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作品 - 20140804_515_7584p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


LET THERE BE MORE LIGHT。──光の詩学/神学的自我論の試み

  田中宏輔



形象(フオルム)を一つ一つとらえ、それを書物のなかに閉じこめる人びとが、私の精神の動きをあらかじめ準備してくれた
(マルロオ『西欧の誘惑』小松 清・松浪信三郎訳)

言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)

人間、日毎に新しきを思惟する者たち。
(デモクリトス断片一五八、広川洋一訳)


「現実とは何かね?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)「場所の概念な
のか?」(ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』小川 隆訳)「精神もひとつの現実ですよ」(ガデンヌ『スヘ
ヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳)。「あらゆるものが現実だ。」(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリ
ーンプレイ』34、浅倉久志訳)「すべてが現実なのだ」(サバト『英雄たちと墓』第III部・21、安藤哲行訳)。もちろん、
「現実化する過程なしには現実は存在しない」(スティーヴン・バクスター『時間的無限大』13、小野田和子訳)。「そ
もそもの最初は、なにもなかったのだ。」(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの恒星日記』第二十回の旅、深見 弾訳)「急
に一条の光が射してきて、」(プルースト『サント=ブーヴに反論する』サント=ブーヴとバルザック、出口裕弘・吉川
一義訳)「空虚のなかに、ひとつの存在が出現した。」(グレッグ・ベア『永劫』上・9、酒井昭伸訳)「この過程のすぐ
後には、光に向かっての、突然の浮上が起こる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)「思
考し行為し変化する一つの実在になる」(ロバート・シルヴァーバーグ『不老不死プロジェクト』5、岡部宏之訳)。「や
がて、またもや爆発。」(ロジャー・ゼラズニイ『復讐の女神』浅倉久志訳)「閃光! 闇!」(ジェイムズ・ティプトリ
ー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)「万物を操るは電光。」(ヘラクレイトス『断片六四』山川偉也
訳)「一つだったものは、たくさんの反響する心をもつものとなった。」(ディラン・トマス『愛が発熱してから』松田
幸雄訳)「何千何万という世界が重なっている。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆訳)
「ここでは、」(ジュゼッペ・ウンガレッティ『カンツォーネ』井手正隆訳)「無数の世界を、一ヵ所に焦点を重ねたさ
まざまな色の光だと考えればわかりやすいだろう。」(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わり』小川 隆
訳)。

 プルーストは、『ギュスタヴ・モローの神秘的世界についての覚書』に、「作家にとって現実的なものは、彼の思考を
個性的なかたちで反映しうるもの、つまり彼の作品にほかならぬ。」(粟津則雄訳)と述べており、また、「かたち」とは、
文体(スタイル)や作品の構成のことであろうが、『失われた時を求めて』には、「文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見え
るかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろ
うその相違を啓示することなのである」(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)と書いている。また、ワイルドは、
「あらゆる藝術の真の条件とは、スタイルなのであ」(『嘘言の衰頽)』西村孝次訳)り、「スタイルのないところに藝術
はない」(『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)と述べており、ジイドは、「作品の構成こそ最も重要なもの
であり、この構成が欠けているために、今日の大部分の藝術作品が失敗しているのだと思う。」(『ジイドの日記』第五
巻・断想、新庄嘉章訳)と書いている。

 いま、日本の代表的なモダニスト詩人を三人選び出し、筆者が彼らの作品から受けた印象を、ある一人の哲学者の
本のなかにある言葉を使って書き表わしてみよう。突出したモダニスト、北園克衛には、「これまでにあった最も強大
な比喩の力も、言語がこのように具象性の本然へ立ち還(かえ)った姿に比べるならば、貧弱であり、児戯にも等しい。」「われ
われはもう何が形象であり、何が比喩であるかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な
表現となって、立ち現れる。」と、また、瀧口修造には、たしかに、「あらゆる精神の中で最も然(しか)りと肯定するこの精神
は、一語を語るごとに矛盾している。」と思わせられ、西脇順三郎には、なにゆえに、「最も重々しい運命、一個の宿業
ともいうべき使命を担(にな)っている精神が、それにも拘らず、いかにして最も軽快で、最も超俗的な精神であり得るか──
そうだ、ツァラトゥストラは一人の舞踏者なのだ」などといった言葉が思い起こされるのである。ある一人の哲学者
とは、もちろん、ニーチェであり、筆者が用いた本とは、『この人を見よ』(西尾幹二訳)である。「なぜ私はかくも良
い本を書くのか」において、「ツァラトゥストラ」について書かれてあるところから引用した。

