月明かりの夜、還暦祝いに男は少し飲んでいた。終電車のドアにも
たれ、何気なく大和川の白い川面を見ていた。河原に足を上げ、大
きく右手を振りかぶっている黒い人影が見えた。
四十年前、天王寺 鳳間で毎夜のように、走る電車への投石があっ
た。石は弓状の軌跡を描き、明るく光の零れる車両へ向かって、闇
を裂き、ガラスを割り、鋭くとがった破片が夢うつつの人間の肉を
裂いた。けが人は病院に運ばれ、犯人はいっこう捕まらなかった。
エースを夢見る若者がいた。しかし三番手の投手にしか成れなかっ
た。彼の父は闇金に追い込まれていた。息子に高校で野球を続けさ
すためにもお金は必要であった。エースの友は彼のことを野球にく
っ付いているタニシだと笑った。たとえそれが軽い冗談であっても、
ひそかににぎりこぶしを握って、その言葉に彼は耐えた。エースは
セレクトで大学へ進学し、若者は縫製工としてミシンにくっ付いて
いるタニシである、と自分でも思うようになった。借金を返すため
に働き続けた。吐き出しようのない怒りをかくしていた。
みじめと呼ばれている野良犬がいた。 見るからに皮膚病のような
毛の色をしていたから、みじめなやつだと思われ、みんなからそう
呼ばれた。 誰にでもよくなついた。尾を振り寄って来て、餌をも
らったりした。若者はそのこびへつらう様子が我慢できなかった。
手招きでみじめを呼んだ。うれしそうに尾をふり、あたまを幾分下
げて、喜びに満ちた目で犬はやって来た。ひそかにきつく握ったに
ぎりこぶしで、力の限り犬の横面をなぐった。脳しんとうを起こし
たのだろうか、ふらつきながらキャンキャン鳴いて、狂ったように
揺れながら、みじめは逃げていった。若者は犬が可愛そうだ、とは
思わなかった。むしろ自分がニンゲン世界でみじめという名の犬だ
と思っていた。その野良犬に名前を付けたのも本当は若者自身であ
った。
夜中、自転車に乗り、出かけるようになった、犬がいればそれが繋
がれた飼い犬であろうがなかろうが、ポケットに忍ばせた石を犬に
向かって投げた。犬が吠え叫ぶ住宅街を自転車で駆け抜ける日が続
いた。そして、こうこうと光の満ちる幸せな家の窓に向かって、石
を投げるようにエスカレートしていった 石を握りしめ 若者の心
は真っ赤だった。ついに電車への投石も始めた。テレビや新聞が騒
ぎ始めたので、やばいと思い、捕まる前に若者はぴたりとその行為
をやめた。
男は自分の人生がこれで良かったのかどうか判らなかった。人にも
厳しく、家族にも厳しく、自分にも厳しかった。人をこき使った。
家族をこき使った。自分をこき使った。法律すれすれで生きた。そ
して金を握りしめた。友もなく、家族からも嫌われた。みんなから
嫌われていた。
車窓から見たあの影はいったい誰だったのだろうと男は思った。そ
いつがだれであるか男はよく知っていた。若き日の自分である。あ
たれ、あたれ、ニンゲンにあたれと念じた日から 四十年の歳月が
過ぎ、自分の投げた石はしわを刻んだおのれの顔面にゴツンと当た
った。
血のような涙が流れた。
お前はどのように生きてきたか、と石は問うた。
おまえはどのようにさびしく野垂れ死にするのか、と続いた。
最新情報
選出作品
作品 - 20150120_720_7861p
- [優] 投石 - 島中 充 (2015-01)
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投石
島中 充