二〇一六年六月一日 「隣の部屋の男たち」
お隣。男同士で住んでらっしゃるのだけれど、会話がゲイじゃないのだ。なんなのだろう。二人で部屋代を折半する節約家だろうか。香港だったか、台湾では、同性で部屋を借りるっていうのはよくあるって、なんかで読んだことあるけど。まあ、ゲイでも、ゲイでなくてもよいから、テレビの音を小さくして。とくにコマーシャルの音がうるさい。というか、テレビしかないのか。音楽が流れてきたこと、一度もない。会話は、会社のことなのか、だれだれがどうのこうのとかいった情報、ぼくが聞いて、どうすんのよ。と思うのだけれど。とにかく、テレビの音を小さくしてほしい。
二〇一六年六月二日 「たったひとつの冴えたやりかた」
ティプトリーの短篇集『たったひとつの冴えたやりかた』、タイトル作品、記憶どおりの作品。さいごまで読もう。残る2つの物語にはまったく記憶がない。これはSFチックだ。作家がすごいなと思わせられる理由のひとつとして物語がある。ぼくには物語が書けない。じっさいにあったことにしろ、なかったことにしろ、言葉についてしか書けない。
二〇一六年六月三日 「人生の速度」
きょうは、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』を読もう。『たったひとつの冴えたやりかた』の第二話と第三話はまったく記憶に残っていなかったものだった。読書で、ぼくの記憶に残っているものって、ごくわずかなものなのだなってことがわかる。まことに貧弱な記憶力だ。『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』も、むかし読んだのだけれど、まったく記憶がない。記憶に残らない可能性が高いのに、むさぼるようにして、ほぼ毎日、読書するのはなぜだろう。たぶん、無意識領域の自我に栄養を与えるためだと思うのだけれど、読むことでより感覚が鋭くなっている。感覚が鋭くなっているというよりは、過敏になっているというほうがあたっているような気がする。齢をとると、身体はボロボロになり、こころもボロボロになりもろくなっていくということなのかもしれない。ちょっとしたことで、すぐに傷ついてしまうようになってしまった。弱くもろくなっていくのだな。でも、それでよいとも思う。毎日がジェットコースターに乗っている気分だと、むかしから思っていたけれど、齢をとって、ますますそのジェットコースターの速度が上がってきているようなのだ。瞬間を見逃さない目をやしなわなければならない。瞬間のなかにこそ、人生のすべての出来事があるのだから。
二〇一六年六月四日 「2009年4月28日のメモ」
芝生を拡げた手のひらのような竹ほうきで、掃いていた清掃員の青年がいた。
頭にタオルをまいて、粋といえば粋という感じの体格のいい青年だった。
桜がみんな散っていた。
散った花は、花びらは少し透明になっていて
少し汚れて朽ちていて芝生の緑の上にくっついていた。
たくさんの桜の花びらが散っていた。
枝を見たら、一枚ものこっていなかった。
日が照っていて、緑の芝生が眩しかった。
でも、桜の花びらは、なんだか、濡れていたみたいに
半透明になっていて、少し汚れていた。
校舎の前のなだらかな坂道が、緑の芝生になっていて
ところどころに植えられた桜の木が
通り道のアスファルト舗装された地面や緑の芝生の上に
濃い影を投げかけていた。
ぼくは、立ち止まってメモを書いている。
桜の花びらが、みんな散っているな、と考えながら
芝生の上に目を走らせていると
校舎の2階や3階からなら見える位置に
百葉箱があるのに気がついた。
いまの勤め先の高校には、もう20年くらい前から勤めているのだけれど
まあ、途中9年間、立命館宇治高校や予備校にも行っていたのだけれど
この百葉箱の存在は知らなかった。
百葉箱がこんなところにあるなんて、はじめて知った。
百葉箱は白いペンキが少し変色した感じで
4、5年は、ペンキの塗り替えがされていないようだったが
ペンキの剥げは、まったく見当たらなかった。
4、5年くらいというのは適当だけど、4、5年くらいって思った。
二〇一六年六月五日 「風邪を引いた。」
