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作品 - 20151231_009_8533p

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OVER THE SEA, UNDER THE MOON

  熊谷

 会社帰りに、その時なぜか手に持っていた給与明細が風に飛ばされた。そのままテトラポットを通り、ヒュッと海の上へ落ちる。拾わなきゃと思って慌てて海のなかへ入って行くと、海面にはたくさんの給与明細が浮いていた。それらは全く赤の他人のものばかりで、てんで安いものから、べらぼうに高いものまである。その中から自分のものを必死に探したけれど一向に見つからず、探しているうちに水位がどんどん腰から上へあがっていった。お金が欲しかったわけではない。ただひとつ自分の給与明細が欲しかっただけなのだ。わたしがちゃんと働いているという証拠が。そうして巨大な海はわたしの上から下まで残さずすべてを飲み込もうとした。必死でもがいて顔を上げようとしたとき、満月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。



 妊娠が分かってから、事務の仕事をやめた。給与明細はおろか一銭も稼いでもいないのに、何だか変な夢を見てしまった。ベッドから起き上がり顔を洗うと、温かいスープが飲みたくなって、台所に立つ。にんじん、ピーマン、たまねぎを隅々まで水洗いをし、適当な大きさに切る。沸騰したお湯にそれらを入れ、ブイヨンを三切れ入れた。料理をしていると、とても気分が落ち着く。あらかじめ用意された材料で、決められた手順でこなせば、写真通りに出来上がるからだ。そして、ちゃんと生活をしているという気持ちになって、ひとまず人間らしくいられる。鍋にふたを置いた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。



 帰ってきたあなたは、釣り道具をひとしきり拭きながら、「きょうはけっこう釣れたんだ」と言う。一度、あなたに連れられて東京湾で夜釣りに行ったことがあるが、まったく好きになれなかった。夜の海は怖い。とてつもなく黒く巨大な空間がそこに広がっていて、追い打ちをかけるように、波の音が迫り来るように唸りをあげていた。そこにいるかどうかもわからない魚をひたすらに探し、そして釣りあげることの、何が面白いのかわたしにはよく分からなかった。そこには、あらかじめ用意された材料も手順も、約束された結果もない。大きな海のなかで目に見えない魚を、あなたが無邪気に追いかけていくのが何だかうらやましかった。



 臨月を迎えたお腹はもうぽっこりどころではなく、満月のように育っていた。ルアーがリビングの端に行儀よく並んでいて、全員こちらを見ている。私もそれらを見ながらお腹を撫でていたら、お腹の子どもが下腹を思い切り良く蹴り上げた。この子が生まれてくる確率と、あなたが魚を釣る確率のどちらが高いのか、ぼんやり考える。この子は、ちゃんと生まれてくるのだろうか。家の中にいながらにして、常に大きな海から必死で自分を守るような気持ちでいた。「釣れる日って何か分かるんだよね」唐突にあなたは言った。「君のお腹がいつになく丸く輝いて見えると、釣れるんだよ」



 会社員でもなく母親でもないこの自分が、ちゃんと子どもを産んで育てることができるのか、不安になっていたのかもしれない。けれど、あなたがいることで、広くて大きくて、怖かった海のそのすべてが、わたしの右目や左目から溢れ出す。すべての海は、わたしのなかにもうすでに存在していて、いつだってわたしは海そのものだった。そこに、釣れるも、釣れないもない。ルアーなどなくても、潮の流れがとてつもなく変わってしまっても、魚は海であるわたしの手のうちに集まってくる。そうして、必ず子どもは産まれてくるし、わたしは必ず産むことになっているのだ。あなたがティッシュを取りに席を立つとき、子どもはもう一度、下腹を思い切りよく蹴り上げた。

文学極道

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