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作品 - 20150901_472_8278p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ぼくがさかなだったころ

  イヤレス芳一

 私はその男の詩を、いくつか、読んだことがある。
 数年前から私は『現代詩日本ポエムレスリング』という詩のSNSに、趣味として書いた自作詩を投稿している。同じように詩を書いている会員同士が、互いの作品の感想を述べ合ったり詩にまつわる雑談を交わしたりと、『詩』という世間一般ではそれほど愛好者の多くない趣味をネット上で気軽に共有できる社交場として、それぞれ楽しんでいるのである。昨年の春先、シュリケンというHNのその男は現れた。男は有名な詩句のパロディ作品を投稿しているようだったが、お世辞にも上手とは言い難い。改行をしただけの日記のようだ。自分の気持ちや日常の些細な出来事をそのままストレートに言葉にしただけでなんの趣向もレトリックもないのだが、逆に本人はそのシンプルさがご自慢らしい。作品やコメントの端々に、どこか詩や詩人を馬鹿にするような舐めているようなニュアンスも見受けられる。たとえば、こんな作品がある。


 『詩をやめる』シュリケン

 詩をやめろ
 日記を書こう

 日記なら
 魂などいらない

 こんなものは詩ではない
 と言われたら

 そうですよこれはスケッチブックです
 と言ってやろう

 わたくしという現象は青色発光ダイオードの
 せわしい明滅(←いかにも現代詩っぽい単語)

 やる気スイッチが入った時だけ
 光ります


 賢治を侮辱している、そう思った。そうして自分の未熟で粗末な作品は棚に上げ、他人の作品は評価せずに「馴れ合いだ。」「くだらない。」などと罵るのである。詩の投稿サイトにはよくいる、実力も才能も伴わないのにプライドばかり無駄に高く人と衝突ばかり繰り返す、人間性に難のあるメンヘラ、コミュ障、酔っ払いの類いの一人なのだろう。こういう手合いは、ひたすら無視をするに限る。なに、実生活が孤独で惨めなので、せめてネットの中だけでもチヤホヤされたいのに違いないのだ。遊び半分でヌンチャクを振り回し自滅する中学生のように、ひとしきり暴れるだけ暴れ痛手を負うとアカウントを削除して行方をくらまし、時が過ぎればまた別のHNを使用してなに食わぬ顔で恥ずかし気もなく舞い戻ってくる。どこの詩サイトにも、そういうはた迷惑な寄生虫のような利用者が、一人や二人、必ずと言っていいほど存在するものだ。そう思い私も、わざわざ関わり合いになるつもりはなかったのだが、男の傍若無人な振る舞いはさすがに鼻につくところがあり、私の大切な居場所を土足で踏みにじられては堪らないというような義憤も手伝い、なによりその高慢な態度とは裏腹にあまりにも作品が空虚で次元が低いため、ついつい我慢できずに「相当酷い。批評以前の問題。」とコメントを入れてしまった。私は、日頃の男の言動から察するに感情的な反論や口汚い罵倒の言葉が返ってくるものとばかり思い込み、これでは私も奴と同じ穴のムジナではないか、やはり自ら関わるべきではなかったと己の軽率さを悔やむとともに、今後起こるであろうコメント欄での不毛なやり取りを想像し内心鬱々としていたのだが、事態は意外にも、さらにおかしな方向へと動いたのだった。SNS内の私信機能を使い、男から、長い長いメールが送られてきたのだ。



 *****

 こんばんは。先日は僕の詩にレスをいただき、ありがとうございました。早いもので僕がネットで詩を書くようになってから、もう五年ほど過ぎました。こうしてお会いしたこともない方に自分の詩を読まれ、感想を頂くということは、なんとも気恥ずかしく、また、嬉しいものですね。僕はPCを持っていないので、それまでネットの世界というものをまったく知らないまま生きてきたのですが、五年前、暇潰しに携帯でネットを見るようになり、そこで初めて詩のサイトがあるということを知ったのでした。
「こんなところに詩人がいる! 」
 大げさな言い方ですが、その発見は僕にとっては、南太平洋の真ん中で人知れずひっそりと栄える小さな秘島、楽園を見つけたような、あるいは地中海の断崖絶壁、入り江の奥の奥にそこだけ陽の当たる白い砂浜、美しい渚にたどり着いたような、思ってもみなかった衝撃、興奮でした。長らく眠っていた詩への思い、詩作への情熱が、ふつふつと甦ってくるのを感じました。恥ずかしい話ですが、僕にもこれでも若い頃、ぼんやりと詩人を夢見ていた時期があったのです。