風邪をひいたのでクスリのんで寝てる。本を読んでるから、ふだんと変わんないけど。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』古い題材なのは仕方ないな。まあ、ゴシック怪奇ものをふつう小説とまぜまぜで読んでる感じ。買ったから読んでるって義務感的な読書だな。なぜか読みたい本はほかにあるのだけれど。いま、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻を読んでいる。緻密だ。あきたら、また『ウィーン世紀末文学選』に戻ろう。咽喉が痛い。きょうは早めに寝よう。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』に載ってるシャオカルという作家の「F伯爵夫人宛て、アンドレアス・フォン・バルテッサーの手紙」(池内 紀訳)がおしゃれだった。さいごのページの「以上すべて私の作り話です。」って構成は、ぼくも真似をしたくなった。岩波文庫の短篇選に外れはない感じだ。
二〇一六年六月六日 「髪、切ってないから、こんどにする。」
これから河原町へ。5時に、きみやさんで、えいちゃんと待ち合わせ。早めに行って、ジュンク堂にでも寄ろう。
いま、きみやから帰ってきた。ちょこっと本を読んだら、クスリのんで寝よう。きのう、信号待ちしてたら、めっちゃタイプの子が自転車に乗ってて、まえに付き合ってた男の子に似ていて、ドキドキした。ああ、まだ、ぼくはドキドキするんだって、そのとき思った。そのまえに付き合ってた男の子から電話があって、「いま、きみやにきてるから、飲みにおいでよ。」と言うと、「髪、切ってないから、こんどにする。」との返事。いわゆるブサカワ系のおでぶちゃんなのだけれど、髪切ってるか切ってないか、だれもチェックせえへんちゅうの。ぼくはチェックするけど、笑。西院駅からの帰り道、「ひさしぶりです。」と青年から声をかけられたのだが、タイプではないし、ということは元彼の可能性はゼロだし、仕事関係でもないし、と思ってたら、ああ、ぼくはヨッパのときの記憶がないし、そのときにでもしゃべったひとかなって思った。酔いは怖し、京都は狭し。
秋亜綺羅さんから、ココア共和国・vol.19を送っていただいた。体言止めが多い俳句というものを久しぶりに見た。基本、ヘタなんだな。松尾真由美さん、相変わらず、意味わからない。ほかのひとの作品も、ぼくにはさっぱりわからない。これから岩波文庫『ウィーン世紀末文学選』を読みながら寝る。
二〇一六年六月七日 「オバマ・グーグル」
山田亮太さんから詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)を送っていただいた。きれいな装丁。タイトル作は、発表時、だれかが批判的に批評していたけれど、その評者のことをバカじゃないのって思ったことを思い出した。詩というより、言語作品。方法論的に、ぼくと似ているところがある。抒情は違うけど。
いま塾から帰ってきた。朝からこの時間まで仕事だけど、実質労働時間は3時間半。いかに、通勤と空き時間が多いことか、笑。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、いま、94ページ目。読みにくくはないけど、読みやすくもない。でも、まあ、なんというか、犯人をまったく追わない警官だな。
二〇一六年六月八日 「ぼくの卑劣さ」
マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、3分の2くらいのところ。緻密だけれど、P・D・ジェイムズほどの緻密さではない。読みやすくはないが、ユダヤ人の宗教分派について勉強もできる。人間の書き込みが深い。なぜ日本の作家には深みがないのだろうか。
まえに付き合ってた男の子が、きのう、あっちゃんちに泊まりに行っていい? と訊いてきたのだけれど、「いま風邪ひいてるから、あかんわ。」と返事した。付き合い直してる相手がいるとは、けっして言わないところが、ぼくの卑劣さかな。あした、その相手が泊まりにくるんだけど、風邪が治っていない。
