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作品 - 20150105_465_7833p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


死んだ子が悪い。

  田中宏輔



こんなタイトルで書こうと思うんだけど、って、ぼくが言ったら、
恋人が、ぼくの目を見つめながら、ぼそっと、
反感買うね。
先駆形は、だいたい、いつも
タイトルを先に決めてから書き出すんだけど、
あとで変えることもある。
マタイによる福音書・第二十七章。
死んだ妹が、ぼくのことを思い出すと、
砂場の砂が、つぎつぎと、ぼくの手足を吐き出していく。
(胴体はない)
ずっと。
(胴体はない)
思い出されるたびに、ぼくは引き戻される。
もとの姿に戻る。
(胴体はない)
ほら、見てごらん。
人であったときの記憶が
ぼくの手と足を、ジャングルジムに登らせていく。
(胴体はない)
それも、また、一つの物語ではなかったか。
やがて、日が暮れて、
帰ろうと言っても帰らない。
ぼくと、ぼくの
手と足の数が増えていく。
(胴体はない)
校庭の隅にある鉄棒の、その下陰の、蟻と、蟻の、蟻の群れ。
それも、また、ひとすじの、生きてかよう道なのか。
(胴体はない)
電話が入った。
歌人で、親友の林 和清からだ。
ぼくの一番大切な友だちだ。
いつも、ぼくの詩を面白いと言って、励ましてくれる。
きっと悪意よ、そうに違いないわ。
新年のあいさつだという。
ことしもよろしく、と言うので
よろしくするのよ、と言った。
あとで、
留守録に一分間の沈黙。
いない時間をみはからって、かけてあげる。
うん。
あっ、
でも、
もちろん、ぼくだって、普通の電話をすることもある。
面白いことを思いついたら、まっさきに教えてあげる。
牛は牛づら、馬は馬づらってのはどう?
何だ、それ?
これ?
ラルースの『世界ことわざ名言辞典』ってので、読んだのよ。
「牛は牛づれ、馬は馬づれ」っての。
でね、
それで、アタシ、思いついたのよ。
ダメ?
ダメかしら?
そうよ。
牛は牛の顔してるし、馬は馬の顔してるわ。
あたりまえのことよ。
でもね、
あたりまえのことが面白いのよ。
アタシには。
う〜ん。
いつのまにか、ぼくから、アタシになってるワ。
ワ!
(胴体はない)
 「オレ、アツスケのことが心配や。
  アツスケだますの、簡単やもんな。
  ほんま、アツスケって、数字に弱いしな。
  数字見たら、すぐに信じよるもんな。
  何パーセントが、これこれです。
  ちゅうたら、
  母集団の数も知らんのに
  すぐに信じよるもんな。
  高校じゃ、数学教えとるくせに。」
 「それに、こないなとこで
  中途半端な二段落としにする、っちゅうのは
  まだ、形を信じとる、っちゅうわけやな。
  しょうもない。
  ろくでもあらへんやっちゃ。
  それに、こないに、ぎょうさん、
  ぱっぱり、つめ込み過ぎっちゅうんちゃうん?」
ぱっぱり、そうかしら。
 「ぱっぱり、そうなのじゃあ!」
現状認識できてましぇ〜ん。
潮溜まりに、ひたぬくもる、ヨカナーンの首。
(胴体はない)
棒をのんだヒキガエルが死んでいる。
(胴体はない)
醒めたまま死ね!
(胴体はない)
醒めたまま死ね!










注記:この詩のタイトルは、むかし見たニュース番組で、自分の子どもがイジメにあって
自殺したとき、その自殺した子どもの父親が葬儀のときに(だったと思います)口にした
言葉です。20年くらいむかしの古い事件ですので、詳細は忘れましたが、自分の子ども
がイジメで自殺したというのに、「死んだ子が悪い。」という言葉を、その自殺した子ども
の父親が言ったということに、ぼくはショックを受けました。2つの意味でです。1つは、
あまりに無念すぎて、自分の気持ちと自分の言葉が乖離したのではないかという意味です。
もう1つの意味は、父親にそういった言葉を口にさせたのが、日本の社会的・風土的な理由
からではなかったのだろうかという疑問があったという意味でです。いじめられるほうに
原因がありとする、当時の社会的な雰囲気です。いまは、当時とちがって、少しかわって
きたと思いますが、それでもまだいまだに、いじめられるほうにも原因があるのだとする
社会的風潮が残っているように感じられます。この注記は、2015年1月4日の昼に書き
ました。20年前なら、このタイトルの言葉が社会的にインパクトもあって、広く知られて
いたでしょうけれども、20年もたっていますから、ご存じないない方もいられるでしょう
から、書くことにしました。20年前に、同人誌に発表したときは、このような注記なしで
発表しました。詩集にも収録しました。前述のような理由からです。

注記2:「先駆形」というのは、拙詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の前半に
収めた、実験詩のことです。多量のメモを見ているうちに、それらが自動的に結びつくま
で作品にしなかったもので、言い換えると、メモ同士が自動的に結びつくのを、意識領域
の自我ではなくて、なかば無意識領域の自我にまかせてつくった、ある意味で、自動記述
的な詩作行為によってつくられた一群の詩作品のことです。

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