 モダニストたちの作品に見られる、その顕著な特徴は、一見すると軽薄にさえ見えることもある、その作品のスタ
イルにある。しかし、彼らの思想は大胆であり、徹底しており、なおかつ繊細なのである。彼らの作品には、ときと
して、「稲妻のように一つの思想が、必然の力を以って、躊躇(ためら)いを知らぬ形でひらめく。」(ニーチェ『この人を見よ』
なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)ことがあり、そういった場合には、しばしば、「事物の方が自ら近寄
って来て、比喩になるように申し出ているかのごとき有様にみえる。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い
本を書くのか、西尾幹二訳)のである。そして、そういった彼らの作品によって、わたしたちには、「誰(だれ)もまだ広さの
限界を見きわめたことのない未発見の国土を、どうやら行手に持つことが確からしいとの気配がして来るのである。」
「ああ、このような世界に気づいた今となっては、もはやわれわれは他のいかなるものによっても満たされることがな
いであろう!」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)。彼らは、彼らが現われる
前に現われた「どんな人間よりもより遠くを見たし、より遠くを意志したし、より遠くに届くことが出来た(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ニーチ
ェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか、西尾幹二訳)のである。また、「あらゆる価値の価値転換(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、こ
の言葉こそが」「人類最高自覚の行為をあらわす表現方式にほかならない。」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私は一個
の運命であるのか、西尾幹二訳)と、この哲学者であり、詩人でもある人物は言うのだが、モダニストたちも同様に、
その奇抜なスタイルによって、「頭の最も奥深くにあるもの、事物の驚くべき相貌を表現する。」(ボードレール『一八
五九年のサロン』5、高階秀爾訳)のである。「事物に現実性を与えるのは(……)表現にほかならない」(ワイルド
『ドリアン・グレイの画像』第九章、西村孝次訳)。「それが/視線に実在性を与えるのだ」(オクタビオ・パス『白』
鼓 直訳)。