ちゃんと、うがいとかして、風邪がうつらないようにしてよ、と言ってあるのだけれど、横で寝てたら、うつるわな。あしたには、風邪が完治していますように祈ってる。というか、風邪ひいてる相手のところに、ぼくなら泊まりに行かないかな。感覚のビミョウな違いかな。
二〇一六年六月九日 「2009年5月某日のメモ(めずらしく、日にちが書いていないのだった。日付自体ないものはあるけど。)」
女装のひとから、花名刺なるものをもらう。
その女装の人とは、もう20年以上前から顔を知っていて
ときどき、話をする人だった。
ぼくより6才、上だって、はじめて知った。
その人は、男だから、本来は花名刺って
芸妓が持つものなのだそうだが
花柳界ではその花名刺なるもの
細長い小さな紙に
上に勤め先の場所
たとえば祇園とか
店の名前とかが書いてあって
下に名前を書いた簡単なものなのだけれど
客が喜ぶのだという。
芸妓からもらうと。
芸妓って、もと舞妓だから
「お金が舞い込む」というゲンかつぎに
もらった花名刺を財布に入れておくのだという。
「なくさへんえ。」
とのこと。
ぼくもなくさず、いまも部屋に置いてある。
そのひとは宮川町出身で
まあ、お茶屋さんの町やね。
ぼくもそばの大黒町(字がこうだったか、記憶がないんだけれど)に
住んでたこともあったから、そう言った。
祇園に引っ越したのは、小学校の高学年のときだった。
ぼくの父親はもらい子だったのだけれど
もらわれた先の家が大黒町にあって
その家はせまい路地の奥のほうにあって
路地の入り口近くの魚屋が大家さんだったみたいで
長屋と呼ばれる、たくさんの世帯の貧乏人がいたところで
父親がもらわれた家の女主人は被差別部落出身者だった。
ぼくのおばあちゃんになるひとだけれど
血はつながっていないのだけれど
ぼくの実母も、高知の窪川の被差別部落出身者なので
なにか因縁を感じる。
ぼくは、おばあちゃん子だった。
花名刺をくれた女装のひとは
水商売をしていたのだけれど
あんまりうまくいかなかったわ、と言ってた。
九紫の火星やから水商売に向いてへんのよ、と言う。
だから、6年前から、花名刺をつくって
名前を「みい子」から
「水無月染弥」に替えたのだという。
6月生まれやから水無月という名字にして
下の名前の「弥」は
芸妓がよく使う名前やという。
男の名前に使われる「也」とは違うのよ、と言っていた。
替えてから、多少はうまくいくようになったという。
いまは、三条京阪のところにある友だちのところに勤めているという。
着物姿の女装のイメージが強くて
この日会ったときのワンピース姿は意外やった。
でも、シャキッとして、一本、筋の通った女装って感じで
お話をするのは、大好きなタイプ。
もらった花名刺って、いま長さを測るね。
横2.4センチ
縦7.5センチ
のもので
赤いインクで
鳥となんか波頭みたいなものが書かれていた。
これ、波ってきくと
「そうよ、鴨川の浪よ」
「この鳥は、じゃあ、水鳥なの?」
「これ、千鳥よ。
千鳥って、縁起がいいのよ。
だから描いてもらったのよ。
ほら
新撰組の歌にあるでしょ。
鴨の川原に千鳥がさわぐ〜って」
このあとのつづきも、歌ってくれたのだけれど
血が、どうのこうのってあって
不吉なんと違うかなと思ったのだけれど
黙って聞いていた。
ぼくが目の前でメモをとるのも不思議がらずに
ぼくに一所懸命に説明してくれて
めっちゃ、うれしかった。
共通の敵の話も、このときにしたのだけれど
それは後日に。
お笑いになると思います。
あ
花名刺
名刺屋さんでつくってもらって
まんなかを自分で切り抜いているのだという。
ふつうのサイズの名刺の大きさに印刷してもらって。
あ
女性の名刺が
男性の名刺よりも小さいことも教えてもらった。
はじめて知った。
花名刺はもっと小さい。
二〇一六年六月十日 「文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。」
文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。とてもうれしい。→http://bungoku.jp/award/2015.html
文学極道の詩投稿欄にはじめて投稿した作品から、もう何年たつのだろう。この文学極道の投稿欄の巨大なカンバスがあったからこそ、ぼくの長大な作品も発表の機会を持てた。
