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作品 - 20160509_645_8811p

  • [佳]  羞明 - 澤あづさ  (2016-05)

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羞明

  澤あづさ

 老いた春の角膜に、まばらな白髪が金髪より映えた。かの女の庭で、heart、ひらきたい声を殺して。まねたかの女のくちびる、bleeding heart。
 華鬘草という和名を知らずに、その口紅の跡から読んだ。夫と暮らした庭先にも、嫁いだころから五月のたびこぼれていた春の名まえ。若かった富有柿の木陰で、乏しい実りが色づくころ消え、冬が終わるとまた群れた茂み。家人のだれも名を知らず、呼ばなかったが必ず群れた。
 だからかれは柿をもぐため木に登るのに苦労しませんでした。と英語で伝えようとして諦めた。五月の午後、わたしの庭では、富有の木陰に常緑の沈丁花がなお暗かった。そこにその花をひとりで植え替えた日、わたしはまだ、ひらきたい声の名まえを知らなかった。薄暮。
 いつか去る小花のつるへ、黴をあぶり出すように病む。白内障へこぼれるには、きっと濃すぎたかの女の紅。bleeding heart、ひらきたい声を。殺す。

 孫の英会話教師の通夜なんて、行かないのが常識だったんだろうか。クローゼットに並ぶ、わたしの13号と娘の7号のアンサンブル。娘のはもう十年もまえ、夫の通夜の前日に、近所のショッピングセンターで買ったものだ。田舎の店には目当ての5号の取り扱いがなく、喪服はあらかじめ用意するものじゃないんだと、わたしの母に言い聞かされ泣いていた。わたしの娘。あの子あんなにやせて大丈夫なのとあの日、多すぎた弔問客から問われるたび、夫の娘だからとわたしは答えていた。ような気がする。
 あの子もいい加減、新しい喪服を買ったんだろうか。慶事か弔事のたびここへ着替えに来て、結婚祝いの真珠も婚家へ持ち帰っていない。あの子の細い首でなら輝くと思いきって買った、赤らむ花珠の隣から、弔事用の古い真珠を取り上げる。そろそろ黄ばみはじめた小ぶりが、弔事にもわたしの指にも似合いだ。
 真珠は涙だから、弔事に欠かせないと思っていた。同じように、結婚指輪は一日じゅう一生、はずしてはならないと思い込んでいた。わたしの古い左手にはまだ、傷だらけの黄ばみが食い込んでいる、そう。そう言えば。かの女はきらめくパヴェを右手に着け替えていた。

 指輪の行方を探ろうにも、棺の位置が高すぎた。一面の青空をえがく壁に、金髪まみれの遺影ばかり映える。あの子の赤らむ花珠より、よほど派手にぎらつきながら、祭壇を覆うピンクのサテンと生花。生花。生花。かの女と喪主の続柄すら知らなかったわたしには、あまりに所在ない社葬のホールの、うす紅をかの女がどう思うか。もう尋ねようがない。わたしが代弁してよいはずもない。
 無宗教葬なんて初めてで、勝手もわからず御霊前を選んだけれど、通夜の儀式は献花だった。玉串と同じ作法で受け取った、白いカーネイションの震えが、黄ばんだ真珠を波打たせるほど冷たい。祭り上げられた別れを謳うセリーヌ・ディオン、my heart will go on、そんな反吐の出そうな英語を。わたしは一度も読んだことがない。紅すぎたかの女のくちびる。

 左手に食い込むくすみに、通夜の会場を出てから気づいた。小花のつるとともに伸びた五月の夜、駐車場に蠢くサーチライトの影に、ひどく黄ばんで月がこびりついている。この左手が離さない、指の支えの18金が、融けたつがいへ共鳴するように。玉響。
 運転席に背をもたれて、いま、目を背けた首筋できっと、黄ばんだ真珠の巻く渦を掘りぬくように照っている。heart、ひらきたい e と a のあいだに、声が。bleeding heart。キーを回すまえに、攣りそうな両手を、指の腹を合わせて伸ばす。こうするとね、薬指だけ離せないんだよ、ほら。どうしてだろうね、まぶたに圧し掛かる、くたばりかけた眠気。やせ細る月を囲ってにじむ羞明。

文学極道

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