 小学生の頃から僕は、学校の授業や全校朝礼など、時間的空間的に自由を制限されるような状況や集団行動に対して、動悸、目眩など、一種のパニック障害、不安神経症のような症状を持っていました。息苦しくなるといつも、死にかけの金魚のように空気を求めてパクパクと大きな口を開けて呼吸していました。中学生の頃には、授業中の緊張感、不安感を身体的な痛みで紛らわすため、右手に収まる小さなカッターナイフで左手の指の腹を切るのが癖になっていました。当然、血が滲んでくるのですが、そのままにするわけにもいかないので、手のひらにスティック糊を塗り、そこに血を混ぜ合わせ、赤黒くなった糊を垢のように練り上げるのです。そうすることで少しでも不安から意識をそらし、時間を潰そうとしていました。自分のそんな病状を誰にも言えず、自分でも受け入れられず、そうでもしなければやっていられなかったのです。授業中に血まみれの手のひらを捏ね回すその奇行をクラスメートに見つかり、問い詰められたこともあります。

 高校に入ってからもますますひどく、授業に集中できない状態は続き、教師の目には「やる気の感じられない怠惰な生徒」として映っていたのでしょう、日本史の授業中でした、僕は態度を注意されました。
「日本の歴史も学べないとはおまえは非国民か。窓から飛べ。」
 先生は笑いながら言って、もちろんクラス全員、それがブラックユーモアであることは理解していましたが、僕は瞬間的に頭に血が昇ってしまい、無言のまま窓枠に飛びついたところで、数名のクラスメートに引きずり下ろされました。こいつなら本当にやりかねん、普段からそう思われていたのでしょう、僕は誰とも目を合わせることができずにいました。(イヤレスさん、ここでBGMに『Raining/Cocco』を聴いてください、グッときますよ。)

 高校二年の秋、十七才でした。僕は修学旅行を欠席しました。二時間、三時間に渡る新幹線やバスでの団体移動は、僕にとっては拷問に等しいものだったのです。旅行前日まで担任には何度も職員室に呼び出され説得され理由を聞かれましたが、僕は黙秘権を行使する犯罪者のようにひたすら無言を貫きました。僕の弁護をしてくれる奇特な人などどこにもいないと思っていました。

 クラスメートが修学旅行へ行っている間、課題として司馬遼太郎『街道をいく』の読書感想文の提出を命じられていましたが、僕はそれにはまったく手をつけず図書室で一人、やなせたかし先生の『詩とメルヘン』を読んでいました。大きな見開きページの一面、きれいなイラストに飾らない詩が添えられ、僕はすっかりその世界に魅了されてしまいました。それが、僕の詩との出会いです。いつか、やなせ先生に僕の詩を読んでもらいたい。(今となってはそれももう、叶わぬ夢となってしまいましたね。)それ以来、胸の奥に溜まっていく泥を、グチャグチャにノートにぶちまけることが、僕の日課になりました。(後日談ですが、僕の提出した読書感想文を読んだ副担任に、おまえには文才がある、と誉められたのです。今思えば、そのひとことが卒業後の進路決定にも繋がっていたのかもしれません。)

