘や、木や石のわずかの壁と、小さな火、わたしたちを暖めてくれる明日の太陽や、明日の平和への願い、良い天気への願い……この嵐で明日なんて吹っとんでしまったとしたら、どうなるんだろう。もし時間というものが静止してしまったら? それに昨日というものも、もしわたしたちがそういう嵐に道を失ってしまったら、もう一度その昨日を迎えるかもしれない。そこでわたしたちはその昨日を明日の朝日と思いこむかもしれない。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』6、井上一夫訳)

 彼はほとんど無一物で暮らしていたし、彼が一年に一枚の絵も売れたかどうか危ういものである。しかし、彼は自分の才能を疑ったことのない、幸福な人間だった。彼の欲望はささいなものであったが、その悲しみは苦痛は伴わないが大きなものだった。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

どのくらいの時間で、ひとは地獄を──そして天国をのぞくことができるものだろう。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 わたしはすぐに答えなければいけない。遅れることは、まちがった答えと同じだけ危険だわ
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第一巻、矢野 徹訳)

成長はその必要とするものによって制限される、
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

緊張が大きなときに真実をはっきりと知る
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

それは象徴以上のもの、現実だ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

視界だけに頼るなら、ほかの感覚は弱まる
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

真実とは強力な武器なのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

存在しないこと、それは存在することと同じほど致命的なものとなり得る。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

世界は多数の群衆と少数の個人とで成り立っている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・1、宮西豊逸訳)

年齢を重ねるにつれて、自分の一部が新しい風景のように見えてくるのだ。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』下巻・エピローグ・2、山高 昭訳)

成功は饒舌だが、失敗は無言である。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

絶対は崩壊の餌食であり、永遠は変質の餌食である。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十章、榊原晃三・南條郁子訳)

最愛の人の不倫は食欲をそそる究極の前菜である。
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第3章、増田まもる訳)

 海水パンツをはいた姿などというのは、まったくの裸身でもなければ、ときおり悩ましくさえある衣服の独創的な言葉でもない。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十三章、榊原晃三・南條郁子訳)

 箱庭が小さければ小さいほど、その包括する世界は大きい。(…)風景が小さければ小さいほど、ますます強力な霊力が手に入る。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十八章、榊原晃三・南條郁子訳)

最高の幸福は不幸の總元締、智彗の完成は愚鈍のもと。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

人間でいるってことは、変てこなもんだ
(ルーディー・ラッカー『空を飛んだ少年』第三部・20、黒丸 尚訳)

個人的な好みに左右されるようなことには正しいもまちがいもない
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』4、大森 望訳)

 音楽や性行為、文学や芸術、それは今やすべて、楽しみの源ではなくて苦痛の源にされてしまってるんだね
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

選択のできない人間というものは、人間であることをやめた人だよ
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

ほかに選択の余地がないにもかかわらず、それがあるかのように行動して、その結果なにもかも失ってしまう人間が驚くほどたくさんいる。それもこれも、しなければならないことをするのに耐えられないからなんだよ
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』5、大森 望訳)

神は、善良であることを望んでおられるのか、それとも善良であることの選択を望んでおられるのか? どうかして悪を選んだ人は、押しつけられた善を持っている人よりも、すぐれた人だろうか?
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・3、乾 信一郎訳)

聖書の著者は神である。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第一〇項、山田 晶訳)

「神を持ちだすなよ。話がこんぐらがってくる」
(キース・ロバーツ『ボールターのカナリア』中村 融訳)

あんた自身が神様を信じていれば、その言葉ももうちょっともっともらしく聞こえるだろうがね。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

神がいると、本当に信じているのですか?
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・27、小隅 黎訳)

天国なんてないのよ
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

パパは天国にいるっていったじゃない。
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

単純にして明快な事実だよ。事実に対して動転する必要があるかね?
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第一部・暗闇、大森 望訳)

 そう、私は真実を要求した。しかし心の奥底で私が本当に欲望していたのは、驚異だったのだ。
(ミシェル・ジュリ『熱い太陽、深海魚』松浦寿輝訳)

 しかし、人と近づきになる楽しみは、すべての楽しみがそうであるように、間違いなく確実な出費を要求した。
(A&B・ストルガツキー『世界終末十億年前』第二章、深見 弾訳)

 微笑は、今の話を本気にする必要はないと語っていた。だが、信じたふりをしてくれれば嬉しいという含みも感じられた。
(ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』伊藤典夫訳)

 ところが、そのあいだに不思議なことが起こった。まるでふたつのからだがぴったりと触れあったことで通り道ができたかのように、新しい理解がジーンのもとに届いた。
(アンナ・カヴァン『愛の渇き』大谷真理子訳)

しかし、その真実は、はたして彼の知っているとおりなのだろうか。
(フレデリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』2、星 新一訳)

ぼくは過去の食卓のうえに今この食前の祈りを繰り返す。
(ディラン・トマス『飼鳥が焼けた針金で』松田幸雄訳)

「聞いているかね、友よ?」
 彼女は一語余さず聞いていたし、それぞれの語のあいだに広がる暗黒にも耳を澄ませていた。
(ロバート・リード『地球間ハイウェイ』第二部・ジュイ・1、伊藤典夫訳)

身をこがして光をふりそそぐ力がないならば、せめてそれをさえぎらないようにするがよい。
(トルストイ『ことばの日めくり』一月三日、小沼文彦訳)

神は愛そのものではない。愛は人間における神の現れの一つであるにすぎない。
(トルストイ『ことばの日めくり』五月二十四日、小沼文彦訳)

 愛は二人だけのものである。たとえそれがつまらない、気取った、ばかげたものであっても、愛し合う二人だけのために愛は存在する。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

〈知性〉の第一の義務は自己に対する懐疑である。これは自己軽蔑とは別物だ。想像された森の中で道に迷うことは現実の森の中で道に迷うことより難しいが、それは前者が考えている者にこっそり手助けするからである。解釈学とは現実の森の中の迷宮庭園なのであって、それは森が見えなくなるような刈り込み方をされているのだ。諸君の解釈学は現実について夢想する。だが私が諸君に示そうとするのはさめた現実なのであって、肉が付き過ぎて、そのために信じるに足りないように見える現実なのではない。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)

諸君は人間とは〈知性〉であり、〈知性〉とは人間であると主張してやまないが、この等式の誤謬が諸君を盲目にしたのだ。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)

文学極道

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