 つい先頃、ネットの古書店で、ロジャー・ゼラズニイの『わが名はレジオン』(中俣真知子訳)を手に入れた。三部
仕立ての作品で、第二部のタイトルは、「クウェルクエッククータイルクエック」というもので、原題
は、”Kjwalll’kje’k’koothai’ll’kje’k”というのだが、これは、イルカの言葉をアルファベット化したものだそうである。
翻訳は一九八〇年に、原著は、本国のアメリカで一九七六年に出たのだが、このタイトルを見ても、あまり驚かなか
った。もし仮に、筆者が、モダニズム詩人たちの作品を、先に知っていなければ、驚いたに違いないのであるが。そ
うなのだ。すべての前衛作品が、いつかは前衛でなくなるのである。作品を見てすぐに、これはあれだったと分類で
きるというのは、わたしたちが、それに馴染みを持っているからであり、それがすぐに分類できないときにのみ、作
品というものは前衛なのである。モダニストたちの多くの作品が、傑作を除いて、その文体や形式が、わたしたちに
驚きを与えたのも、それが初見のときか、まだ私たちの目に、それほど馴染みがないときだけである。しかし、それ
も仕方のないことであろう。何といっても、人間の本性に基づくことなのだから。中世の諺に、「vasanovella placent,
in faece jacent./新しき壺は気に入る、古きは廃物の中に横はる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)というのがある。
それというのも、「est natura hominum novitatis avida./人間の性質は新奇を求む。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』
プリニウスの言葉より)からであり、「est quoque cunctarum novitas carissima rerum./新奇はまたあらゆるものの
中にて最も楽しきものなり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』オウィディウスの言葉より)というように、「varietas
delectat./変化は人を悦ばす。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉より)ものだからである。その理由と
いうのは、もしかすると、「われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なもの」(アリストテレス『ニコマコス倫
理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からできているからかもしれない。「simile gaudet simili./似たるものは似た
るものを悦ぶ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)とか、「similia similibus curantur./同種のものは同種のものにて
癒やさる。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ハーネマンの言葉より)とかいった言葉があり、アリストテレスの『弁
論術』第一巻にも、「例えば人間と人間、馬と馬、若者と若者のように、すべて近いもの、類似したものは一般に快適
である。そこから「同じ年同士はたのしい」「似た者同士」「獣獣を知る」「鳥は鳥仲間」等々の諺がつくられる。」(田
中美知太郎訳)とかいった言葉もあり、時に、人間というものは、変化のないことによって、こころ穏やかでありた
いと望むこともあるのだが、ずっと変化のないことには耐えられないものである。わたしについていえば、とりわけ
変化を望む性質である。「変化だけがわたしを満足させる。」(モンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)
と言ってもよい。「詩とは、砕かれてめらめらと炎をあげる多様性である。」(アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』
III、多田智満子訳)。「もしわたしを満足させるものが何かあるとすれば、それは多様さを把(は)握(あく)するということだ」(モ
ンテーニュ『エセー』第III巻・第9章、荒木昭太郎訳)。「生は多彩であればあるほど、すばらしくなるのだ。」(ノヴァ
ーリス『花粉』補遺120、今泉文子訳)。ちなみに、ゼラズニイの本のタイトルにある「レジオン」とは、聖書のなかに
出てくる”Legion”(ギリシア語で、レギオン)のことで、「軍団」とか「多数」とかを意味する言葉である(教文館『聖
書大事典』)。

 ところで、また、言葉にも、人間と同じように、履歴というものがある。さまざまな文脈の中で意味を持たされて
きた経験のことである。言葉もまた、新たな意味を獲得することに喜びを感じるのではないだろうか。言葉もまた、
再創造されつづけることを願っているのではないだろうか。その願いが叶うには、モダニストたちが、ずっとモダニ
ストでありつづければよいのだが、それは、それほど容易なことではないのである。「観念は人間を通してはじめて認
識される」(ジイド『贋金つかい』第二部・三、岡部正孝訳)のであって、「およそ概念なるものは、人それぞれに独特
な意欲と知性の(ヽヽヽ)眼とに応じてはじめてその現実性を有(も)つ」(ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』第一巻・第十章、
斎藤磯雄訳)ものであり、「知性には、それなりの思考習性というのがあ」(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』
第1部、田中倫郎訳)るからである。いつまでも革新的でありつづけることは例外的なことであり、ほんもののきわ
めてすぐれた知性についてのみあり得ることであろう。しかし、なぜ、モダニストたちは、文体や形式にこだわるの
だろうか。それは、おそらく、事物や言葉、延いては人間といったものの現実が、それまで存在していた文体や形式
によっては表わすことができないと彼らが思ったからであろう。ニーチェのことを本稿の冒頭にもってきたのは、筆
者が彼のことを二十世紀最大のモダニストであると考えたからである。あるいは、こう言い換えてもよい。モダニス
トたちの父であった、と。たとえ、彼の思想が直接に反映した作品が作られていなくても、「価値転換」という思想が、
モダニストたちの精神に与えた影響は、けっして小さなものではなかったはずである。よしんば、それが無意識領域
のものであっても。いや、無意識領域の方が、意識的なところよりも影響を受けやすいものであり、人間の諸活動は、
無意識領域で受けた影響の方が、より強く発現するものである。