 高三に上がる春休み、両親が別居することになり母は家を出ました。僕は父と家に残りましたが、それはけして父を慕っていたからなどという理由ではなく、ただ単に高校が近かったからということと、父がいない間は一人きりでいられるからという理由でした。夏休み直前、僕はふとしたことから拒食症に陥り、一日にビスケットを三枚しか食べない日々が続き、二学期が始まる頃にはその反動が来たのか、過食症になっていました。誰もいない家の中で、胃がはち切れそうになるまで無理矢理食べ物を流し込み、トイレで喉の奥まで指を入れて吐きました。けれども、いくら吐いても胸の奥の泥は吐き出すことは出来ず、吐けば吐くほどますます深く、沼のように沈みこんでいくのでした。その頃、体重は54kg(身長は178cmありました。)くらいまで落ち、体重が減れば減るほどどこかほっとして、浮き出たあばら骨を撫でながらつかの間の安心感を得てはいましたが、それでもどうしても自分のことを好きになれず、周囲の人間とも馴染めず、馴染む気すらなく、自分は人とは違う、人よりも数段劣った人間なのだ、と思っていました。これ以上親の世話にはなりたくない、顔も見たくない、早く家を出たい家を出たいと願いながら、けれども、人並みに社会に出て仕事をこなし生活していくなんてことは僕にはとても無理だ、もしそうなったら出来るだけ早く死ななければいけない。いずれ死ぬことが僕に出来る唯一の責任、僕に与えられた使命なのだと、今思えばなんとも馬鹿馬鹿しい青臭い病的な考えですが、当時の僕は真剣にそう信じ、思い詰めていました。

 二学期も中頃、秋も深まり校庭の木々が赤く染まっていくように、クラスメートの話題も受験一色になり、皆次々と将来を見据えた進路を決めそれに向かい受験勉強をしている中、僕は一人焦っていました。どうせいずれは死ななければならないのだから勉強なんてしたくない、かと言って出来損ないの僕には就職などは到底無理だ、今やりたいことと言えばしいて言うなら詩を書くことぐらいだろうか、どこかに学科試験も面接もなく受験できる、詩を書くための大学でもあればいいのに。いくらなんでもそんな虫のいい話あるわけないと思っていたら、あったのです。推薦入試は小論文だけ、大阪芸術大学文芸学部でした。(副担任の言葉を真に受けていたのかどうか、僕は論文の練習などせずとも、必ず合格する、これは運命なのだと何の根拠もなく確信していました。)

 近鉄南大阪線喜志駅を降りて学生専用のバスに乗り、細く曲がりくねった路地を抜けたところに大学はありました。桜並木の坂道を上りキャンパスに入ると、そこは高校とはまったく違う、自由な華やかさで溢れていました。無事に高校を卒業し大学生になった僕は、その伸びやかで開放的な雰囲気の中で人目をあまり気にすることもなく、他人と足並みを揃える必要もなくなり、広場恐怖のような緊張感もだいぶやわらいでいくように感じ、これが何か自分を変えるきっかけになるかもしれないと思い、新しい学生生活に期待もしていたのですが、そこでもやはり僕は馴染むことが出来ませんでした。周囲を見渡すと、スキンヘッドで全身黒ずくめの女やサザエさんのような髪型で薄汚い破れたTシャツを着た無精髭の男、個性的でなければ芸術家ではないとでも言いたげな奇抜な格好をした者も多く、地元では『丘の上の精神病院』と揶揄されるほどで、作品そのものではなく外見や言動を少しでもエキセントリックに見せようと張り合っているような馬鹿者たちもいましたし、真摯な芸術家の集団と言うよりはむしろ世間からは相手にされない奇人変人の吹き溜まりといった様相で、もちろん僕自身もそういう出来損ないの一人ではありましたが、まだ若く芸術に対して理想もあった僕にはどうしてもそれが許せず、その吹き溜まりに自ら安らぎを求めるのも嫌でしたので、作品を創る者が自ら作品になってどうする、芸術家はただ黙って芸術だけを創ればいいのだと、一人で憤っていました。芸術なんて程遠い、所詮僕らは美術館の片隅で誰にも見られることもないまま錆びていくオブジェに過ぎないのだ、いや、そのオブジェにすらなれない僕はいったい何なんだ、と思うと無性に虚しくなり、そのまま授業に出るのもやめてしまいました。昼前に大学に来て、誰もいないところで煙草を吸ったり、夕暮れ、四階の廊下から地面を見下ろし、散ってしまった桜の花びらのようにヒラヒラ舞い落ちてしまいたい、今飛び降りたら明日の朝までは見つからずにいられるだろうか、などと思ったりしました。

