#目次

最新情報


選出作品

作品 - 20150302_416_7938p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


物語の物語の物語

  Migikata

 図書館細胞は、高台へ至る斜面の住宅街にあった。傾斜の強い路地に板壁の湿った家屋がひしめき、石垣の間を脇に入れば、雑木が頭上から一面に影を這わす。薄暗いざわめきの明滅に体が沈む。しかし、この坂を上りきり振り返るならやがて眺望が開け、見晴るかす彼方は海だ。

 他の多くの図書館細胞と同じように、そこは民家の一室で、庭先の木戸に「図書館九一00一・文学的自動生成・人為即興部」という縦長の表示板がかかる。スマートフォンをかざして表示板のチップに認証を受けると、木戸を潜って進む。受付は土間に面した座敷への上がり口にあって、六十代後半くらいの和服の女性が二人、座卓の前でそれぞれノート型端末に向かっている。事前の予約と認証で、互いに挨拶をするときには既に総ての受け入れ準備が整っていたようだ。

 「ここは初めてですね。どうぞお楽になさって下さい」と一人がお茶を勧める間、もう一人が開け放した障子の向こう、縁側に腰を掛けて待つ三十歳ほどの女性に「いらっしゃいましたよ」と声を掛けた。はいと返事をして立ち上がると彼女は長身で、青い花柄に埋まったワンピースを南からの風が通り抜け、着衣の全体がふくらみ、靡いた。二人の婦人の脇に正座すると、名前を名乗って深々と頭を下げるので、こちらは立ったまま彼女に名乗り返した。相手に比べて雑なお辞儀を返していることが恥ずかしい。「蔵書」と通称される「非在図書開陳係員」に一対一で直接向き合うのは初めてだったから、とても緊張していたのだった。

 彼女には馴れたことだから、にこやかに木製のサンダルを突っかけると、いつの間にか極自然に横に立っている。「それでは歩きましょう」と彼女は言った。
「今もう、本が開いていますよ」

 体を寄り添わせて歩きながら彼女が流した言葉のイメージを、その場で聞き取ったものの一部がこれから先、題名を付して記す文章だ。

 家の敷地を出ると、流れる煙のようにして人けのない通りをさまよった。よく晴れた日で、前日の雨で濡れている木や草の匂いがした。家や植物に囲まれた狭隘な路地を歩き、そこを外れて開けた場所へも出た。手入れが行き届いていない荒れた林に草を分けて入り込んだり、用水路に沿って歩いたりもした。

 時には彼女は、間近で顔を向かい合わせて熱心に言葉を発した。また、ふと立ち止まると、体全体が目に入るだけの距離をとり、声を大きくして話した。しゃがみ込んで、道ばたの菫か何かの花を見つめながらひどく遅いペースで話すこともあった。ある場面ではこちらの二の腕を掴んで、直接体の中へ言葉を流し込もうとするかのように語ってくれた。

 並んで歩くほどに「本」は一枚一枚ゆっくりとめくられ、およそ三十分で堅い裏表紙が見え、話の最後の部分に覆い被さって終った。非在の本がひと度開き、再び閉じられたのだった。


『鞠を落とす・鞠が落ちる・ものが引き合う』
 
 鞠になって落ちるとき、落とすものの掌は見えていません。落とすものは雲と大差なく空の明るみを漂っていたのです。
 それはまったくスピリチュアルな存在ではないのに、どこか泰然とした悟性を保っているかのようでした。鞠になって両脇から押さえられ、冷たい高層の空気の中を上へ上へ掲げられていくと、「落とすもの」は父や母の思い出のような、曖昧な愛情さえ肌に伝えてきました。
 落とされることは不安で、一方では落ちることが嬉しい。不安と嬉しさが重なって捩れながら、大きな流れとなって渦を巻き、その流れが鞠を含む総てをさらに高く押し上げるようです。
 鳥か虫か、ちぎれた紙か。
 薄く広がって、それでも意思あるものたちが、羽ばたいて周りを取り巻きながら、螺旋に昇ってついてきます。冷涼な光子の粒が滑らかに空間を浸します。明るいけれども眩しくはありません。
 押さえていた掌が消えるように離れてしまうと、時間がするするほぐれ始めました。
 落ちるのです。
 地上からの光の反射が、野や山や家や道路や、穏やかなものやどうしようもなく獰猛なものの実在を視覚に返します。そしてそれが逆に降り注ぐ光のみなもとを意識させるから、猛烈な気流の抵抗を受けながらも、落ちてゆくものは空と引き合うものでもあると、はっきり言えるのです。
 拡大。地理の拡大ではなく、ものの拡大。街路樹の一本、桜の樹の拡大。思い出。葉柄から葉脈をなぞり、葉と葉と葉と、さらに葉に、感触をがさごそ委ねながら、緑色の苦い思い出ごと枝を突き抜けます。
 (お父さん、お母さん、とかつて言いながら赤い車のリヤウインドウに緑のクレヨンで数カ所断線した大きなマルを描いたことがありました。)
 こんにちは。さようなら。それがバウンド。鞠は人のいない歩道のアスファルトで一瞬極端にひしゃげます。ひしゃげるもの、それが鞠。過程というものについての強烈な愛の衝動が、激突を引き起こすのです。
 聞くもののない音を放つ激突。
 こんにちは。さようなら。
 それからもう一度昇ります。今度は引き上げられるのではなく、自分の力でそうしているかのように、昇る。昇る。微妙に回転しながらすさまじい速度で昇ります。
 「ウイークリーマンション ネオ・トライブ」の傍らを過ぎれば屋根、屋根のモザイク。感覚に反映するこの世の総てが微細なモザイクの集積なのです。
 今度の上昇は、全体的に見れば位置エネルギーが減衰する一過程ですが、呼吸も新陳代謝も周期を持って減衰する同じバウンドなのだから、そういう理屈でこの世の総体が鞠と一体になり、しかしそれぞれ異なる次元を併存させて跳ねるのです。
 どきどきします。
 脆い地殻のすぐ裏側で、マントルが対流し、内核が鼓動しているからです。恋のときめきではありません。小さな惑星が宇宙の原初を懐かしみ、心地よく動揺している幻が、開陳されているのです。
 鞠のバウンドの終わりは死んでしまうということではありません。
 眠りでも休息でもありません。
 連続したバウンドの地に着いた状態が、いくぶん長く時間の流れに投影されているだけです。
 鞠はまだ生まれず、今も無く、既に形を失って四散しているのに、それでも跳ねている過程の一部であるのです。
 落とされるものは結局落とすものでしかない、という幸せなあきらめはそんな仕組みから来るのだと。
 「そんな仕組みから来るのだ」と、耳元では蜂の羽音が囁いています。


 『もちろん、直接耳元で囁いたのはこの物語を語った女性に違いなかったが、その時の声の甘さ加減は、およそ人間の口から発せられたものとは思えぬほどであった』と最後に追記しておく。

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.