文学極道にはじめて投稿した作品は、『The Wasteless Land.V』の冒頭100ページの詩になった。ここ1年くらい投稿している「詩の日めくり」のアイデアは、元國文學の編集長の牧野十寸穂さんによるものだが、継続してつくって発表できたのは、やはり、文学極道の詩投稿欄の巨大なカンバスがあったからだと思われる。おかげで、詩集にもまとめて出すことができた。詩集にまとめて出すことができたのは、大谷良太くんのおかげでもある。彼が発行者になっている書肆ブンから、『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが明日、amazon で発売される。『詩の日めくり』はライフワークとして継続して詩集にまとめて出しつづけていくつもりだ。ただし、一部分、文学極道で発表したものとは違う個所がある。今回出したもので言えば、第一巻の一部がネット発表のものとは異なっている。
二〇一六年六月十一日 「記憶力がかなり落ちてきた。」
きょうはほとんど一日中ねてた。記憶力がかなり落ちてきた。きのう、なにか忘れてることがあったのだけれど、そのなにかをさえ、きょうは忘れてしまっていた。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻もおもしろいのだが、読んでて、途中読んだ記憶がなくなっていて、これから戻って読むことに。
二〇一六年六月十二日 「カレーライス」
きょうの夜中に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日』を読み返していたら、このあいだ、ぼくが批判した『カレーライス』を書いた重松 清みたいだなって思った。まあ、単純な文章。というか、むずかしそうに書く能力が、ぼくには、そもそもないのかもね。あ、でも、重松 清の文章を批判した要点は、文章の簡素さにではなくて、感情のやりとりの形式化というか、こころの問題を、ひじょうに単純な関係性で語っていたことにあったのであった。こう書けば、こう感じるだろうと推測させる幅がめっちゃ狭くて浅いということ。見かけは、重松 清さん、めっちゃタイプなんだけど、笑。
きょう日知庵で、FBフレンドの方とお会いしたら、開口一番に、「あっちゃん、なんか詩の賞もらったって、おめでとう。で、いくらもらったの?」と訊かれて、ぼくじゃなくって、えいちゃんが、「ネットの詩の賞やから、お金なんかになってへんで。」って、なんで、ぼくより先に答えるのよ、と思った。
そうなのだった。お金になる賞をいただいたことは、一度もなかったのであった。けっこういい詩集を出してるというか、傑作の詩集をじゃんじゃん出しているのだが、どこに送っても、賞の候補にすらならなくて、30年近く、無名のままなのであった。
しかし、無名であるということは、芸術家にとって、ひじょうに大切なことだと思っている。芸術家で無名であるということは、世間では、ふつう、軽蔑の目で迎えられることが多くて、そのことが、芸術家のこころにおいて、戦闘的な意欲をもたらせることになるのである。
まあ、ぼくの場合は、だけどね。
さっき、セブンイレブンでペヤングの超大盛を買ってきて食べたら、おなかいっぱいになりすぎて、吐き気がしてきたので、大雨のなか、となりの自販機でアイスココアを買ってきて部屋で飲んでたら、またおなかいっぱいになって、ぼくはどうしたんだろうと思って、おなかいっぱいだよ。
二〇一六年六月十三日 「箴言」
なかったことをあったことにするのは簡単だけれど、あったことをなかったことにするのは簡単じゃない。
二〇一六年六月十四日 「血糖値」
3月31日の健康診断の結果を、きょう見た。血糖値が正常値に近くなっていた。セブンイレブンのサラダのおかげだと思う。きのう、ペヤング超大盛を食べたことが悔やまれる。ぼくは運動をまったくしないからね、食べ物の改善だけで血糖値が80も下がったのであった。もう血糖値が230もないからね。
ということで、きょうの夜食は、セブンイレブンのサラダ2袋のみなのであった。お昼にいっぱい食べたしね。夜は抜くつもりで。でも抜くのはつらいから、サラダだけにしたのであった。