 そんな短い学生生活の中で、ひとつだけ記憶に残っている授業があります。文芸学部らしく、創作の授業があったのです。眼鏡をかけたまだ若い助教授から与えられたテーマにそって、原稿用紙二枚の散文を書き、次週、助教授がそれを寸評していくというゼミ形式の授業でした。第一回目のテーマは「自己紹介」でした。小さな教室で助教授を囲むようにして向かいあって座る十五人ほどの学生は皆、作家や編集者を志しているような者ばかりですから、自己紹介程度の散文などお手の物とでも言いたげに、始めの合図と共に、競い合うようにして一斉に筆を走らせ始めました。人生や人付き合いにおいてすっかり卑屈になっていた僕は、自己紹介などする気も起こらず、何を書いたらいいものか、しばらく周りの学生が何やら真剣にカリカリと音を立てて書いているのを阿呆のように眺めていました。けれども僕もこのまま何も書かないというわけにもいかず仕方なく、自己紹介とはまったく関係のない『ぼくがさかなだったころ』という空白だらけの詩を即興で書き殴り提出しました。次の週、返ってきた原稿用紙を見ると、タイトルの横に赤いインクで、『A+』と書かれていました。最高点でした。A+は二名だけ、と助教授は言い、スティーブン・キングが好きだと言うもう一人のA+である学生の原稿用紙のコピー(私は霊を見たことがある、という書き出しで始まるその学生の散文は、段落分けするのも惜しい、というくらいにぎっしりと最後まで文字で埋め尽くされていました。)を皆に配り、それを見ながら講義を進めていきました。最後まで僕の名前も、僕の詩も、話に出てくることはありませんでした。




  『開襟シャツ』


  人生というのは死ぬまでの間の
  小さな金魚鉢に過ぎんよ、君

  と助教授は笑った
  日々は新緑のように眩しくて

  言葉はいつも僕に寄り添い
  いつでも僕を置き去りにする

  初夏、汗ばんだシャツの胸元を開け
  風を迎え入れる

  身震いするほど美しい詩を一篇書いて
  死んでやろうと思ってた




 授業にも試験にも出ないまま一年が過ぎ春休みに入り、僕は父に呼ばれました。大きな黒い座卓の上に、不可とすら書かれていない白紙の成績表を広げ、父は言いました。「詩人になるっていう夢は諦めたのか」 いつ僕が会話もなかった父に「詩人になりたい」などと告白したのか、それは今となってはわかりませんが、僕は恥ずかしさと悔しさで、芸術は人から教わるものではない、自らが感じるものだ、勉強なら大学でなくても出来る、と負け惜しみを言いました。父は呆れたのか諦めた様子で、それ以上何も言いませんでした。大学で学ぶための費用を働いて得るということがどれだけ大変なことか、それをみすみすどぶに捨てるということがどれだけ愚かなことか、そんな当たり前のことも僕はわからず、ただ自分の苦しみばかりに囚われていたのでした。学生という肩書きを失い、ひっそりと社会に放り出され、今こそいよいよ死ぬべき時が来たように思いました。けれどもそうは思いながらもなかなか死ねず、ずるずるとその時を先伸ばしにして日々を送っていたのです。ちょうどその頃、片想いしていた女の子(高校を中退してフリーターをしている、どこか陰のある女の子で、細いメンソールの吸殻に、いつも紅いルージュが付いていました。一度だけ二人で、映画館デートをしました。薄暗い館内でひとつ年上の彼女の肩に甘えて頭をちょこんと乗せて、2時間寝た振りをしていました。僕はこの世の中で彼女にだけは、過食嘔吐のことを打ち明けていたのでした。帰り道、家の近くまで送って行き、別れ際、どちらからというわけでもなく不器用にキスをして、次の日から、何となくお互いに気まずくなってしまい、それきり、この恋は終わったのでした。BGMは、『東京/くるり』をどうぞ。)が結婚するということを風の噂で聞き、いよいよもう、この世に未練もなくなった、いつ死んでもかまわないと思いました。世間では『完全自殺マニュアル』という本が話題になっていて、僕も書店で立ち読みしましたが、僕に必要なのは手段でも方法でもない、死ぬ覚悟なのだ、と思い真夜中、マンションの非常階段を上り地面を見下ろし、煙草に火を付け、それから遠くの灯りをぼんやり眺めたりしました。

