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作品 - 20151014_573_8369p

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眠れない女の子のはなし

  熊谷

 
 どうしてか眠れない。きっと夢のなかで数えた羊たちは、この部屋中にあふれかえっているのだろうし、ひたすらに身を寄せあって朝が来ることに怯えるのだろう。鏡に写る自分を見ると、まるで世界中の夜を一気に引き受けてしまったかのような顔をしていた。タイミングも悪く、この部屋には電話もない。携帯電話は先日、水没して壊れていた。眠れない、とつぶやいた声は東京の真ん中で宙に浮いて、そのまま大勢の話し声に消されていった。イルミネーションばかり輝く東京の眩しさは、目の下のくまをよりいっそう目立たせた。



 たとえ遠くが見えなくても、どうせ遠くには行けないのだから、別に遠くなど見えなくても良かったのだと思う。遠くへ行きたい、と歌っていたロックバンドのボーカルは、脱法ハーブを吸ってバンドを解散することになってしまったし、結局は彼も遠くになんか行けなかったのだろう。小さな頃は海を眺めながら、遠くには何があるんだろうと、よくあれこれ想像をしてたけれど、今思えば、その水平線の先の国々で、彼が手を出したハーブの原材料が栽培されていたのだろう。強い近視の目を細めて、左のこめかみを押さえながら、長いドキュメンタリー映画のなかの人物のように、台本通りに朝の仕度を整えた。そして天気予報を確認せず、傘を持って玄関を出た。



 ここ最近は何ひとつ夢を見ることができなかった。自分の部屋だけ時空が歪んでいて、時の流れが遅くなっているように思えた。羊なんて数えてもどうせ眠れないのだから、彼らの毛をすべて刈り取って、今この瞬間自分と同じように眠れない人のために枕を作ってやろうかと思えば、結局何の役にも立たない彼らを一匹残らず首を締めてやろうかとも思った。エスカレーターを全力で反対方向に走って、ようやく今いる場所に留まり続けているような感じだった。そんな何もできない夜に突然電話のベルが鳴った。慌てて受話器を取ると、突然男の声で「殺すぞ!」という声が聞こえた。その瞬間、涙が出た。夢を見ていることが分かったからだ。



 雨が降る前は決まって片頭痛が起きる。傘を閉じたら、左のこめかみがズキズキと痛んだ。壊れていた携帯電話をショップに受け取り、電源を入れてニューストピックスを見ると、解散に追い込まれたバンドのボーカルがソロ活動を始めたニュースが出ていた。それと同時に、母親からのメールも届いた。電車や飛行機に乗ってしまえばいつでも遠くには行けることは分かっていた。そして今いる東京が、あの日思っていたどこか遠くの地だということも知っていた。地方から出て働き始めて数年、コールセンターの主任を任されてプレッシャーを感じていたのかもしれない。怒鳴り声のクレーマーを聞くことは日常茶飯事だったし、それこそ「殺すぞ」と言われることもよくあることだった。家に着くと、隣の住人がゴミ捨てをしていて、ふと開いたドアからお味噌汁の匂いがふわ、と漂ってきた。左のこめかみの痛みが引いてきたので、明日はきっと晴れるのだろう。



 今夜も、もしかしたら眠れないかもしれない。目元にあるくまがもっと濃くなって、電話の男ではなく、自分自身が自分を殺してしまう日がくるのかもしれない。それでも、眠れない、と大きい声で助けを呼ぶこともできるし、次の日会社を休むことも、さらに退職することだってできる。いつだって地元に帰ることも、その海辺の先にある、脱法ハーブを作っているであろう異国の地にだって行けることができる。コンタクトをはずすと、一寸先は何も見えないほどの強い近視だったけれど、それでも目を閉じれば誰もが暗闇を見続けなければいけないことも知っていた。遠くへ行きたい、と歌いながらベッドに入り目を閉じると、いつもの羊が現れた。そういえば彼らに名前がなかったから、今夜はちょっとぐらい眠れなくても、強くてかっこいいあだ名をつけてあげようと思う。

文学極道

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