帰りの電車のなか、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読んでいた。途中で乗ってきた二十歳くらいのノブユキに似た少しぽっちゃりした青年が涙をためた目で、隣に坐ったのだった。青年はときどき洟をすすっていたが、明らかに泣いた目だった。恋人と悲惨な別れ方でもしたのだろうか。
ぼくは、ときどき彼の表情を観察した。貴重な瞬間だもの。涙が出るくらいの恋愛なんて、一生のあいだに、そう、たびたびあるものではない。少なくともぼくの場合では、二度だけ。抱きしめてなぐさめてあげたかった。でも、まあ、電車のなかだしね。観察だけしていた。
マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻さいしょの方で、ようやく被害者がゲイだったことがわかる。ここからまた、どうなるのかわからないけれど。まあ、書き込みのすさまじい小説である。きょう、仕事場で、机のうえにあった日本の作家の本をひらいて、ぞっとした。会話だらけで、スカスカ。
きょう、学校からの帰りの通勤電車のなかで見た、泣いてた男の子、いまくらいの時間にも、まだ悲しいんやろうか。他人のことながら、切ない。洟をすすり上げながら窓の外をずっと見てた。涙がこぼれるくらいに、目に涙をためて。かわいらしい、美しい景色だった。人生で最高の瞬間だっただろうと思う。
マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻のつづきを読みながら寝よう。読みやすくはないけど、よい作品だと思う。まわりで、読んだってひと、ひとりもいないけれど。というか、ぼくのまわりのひとって、5人もいないのだった。すくな〜。大谷良太くんと竹上 泉さんとは共通してるもの多いかな。大谷くんとは詩で。竹上さんとは小説で。
きょう、amazon の自分のページをチェックしていたら、『The Wasteless Land.』と『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが1冊ずつ売れてた。買ってくださった方がいらっしゃるんだ。励みになる。
二〇一六年六月十五日 「ブラインドサイト」
五条堀川のブックオフで、ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を買った。ともに108円。108円になったら買うつもりの本だった。吸血鬼や平和主義者の軍人や四重人格の言語学者や感覚器官を機械化した生物学者や脳みそを半分失くした男たちが異星人とファーストコンタクトする話だ。
だけど、まだ、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』の下巻を読んでいる。ワッツの小説も、つぎに読むかどうかは、わからない。
いま日知庵から帰った。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読み終わった。重厚な作品。つくり込みがすごかった。こんなん書くの、めっちゃしんどいと思う。ぼくも小説を書いてたけど、詩みたいにつぎつぎと情景が浮かぶわけでもなく、1作を書くのに数年つかってたりしたものね。
これから書くことになる『13の過去(仮題)』が●詩の予定だから、これが小説っぽいと言えば、小説っぽいかも。でもまあ、小説とも、また詩とも言われず、ほとんどスルーで、それでも、一生のあいだ、書きつづけていくのだなあと思う。それでいいか。それでいいや。
そだ。日知庵で、男の子が泣いてる姿がめずらしいと言ったら、女性客がみな、「女はふつうにたくさん泣くのよ。」と言うので愕然とした。そうか。男と女の違いは、ストレートか、ゲイか以前の問題なのか、と、ちらっと思った。ぼくは2回しか泣いたことがなかったから、自分の体験と照らし合わせてた。
二〇一六年六月十六日 「ようやく、コリン・ウィルソンの「時間の発見」をルーズリーフに書き写し終わる。」
右脳と左脳の違い。
ちいさい頃からダブルヴィジョンに驚かされていた自分がいて
それが、そんなに不思議なことではないと知って
ちょっと安心。
つまり、ふたりの自分がいるということね。