「可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知
しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。」(『断章と研究 一
七九八年』今泉文子訳)という、ノヴァーリスのよく知られた言葉がある。もしも、その言葉通りならば、意味せざ
るものが、何らかの刺激で意味するものに変容すると考えても不思議はないわけである。同様に、言葉でないものが、
言葉に変容すると考えてもよい。そういえば、「すぐ近くにあるものほど、そのもの自身に似ていないものはない。」(ラ
ディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)といった言葉もあったが、しかし、それは、ある時点においては、似ていないと
いうことであって、よくあることだが、まったく似ていないものが、よく似たものになることもあり、そっくり同じ
ものになることもあるのである。だからこそ、それを、「変容する」と言うのであって、無意識領域にあるものが、意
識にのぼる概念と密接に触れ合っており、ある刺激があれば、無意識領域にあるものが、意識にのぼる概念になるこ
ともあると、少なくとも、その意識にのぼる概念の一部となることもあるのだと、筆者は考えているのである。聖書
の言葉に、「見えるものは現れているものから出てきたのではない」(ヘブル人への手紙一一・三)というのがある。も
ちろん、「一切がことばになりうるわけではない。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部・日の出前、手塚富雄訳)。
言葉にならないものもあるだろう。しかし、それが、概念形成に寄与しないとも限らないのである。それが、概念形
成に寄与するものを形成することに寄与するかもしれないのである。これは、いくらでも無限後退させて考えてやる
ことができる。

 もしも、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れられるもの、こころで感じとれるもの、頭で考えられるも
の、そういったものだけで世界ができているとしたら、そんな世界はとても貧しいものとなるのではないだろうか。
しかし、じっさいは豊かである。目に見えないものもあり、耳に聞こえないものもあり、手に触れられないものもあ
り、こころに感じとれないものもあり、頭で考えられないものもあるということだ。言葉にできないものもあり、言
葉にならないものもあるということだ。しかし、そういったものがあるということが、世界を豊かにしているのだ。
ただし、これらのものの上に「ただちに」という修飾語をつけて考えておくこと。

 一昨年の暮れのことだった。会うとは思われなかった場所で、会うとは思えなかった時間に、ノブユキと出会った
のである。八年ほど前に別れたノブユキに。恋人と待ち合わせをしていたのだという。ノブユキの方が早目に来てし
まったらしく、少しだけなら話す時間もあるというので、あまり人目に付かない場所に移って、話をした。話をして
いる間、ずっと強く、ノブユキの手を握り締めていた。瞬きをする間ももったいないという思いで、ノブユキの目を
見つめていた。どんなに微かな息遣いも聞き逃すまいと思って、ノブユキの声を聞いていた。その時間はとても短く、
あっという間に過ぎていった。別れ際に、ノブユキの方から、電話をするからね、と言ってくれた。ほんとうに、ノ
ブユキは可愛らしかった。その可愛らしさに、変化はなかった。この十年近くの間に、筆者も、何人もの可愛らしい
男の子たちと付き合ってきたのだが、やはり、こころから愛していたのは、ノブユキだった。ノブユキ一人だった。
二人で話をしていた間、ずっと、わたしの心臓は、それまで経験したこともないほどに激しく鼓動していた。あの再
会から一年近く経つのだが、いまだにノブユキからの電話はない。もしかしたら、電話などないのかもしれないと、
話をしている間も思っていたのだけれど。たとえ電話があったとしても、はじめからやり直せるなどとは、思っても
いなかったのだけれど。