 結局いつまでたっても死ねないまま、僕は二十歳になり、バイトで貯めた金をもとに、念願の一人暮らしを始めることになりました。築三十年はたつであろう、ボロボロのアパートでしたが、日当たりの悪い薄暗い四畳半の部屋で一人僕は、もう二度と誰の言うことも聞かない、と決意しました。カサカサ、と背後で音がして振り向くと、ザラザラした土壁の上のほうで、赤茶色のゴキブリのつがいが交尾しているのでした。

 バイトとは言え自分で働いて得た金で自活できたことが自信になったのか、それともただ食費がなかっただけなのか、少しずつ過食も抑えられるようになってきて、あまり吐かなくなったある日、もう悩むことにすら疲れ、ふと、奇妙な感覚に襲われました。ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた影響もあったのでしょう、ラスコーリニコフが金輪際誰にも心を打ち明ける必要はないと悟るシーン、自分一人がやっと立てる断崖絶壁で生きていく覚悟を決めるシーン、それらはラスコーリニコフにとっては絶望や諦めにも似た暗く深い心情として描かれていたようでしたが、僕には逆に、新しい道のように思えたのです。そうだ、苦しいなら苦しいまま、死にたいなら死にたいまま、そのままで生きていってもかまわないのだ。死ぬしかない、とそう固く信じこんでいた自分にとって、新しいその考えは、ひとつの救いのように感じられました。



  「人非人でもいいじゃないの。
  私たちは、生きていさえすればいいのよ」
  『ヴィヨンの妻/太宰治』



 バイトの給料が月十万程度の、PCどころかエアコンもテレビも冷蔵庫もない質素な生活の中で、ちょうど『インターネット』『ネットサーフィン』などの言葉が一般に広まりつつある頃だったと思いますが、ネットの片隅で新たな詩の世界が産声を上げつつあることなど知る由もなく、僕は次第に詩から離れ音楽に傾倒するようになりました。詩は音楽に負けたのだ。詩は歌詞に負けたのだ。本当はただ、僕の才能がなかっただけなのですが、どうしてもそれを認めたくなかったのです。『elfin』という占いの月刊誌がありそこの読者投稿欄に、カリノソウイチというPNでイラストを添えたポエムを投稿し常連になっていましたが、その雑誌もしばらくして休刊となり、また僕自身の生活も、フリーターとして何度か転職を繰り返した後にようやく正社員の仕事に就くことができ、あれだけ怖れていた『社会人』というごく普通のありきたりで忙しない日常を送る中で、次第に僕は、詩を忘れていきました。詩を忘れることでようやく僕もかつての、いずれは死ななければならない出来損ないなどではなく、『普通の人』として生きていく資格を得た、今となってはそんな気もするのですが、果たしてそれが本当に良かったのか悪かったのか、たった二枚の原稿用紙ですら埋めることのできなかった空白だらけの僕の詩は、そのまま僕の生き方のようでもありました。




  『雨空』

  生まれ変わったら詩はもうやめて
  絵描きになろうと私は思う

  小さな屋根裏をアトリエにして
  来る日も雨の絵ばかりを描こうと思う

  灰青色の絵の中で
  雨に打たれている私は

  何かを叫ぼうとするのだけれど
  私は詩はもうやめたのだ

  晴れることない雨空で
  いつも私の胸は濡れている  




























  ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼いたろうが
  きょうびは雀も啼いてはおらぬ
  『秋日狂乱/中原中也』























 詩を書かなくなってからも、完全に詩を諦めてしまったわけではなく、心のどこかで、誰にも読まれなくてもいい、自己満足でもいい、この詩を書くために生まれてきた、この詩があれば生きていける、そんな詩を死ぬまでに一篇だけ書いてみたい、もしかしたら心のどこかにそんな思いがまだ残っていたのかもしれません。空白を抱えたまま十年以上の月日を過ごし五年前、初めて詩のサイトを見つけた時の僕の喜び、おわかりいただけるでしょうか。長い長い沈黙が嘘のように、堰を切ったように後から後から言葉が溢れ出してきて止まらず、最初は僕も嬉々として次から次へと詩を書いて投稿していたものですが、次第に何が何やら自分でもわからなくなり、削除したり暴言を吐いたり、多くの方にご迷惑をおかけして、穴があったら入りたい気持ち、あ、こんなところにちょうどいい穴が、と思い覗きこむと、それは自らが掘った墓穴ですから、どうすることも出来ません。