いつも、自分を監視している自分がいると感じていたのだけれど
ほんとにいたんやね。
左脳という存在で。
きのう
日記に書かなかったことで
ひとりのマイミクの方には直接、言ったのだけれど
西大路五条の交差点で
東寺のブックオフからの帰りみち
トラックに轢かれそうになったんやけれど
横断歩道にいた歩行者の顔がひきつっていたり
トラックの運転席の男の顔がじっくりと
ゆっくりと眺めていられたのだけれど
時間の拡大というか
引き延ばされた時間というのか
それとも意識が拡大したのか
おそらく
物理時間は短かったんやろうけれど
意識の上での時間が引き延ばされていて
何年か前にも
背中を車がかすって
服が車に触れたのだけれど
車に轢かれるときの感じって
おそらく、ものすごく時間が引き延ばされるんやろうね。
だから、一瞬が永遠になるというのは
こういった死そのものの訪れがくるときなんやろうね。
じつは
トイレがしたくて
(うんち、ね、笑)
信号が変わった瞬間に渡ったのだけれど
トラックがとまらずに突進してきたのね。
きのう、轢かれてたら
いま時分は、ぼくのお葬式やね。
何度か死にかけたことがあるけど
何度も、か
なかなか、しぶとい、笑。
二〇一六年六月十七日 「こぼれる階段」
唾液の氷柱。
二〇一六年六月十八日 「彼は有名な死体だった。」
真空内臓。
死体モデル。
液化トンネル。
仕事はいくらでもあった。
彼の姿が見かけられない日はなかった。
彼はひとのよく通る道端に寝そべり
ひとのよくいる公園の河川敷のベンチに腰かけていた。
しょっちゅう、ふつうの居酒屋に出入りもしていた。
いつごろから有名なのかも不明なのだけれど
いつの間にか人々も忘れるのだけれど
ときどき、その時代時代のマスコミがとりあげるから
彼は有名な死体だった。
彼とセックスをしたいという女性や男性もたくさんいたし
じっさいに、多くの女性や男性が彼とセックスした。
彼とセックスした女性や男性はみんな
死体と寝てるみたいだと当たり前の感想を述べた。
したいとしたい。
死体としたい。
しないとしたい。
液化したトンネルの多くが彼の喉に通じていて
彼の喉は深くて暗い。
彼の喉をさまざまなものが流れていった。
腐乱した牛の死骸が目をくりくりと動かしながら流れていった。
巻紙がほぐれて口元のフィルターだけがくるくると旋回しながら流れていった。
パパやママも金魚のように背びれや尾びれを振りながら流れていった。
真空内臓の起こす幾つもの事件のうちに
いたいけな少女や少年が手を突っこんで
金属の歯に食いちぎられるというのがあった。
寝ているだけの死体モデルの仕事がいちばん楽だった。
寝ているだけでよかったのだから。
真空内臓をときどき裏返して
彼は瞑想にふけった。
瞑想中にさまざまなものが彼にくっついていった。
よくある質問に
よくある答え。
中途半端な賛美に
中途半端な悪評。
そんなものはいらないと真空内臓はのたまう。
彼は有名な死体だった。
彼が死体でないときはなかった。
彼は蚊に刺されるということがなかった。
なんなら、蚊を刺してやろうかと
ひとりほくそ笑みながら
宙を行き来する蚊を眺めることがあった。
しかし、彼は死んでいた。
ただ、死んでいた。
いつまでも死んでいたし
彼はいつでも死んでいたのだが
死んでいるのがうれしいわけではなかった。
しかたなしに死んでいたのだが
けっして、彼のせいではなかったのだ。
二〇一六年六月十九日 「わたしたちは一匹の犬です」
わたしたちは一匹の犬です
彼らは一匹の犬です
あなたたちは一匹の犬です
Wir sind ein Hunt.
Sie sind ein Hunt.
Ihr seid ein Hunt.
ドイツ語が貧しいと
日本語が笑けるわ
基本をはずすと
えらい目に遭うわ
ううううんと苦しむわ
ということは塩分の摂りすぎ?
けさ
住んでるところの
すぐ角で
ごみ袋を漁ってた鴉が
「あっちゃん天才!」って啼いて
けらけら笑って飛んでいったので
びっくりしました
だれがあの鴉を飼っているのかしら
まあ
「1000円貸してくれ」
って言われないだけましやけどね
まったくバイオレンスだわ
太陽の中心の情報を引き出そうとして
その引き出し方を忘れてしもたって?
この役立たず!