 ノブユキとの再会は、あのとき一度きりだった。しかし、再会したつぎの日から、筆者のなかで、何かが変わった
のである。通勤電車に乗っていて、ただ窓の外を眺めていただけなのに、涙がポロポロとこぼれ出したのである。い
つも通りの風景なのに、目に飛び込んでくる、その形の、色彩の、その反射する光の美しさに感動していたらしいの
である。らしい、というのは、涙がこぼれ落ちた理由が、すぐにはわからなかったからである。普通に歩いていても、
破けたセロファンをまとった、タバコの紙箱に、泥のついた、そのひしゃげたタバコの空箱の美しさに目を奪われた
り、授業をしている最中でも、生徒の机の上に置かれた、ビニール・コーティングされた筆箱の表面に反射する光の
美しさに、思わずこころ囚われたりしたのである。ふと、気がつくと、「あらゆるものが美しい。」(ラングドン・ジョ
ーンズ)『時間機械』山田和子訳)「あらゆるものが、わたしに美しく見える」(ホイットマン『大道の歌』6、木島 始
訳)のであった。「光がいたるところに照っていたのだ!」(ボードレール『現代生活の画家』3、阿部良雄訳)「物と
いう物がいっせいに輝き出し、」(スタニスワフレム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)「自ら光を発している
ようにみえた。」(ブライアン・W・オールディス『世界Aの報告』第一部・2、大和田 始訳)「それは太陽から受けた
よりももっと多くの光を照り返しているかのように見えたからである。」(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・
2、浜野 輝訳)「ありとあらゆる色彩と光とがあふれていた。」(サングィネーティ『イタリア綺想曲』6、河島英昭訳)
「あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。」(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)「あらゆる細部が
生き生きしていた。」(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)「それがこんなふうに見えるものだとは、私
はかつて考えたこともなかった。」(スタニスワフ・レム『星からの帰還』2、吉上昭三訳)「自分の頭の中に光を、脈
動する光を、見るというより聞き、感じた」(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁
賀克雄訳)のだ。「わたしが目にしているものはなにか?」(ロバート・シルヴァーバーグ『予言者トーマス』4、佐藤
高子訳)「光よりも光であり、」(ホイットマン『草の葉』神々の方陣を歌う・4、酒本雅之訳)「希望と現実の、愛情と
好意の、期待と真実の」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)「光なのである。」
(W・B・イェイツ『幻想録』第三編・審判に臨む魂、島津彬郎訳)「その内的な光は屈折して、より美しく、より強
烈な色彩となる。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』二、今泉文子訳)。それがつづいたのは、わずか「三日間」(使
徒行伝九・九)のことだったのだが、しかし、たしかに、自分の知らないうちに、何かが記憶に作用したのだ。ある
いは、記憶が何かに作用したのか。それにしても、いったい、何が、筆者に働きかけたのだろうか。何が、あのよう
な光を、筆者の目に見させたのだろうか。「屈折した光条の一つ一つが見せるのは、下層の形象のいろいろな様相では
なく、形象の全体像なので」(フィリップ・ホセ・ファーマー『紫年金の遊蕩者たち』大和田 始訳)ある。「単に物の
一面のみを知るのではなく、それを見ながら全体を把握するのだ。」(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』18、
矢野 徹訳)。

 二〇〇二年の十月に、筆者は、四冊目の詩集を上梓した。タイトルは、『Forest。』である。イメージ・シンボル事
典によると、森は、「無意識」の象徴となっている。冒頭に収めた、引用だけで構成した、二〇〇ページ近くある長篇
の詩で、筆者は、強烈な閃光が、森の様子をすっかり様変わりさせるところを描写したのだが、作品のなかで、その
閃光を発するのは、イエス・キリストであった。

「日光のふりそそぐ大地の上に/春の草は青々と美しく生い茂る。/だが、地の下は真夜中だ、/そこでは永遠の真
夜中である。」(エミリ・ブロンテ『大洋の墓』松村達雄訳)「僕タチハミンナ森ニイル。誰モガソレゾレ違ッテイテ、
ソレゾレノ場所ニイル。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)「人間は木と同じようなものだ。高みへ、
明るみへ、いよいよ伸びて行こうとすればするほど、その根はいよいよ強い力で向かっていく──地へ、下へ、暗黒へ、
深みへ」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)。