 いただいたコメントへの感謝の気持ちをお伝えしようと書き始めたのですが、結局いつもの、感傷的な自己憐憫、自分語りになってしまいました。けれどもこれが、エンジン全開クラッチ切れてる、シュリケンスタイルなのです、なんて、開き直れるほど面の皮も厚くなってしまい困ります。

 今、帰りの電車の中です。もうすぐ最寄り駅に着きます。寒くなって来ましたので、お体には気をつけて。イヤレスさん、僕たち、うまくやれそうですね。『Whatever/OASIS』聴いてください。これからもよろしくお願いします。

 それでは、また。



 *****


 何が、「それでは、また」だ。私はとにかく不快だった。今まで、これほど薄気味の悪い私信をもらったことは一度もない。見ず知らずの私に長々と自己愛にまみれた大げさな自分語りを送りつけてくるその狂態、痴態もさることながら、一見、自分の弱さや醜さをさらけ出した独白のように装いつつ、実はそれらを言い訳にして自己を正当化しようとしているその見え透いた魂胆、薄汚く歪んだ自己顕示欲、現実逃避、太宰の威を借る狐、詩にたかる蝿のような執着心、「内心では読者を鼻で嗤っているのではないか」と勘繰りたくなるような、丁寧な言葉使いではあるけれども蜘蛛の巣のようにネットリとまとわりつく奇妙な文体、深みのないひとりよがりな苦悩、すべてが私には嫌悪しかもたらさず、なぜだか私自身が侮辱を受けているような倒錯すら感じ、ただただ不快であった。
 聞くところによるとこのシュリケンという男は別の筆名を持っていて、『頂上文学』という芸術系詩サイトに参加しており、エンターテインメントの書ける作者としてある程度の評価を受けているのだという。どのような作品が評価されたのかは知らないが、この私信のように自意識過剰でわざとらしい自分語り、自己戯画化、私生活の切り売りが果たしてどこまでエンターテインメントたりえるのかどうか、私には甚だ疑問である。どうせ、仲間内での誉め合いなのだろう。そうだ、きっとそうに違いない。偉そうなことを言っておまえだってしっかり馴れ合っているじゃないか、いったい私と何が違うのだ、確かに私の詩は趣味ではあるが少なくとも私はおまえのように詩を馬鹿になどしていない、詩が好きで、詩を必要としているその気持ちに勝手に優劣など付けられてたまるものか、何がシュリケンだ、文責も持たず好き放題書き散らしたあげくどうせまたすぐに名前を変えるつもりなのだろう、それで居場所を見つけたつもりなのかそれがおまえのやりたかったことなのか詩とは何だ文学とはそんなものか芸術なんてどこにある、作品を創る者が自ら作品になってどうする芸術家はただ黙って芸術だけを創ればいいのだ、いつまで自分を偽るつもりだ姿をあらわせ、本当のおまえはどこにいる?シュリケン、シュリケン、シュルシュルシュ、誰にも見られることのないオブジェ、顔のないトルソー、ド田舎のラスコーリニコフ気取り、唾と蜜、露悪趣味、止まり木、金魚鉢、空白、おまえにとって私は誰だ私にとっておまえは何だ、アントなのかシノニムなのか私の名前は‥‥‥。
 遠く記憶の奥底に沈めたはずの、忘れていたはずのあの目眩、あの息苦しさをうっすらと思い出しながら私は、シュリケンに返信した。(私は、さかなに還るのだろうか。)
「ずいぶん大層なフィクションですね。
詩は、いや、人生は、私小説くずれの慰みものであってはならないと思います。
BGMは、『海を探す/BLANKY JET CITY』で。」




  「私たちの知っている葉ちゃんは、
  とても素直で、よく気がきいて、
  あれでお酒さえ飲まなければ、
  いいえ、飲んでも、」
  『人間失格/太宰治』

文学極道

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