二〇一六年六月二十日 「ブラインドサイト」
ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を読んだ。さいきん読んだ本のなかで、もっともつまらなかった。
二〇一六年六月二十一日 「優れた作品の影響」
少し早めに着くと思って、塾には、岩波文庫の『ハインリヒ・ベル短篇集』を持って行ってた。15分くらいあったので、短篇、2つ読めた。「橋の畔で」と「別れ」である。前者のアイデアはよいなと思った。後者の抒情もよい。寝るまえに、つづきを読んで寝よう。たぶん、この短篇集を買ったのは、ハインリヒ・ベルのすばらしい短篇が『Sudden Fiction 2』に入っていたからだという記憶があるのだが、どうだろう。目のまえの本棚にあるので調べてみよう。あった。「笑い屋」という作品だった。きょう読んだ「橋の畔で」もわずか4ページ、「別れ」も6ページきりの作品だった。
ハインリヒ・ベルの「知らせ」という短篇を読んで思いついたコントである。このように、すぐれた著者は、読み書きする人間に、よいヒントを与えるのである。ちなみに、「知らせ」は、戦友の死を遺族に知らせに行く男の話である。
マンションの5階では、独身者たちが大いに騒いでいた。自分の酒の量を知らない者がいて、気分が悪くなってソファにうずくまる者もいれば、はしゃぎすぎて、周りの人間が引いてしまう者もいた。わたしはマンションを見上げた。バルコニーで、男が何かを拾おうとして身をかがめた。女が彼に抱きつこうとして虚空を抱き締めて落ちてきた。わたしの到着とちょうど同時に、わたしの足元に。わたしは、いつも必要な時間にぴったりと到着する律儀な死神なのである。肉体から離れていく彼女の手をとって立たせた。裁きの場に赴かせるために。
二〇一六年六月二十二日 「内心の声」
授業の空き時間に、ハインリヒ・ベルの短篇「X町での一夜」「並木道での再会」「闇の中で」の3作品を読んだのだが、どれもよかった。どの作品も、知識ではなく、経験がある程度、読むのに必要かなと思える作品だった。大人にしかわからないものもあるだろうと感じられた。これこそ、岩波文庫の価値。
きょうは、ハインリヒ・ベルの短篇集のつづきを読みながら寝よう。いま読んでいるのは、「ローエングリーンの死」。もっと早く読むべき作家だったと思うが、ふと、ひとや本とは出合うべきときに出合っているのだ、という声をこころのなかで発してた。
二〇一六年六月二十三日 「カレーライス」
きょう、大谷良太くんちに行った。カレーライスをごちそうになった。おいしかったよ。ありがとう。これからお風呂に入って、それから塾へ。塾が終わったら、日知庵に行く予定。
二〇一六年六月二十四日 「齢か。」
いま日知庵から帰った。ここ数週間、体調が悪い。いまだに風邪が治らない。齢か。
二〇一六年六月二十五日 「ああ、京都の夜はおもしろいな。」
数学のお仕事より詩を書く方がずっと簡単なので、きょうの夜はつぎの文学極道に投稿する「詩の日めくり」をつくろう。日知庵からきみやに行く途中、むかし付き合った子と出合ったけれど、その子はいま付き合ってる子といっしょだったので、目くばせだけして通り違った。ああ、京都の夜はおもしろいな。
二〇一六年六月二十六日 「ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。」
いちごと人間のキメラを食べる夢を見ました。蟻人間を未来では買っていて、気に入らなければ、簡単に殺していました。ロシアが舞台の夢でした。いちごを頭からむしゃむしゃ食べる姿がかわいらしい。齢老いたほうの蟻人間が、「ぼく、冬を越せるかな。」というので、「越せないよ。」とあたしが言うと情けない顔をしたので、笑って、ハサミで首をちょんぎってやった。ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。
数学の仕事、きょうやる分、一日中かかると思ってたら、数時間で終わった。
7月に文学極道に投稿する新しい「詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日」をつくっていた。
二〇一六年六月二十七日 「受粉。」
猿であるベンチである舌である指である庭である顔である部屋である地図である幸福である音楽である間違いである虚無である数式である偶然である歌である海岸である意識である靴である事実である窓である疑問である花粉。
猿ではないベンチではない舌ではない指ではない庭ではない顔ではない部屋ではない地図ではない幸福ではない音楽ではない間違いではない虚無ではない数式ではない偶然ではない歌ではない海岸ではない意識ではない靴ではない事実ではない窓ではない疑問ではない花粉。
猿になるベンチになる舌になる指になる庭になる顔になる部屋になる地図になる幸福になる音楽になる間違いになる虚無になる数式になる偶然になる歌になる海岸になる意識になる靴になる事実になる窓になる疑問になる花粉。