 ブロンテの詩句は、前の二行が意識にのぼる意味概念、後の二行が無意識領域の比喩としてとれる。カフカの言葉
は、「無数の断片からなる単一の精神がある。」(ヴァレリー全集カイエ篇1『我』管野昭正訳)とか、「過ぎ去ったこ
とがどのように空間のなかに収まることか、/──草地になり、樹になり、あるいは/空の一部となり……」(リルケ
『明日が逝くと……』高安国世訳)とかいった言葉を思い起こさせる。ニーチェの言葉を、ブロンテの詩句と合わせ
て読むと、経験が重なれば重なるほど、知識が増せば増すほど、無意識領域において、自我が、あるいは、語自体の
持つ形成力、いわゆるロゴスが活発に働くことを示唆しているように思われる。わたしが、わたし自身のなかで生ま
れるのである。

「一たび為されたことは永遠に消え去ることはない。」(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・
G・Aに寄せる』松村達雄訳)「木々は雨が止んでしまっても雨を降らしつづける」(チャールズ・トムリンソン『プロ
メテウス』土岐恒二訳)。「そこでは、光の下で断ち切られたことが続いている」(ヨシフ・ブロツキー『愛』小平 武訳)。
「言葉の力は眠りのうちに成長し」(ヘルダーリン『パンと酒』4、川村二郎訳)、「知らぬ間に 新しい結合を完成す
る。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「自我は一種の潜在力である」(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』
滝田文彦訳)。「断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オ
ーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)「知っていた形ではない。」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ36、
黒丸 尚訳)「もみの樹はひとりでに位置をかえる。」(ジュネ『葬儀』生田耕作訳)「家というのは椅子を一つ少し左に
ずらすだけで、もうそれまでとは違うものになる。」(ホセ・エミリオ・パチェーコ『闇にあるもの』第一幕、安藤哲行
訳)「配列にこそ事物の印象効果はかかっているのである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山
田九朗訳)「いったん形作られたものは、それ自体で独立して存在しはじめる。創造者の望むような、創造者の所有物
ではなくなってしまう。」(フィリップ・K・ディック『名曲永久保存法』仁賀克雄訳)「それを見まもる者は誰なのか?」
(ニコス・ガッツォス『アモルゴス』池沢夏樹訳)「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ。」(ランボー『地獄
の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)「あらゆるところにいて、すべてを知り、すべてを見ている」(ターハル・ベン=ジェ
ルーン『聖なる夜』2、菊地有子訳)。「かれはすべてのものを復活させることができる。」(フィリップ・K・ディック
『死の迷宮』1、飯田隆昭訳)「すべてのものを新たにする」(ヨハネの黙示録二一・五)。

「だれがぼくらを目覚ませたのか」(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)。「だれが光を注いでくれた
のか」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』39、沢崎順之助訳)。「新しい光がわれわれの手をとる。」(ア
ンドレ・デュ・ブーシェ『途上で』小島俊明訳)「内面のまなざしが拡がり(……)世界が生れる」(オクタビオ・パス
『砕けた壺』桑名一博訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「この
表面の下に、いまだ熟さぬ映像がひそんでいる、と」(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』12、黒
丸 尚訳)。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となる」(エペソ人への
手紙五・一三)。「光 それがぼくらを吹きよせてひとつにする」(パウル・ツェラン『白く軽やかに』川村二郎訳)。「光
ならずして何を心が糧にできよう?」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』二冊目・27、野
口幸夫訳)「光こそ事物の根源で、」(プルースト『シャルダンとレンブラント』粟津則雄訳)「ああ、これがあらゆるこ
とのもとだったんだ。」(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)「電光は万物(自然万
有)を繰り統べる。」(ヘラクレイトス断片62、廣川洋一訳)「突如としてそれは落ちてくる。」(ラーゲルクヴィスト『巫
女』山下泰文訳)「待つということが大切だ。」(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)「求めるあまりに、見いだすこと
ができない場合がある」(ヘッセ『シッダルタ』第二部・ゴヴィンダ、手塚富雄訳)。「待つものはすべてを手に入れる。」
(フィリップ・K・ディック『父祖の信仰』浅倉久志訳)「精神の豊富と万象の無限。」(ランボー『飾画』天才、小林
秀雄訳)。

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