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作品 - 20141201_979_7778p

  • [優]  白鱗 - 島中 充  (2014-12)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


白鱗

  島中 充

 中国山地のなだらかな山の中に、その滝はあった。落差が七十メートルを
越える、白蛇の滝。白く水の落ちるさまが名前の由来である。秋には紅葉
の渓谷を、春には桜並木の堤に抱かれて、その美しさは錦と称えられ、錦
川と呼ばれた。真夏に、時折白い蛇が体をくねらせながら、その川を渡った。
白いチョークで怪しい美しさが川面に描かれ、人々を驚かせた。白い蛇は青
大将の白子で、おぞましいほど白く、細い舌と目は、血が透いて、真っ赤で
ある。
少年の家は山のふもと、錦川の堤にあった。川に沿って坂道をのぼって行
くと、鎮守の森があり、社の庭園に大きな池が造られていた。池のなかに
数匹の錦鯉が飼われ、その中に白鷺のように真っ白で、鱗がキラキラひか
り、目の赤い、白鱗がいた。少年は六十センチあるその巨鯉をいとおしく
思っていた。
 少年には血の繋がる者の中に複数の発狂する者がいた。もうすぐ自分も狂
うかも知れない。すらりとした長身の姉もその一人だった。狂って、ぼさぼ
さの長い髪、薄汚れた服に包まれている悲しい姉。村の子供たちは、お前の
姉さんがまた素っ裸で、川で泳いでいたぞ、と少年をからかった。狂っても、
まだ見事な泳法を見せ、深い川をひゅるひゅると、白い蛇のように渡った。
水にぬれると長い髪は黒々と輝き、恥毛はしっとり濡れ、白い肌は陽に照ら
されていっそう白く、引き締まった小さな乳房だった。子供たちは橋の上か
ら、おーいと呼びかけ、大人たちはその美しい裸体を欄干からじっと眺めて
いた。
 姉の姿を少年は白鱗に見ていたのかもしれない。夜明け前、いつもムカデ、
イモリ、ときには蛇を殺し、輪切りにして、池にやってきて、巨鯉にあたえ
ていた。鯉は差し出す少年の手の平に乗って、パクパク餌を食べるほどなつ
いていた。
 敗戦の年、この村にも飢えがやってきて、社の池から鯉が盗まれるように
なった。村人の食用になる前に、白鱗だけは助けてやらなければ、逃がして
やらなければ、と少年は思った。
まだ暗い内に起き出し、少年はヤカンに油を入れて、火にかけ、水滴を落
とすとジュウと音のするまで熱した。そしてその熱油を注意深く、一升瓶
に注ぎ込んだ。ガラス瓶は、油を注ぎ込んだ深さに見事にピリッと音を立
て、ひび割れた。底の抜けた一升瓶は丸い鋭利な切り口になった。鯉を傷
つけないために、切り口にゆっくりゆっくり、ヤスリをかける。ガラスを
こする甲高い音、少しでも力が入るとガラスはピリッと新しい切っ先を作
って壊れ、少年の指先をシュッと傷つけた。流れる血をシャツになすり付
けながら、注意深く一回一回ヤスリをかけた。
底を抜いた瓶を抱いて少年は朝焼けの中、池に走った。一升瓶の注ぎ口か
ら糸と釣り針を通し、イモリを餌にして、瓶をゆっくり水に浸した。いつ
もの朝のように、何の疑いもなく、ぱくりと白鱗はイモリを飲み込んだ。
いっきにぐいと糸を引っ張ると、鯉は頭から、半身をすっぽり一升瓶の中
に、はまり込んだ。まったく身動きできない。あばれることもなく、音を
立てることもなく、社の人に気付かれる心配などひとつもなかった。そし
て、汗臭い血の付いたシャツを脱ぎ、鯉を瓶ごと大切にくるんで、一目散
に滝壺まで走った。針を外してやり、抱きかかえて、鯉を水の中に離すと、
大きく体をくねらせたかと思うと、目にもとまらぬ速さで、白鱗は水の落ち
る深みに消えていった。
 それから三年、少年もまた姉の発狂した年齢になった。すでに去年の夏、
姉は失踪していた。村人も少年もそれを不思議に思わなかった。捜索も行わ
れなかった。それがこの血筋の宿命のような気がするのだ。姉は鉄格子のあ
る大阪の気違い病院にいるとか、外人相手のパンパンをしているとか、村人
はうわさし、子供たちは、川を下って、あのヒトは白蛇に変身したのだと言
った。
 滝壺に白鱗を求めて、少年は毎日のようにやって来た。小高い岩の上から
滝壺を見つめた。深くえぐられた水底の穴倉にでもいるのか、まったく白鱗
は姿を現すことはない。毎日毎日、水面を見つめていると、見えるはずのな
いものを、いるはずのないものを、薄く霧のかかる水面に見るようになって
くる。すこしずつ狂ってきたのかもしれない。薄汚く、はだけた胸で村人か
ら乳房をのぞかれ、野良犬のように村の中を歩きまわった姉。姉のようにな
る事ことを、少年はひどく怖がった。自分も少しずつ姉のようになってきた
のでは、と恐れていた。あるはずのない光景が少年の眼の前に現れるのだ。
数匹の真っ白な蛇が体をくねらせながら縺れ合うようにゆっくり滝壺を泳ぎ
回っていた。深い底から真っ白な一メートルを超える大きな鯉が浮かび上が
って来ては、水面に鰭をゆっくり左右に振りながら、悠々と泳ぎ、白い蛇た
ちと互いに体を触れながら、もつれあい、戯れていた。そして白い鯉は仰向
けになると胸鰭を広げて、少年を手招きするようにさえ動かした。深く水の
なかにもぐったかと思うと、突如空中へ高く飛び跳ねた。その姿は、まさに
乳房のある姉の姿だった。下半身は鱗がひかり尾鰭のある白い裸体。見える
はずのないものに羽交い絞めにされ、少年は心を決めた。
 苔の生えている、水しぶきのかかる岩と岩の隙間を、木々を掴みながら、
草を掴みながら、すべりやすい岩場を四つん這いになって、蛇のように身を
くねらせながら登って行った。水で重くなったシャツを脱ぎ、草履を脱ぎ、
ズボンを脱ぎ、頂上の岩の上に立ったときは、擦り傷だらけの半裸であった。
少年は白蛇の滝の頂上から滝壺を覗き込んだ。真っ白な巨大な鯉が黒い滝壺
を悠々と円を描きながら、泳いでいる。これは幻ではないと思った。少年は
身をのりだし、そして、そのまま滝壺に向かって落下して行った。からだが
岩にぶつかるたびに白い飛沫に血がにじみ、頭蓋や背骨を折りながら、少年
は彼方に落ちていった。

 堤の少年の家は誰も住まない廃家になった。父は戦争で、母は八月六日終
戦の年、広島の軍需工場にいた。一九五一年、岩国市を襲ったルース台風で
土石流のため家屋は倒壊し、流木や土石を取り除くと、その下から肉の付着
している骨があらわれた。少年は姉を殺し、床下に葬っていた。

文学極道

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