猿にならないベンチにならない舌にならない指にならない庭にならない顔にならない部屋にならない地図にならない幸福にならない音楽にならない間違いにならない虚無にならない数式にならない偶然にならない歌にならない海岸にならない意識にならない靴にならない事実にならない窓にならない疑問にならない花粉。
二〇一六年六月二十八日 「Gay Short Film The Growth of Love」
きょう、日知庵での武田先生語録:恋愛結婚というルールができると、恋愛結婚できない人間が出てくる。
2016年6月18日メモ 日知庵での別々のテーブルで発せられた言葉が、ぼくのなかでつながった。「食べてみよし。」「どういうことやねん。」
チューブで10時くらいから連続して再生しているゲイ・ショート・フィルムがあって、10回くらい見た。9分ちょっとの映画。猥褻とは無縁。切なさがよいのだ。ぼくも、「夏の思い出。」とか書いたなあ。チョーおすすめです。
Gay Short Film The Growth of Love
二〇一六年六月二十九日 「Gay Short Film The Growth of Love」
Gay Short Film の The Growth of Love を、きのうはじめて見て、それから繰り返し、きょうも何度も見てるのだけれど、いま、ふと、ジョー・コッカーのユー・アー・ソー・ビューティフルを聴いているときの感覚に似ているかなと思った。繰り返し見てる理由かな。
『ハインリヒ・ベル短篇集』を読み終わった。よかった。今夜から、岩波文庫の『モーム短篇選』上巻を読む。
きょうは塾だけ。それまでに数学の問題をつくっておこう。きのう、寝るまえに、モームの短篇、一つだけ読んだ。まあ、わかるけれど。という感じ。モームの意地の悪さは出ていない。ぼくはモームの意地の悪さが好きなのだ。時間的に、きょう、読めるかどうかわからないけれど、期待している。
二〇一六年六月三十日 「Gay Short Film The Growth of Loveの続編」
マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻の178ページに、「煙草の袋に」という言葉がでてくるのだが、この「袋」を、さいしょ、「姿」だと思って、「煙草の姿」って、なに? 煙のこと? と思って、読み返したら、「姿」ではなく「袋」だったので、ふと、「袋」と「姿」が似てるなと思った。
塾の往復一時間、とぽとぽ歩きながら、Gay Short Film の The Growth of Love の魅力について考えていた。ささいなこと、ちいさなことでも、そこにこころがこもっていれば、大きな力になる、ということかな。それを見せてくれたのだと思う。ふたりが付き合うきっかけも、ささいなことだったし、ふたりが別れることになったのも、ちいさなことがきっかけだったのだと思う。日常、起こる、すべてのことに気を配ることはできないものだし、また気を配るべきでもないことだと思うが、しかし、日常のささいなことの大きさに、ときには驚きはするものの、そのじっさいの大きさについては、あまり深く考えてこなかった自分がいる。ということなど、つらつらと考えていたのだが、もう55歳。深く考えてこなかった自分がいるということが、とてつもなく恥ずかしい。ああ、でも、深く考えるって、ぼくにはできないことかもしれないと、ふと思った。Gay Short Film の The Growth of Love に登場するふたりのぎこちない演技がとても魅力的だった。ぎこちなさ。ぎこちないこと。ありゃ、この言葉を使うと、ぼくの詩に通じるか。52万回近くも視聴されている短編映画と比較なんかしちゃだめなんだろうけれど。続編があったらしいのだけれど、いまは削除されている。残念。見ることができなかった。9分ちょっとの短編映画だけれど、ぼくの感覚に、感性に確実に残って影響するなって思った。というか、もともと、ぼくのなかにあったセンチメンタルな部分を刺激してくれる、たいへんよい映画だったってことかな。あのぎこちなさも演技だったとしたら、すごいけど。いや、演技だったのだろうね。きっと。でなきゃ、52万回も、ひとは見ないだろうから。
Gay Short Film の The Growth of Love の続編をネットで検索して、探し出して見たのだけれど、さいしょの作品だけ見てればよかった、というような内容だった。役者がひとり替わっていたのだが、その点がいちばんひどいところだと思う。その男の子のほうがタイプやったからね、笑。
二〇一六年六月三十一日 「すべての実数を足し合わせると、……」
すべての実数を足し合わせると、ゼロになるのであろうか。
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作品 - 20160704_455_8928p
- [優] 詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2016-07)
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詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日
田中宏輔