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作品 - 20140801_430_7577p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


IN THE DEAD OF NIGHT。──闇の詩学/余白論─序章─

  田中宏輔



どこで夜ははじまるのだろう?
(リルケ『愛に生きる女』生野幸吉訳)

夜は孤独だ
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七七、菊盛英夫訳)

めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)

光を運ぶ者はひとりぼっちになる
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)


 林 和清と、早坂 類と、そして、筆者の三人によって、一九九〇年の秋に創刊された同人雑誌の「Oracle」は、一
九九七年の春に十三号をもって終刊したのだが、途中、出すたびにさまざまな書き手を加えていった。笹原玉子もそ
の一人であり、第三号から参加して、短歌や詩を発表していた。つぎに紹介する作品は、その彼女が上梓した第一歌
集の『南風紀行』から六首を選び、一行置きに、筆者の短い詩句を添え、一九九一年の冬に出した同誌の第四号に、
詩として掲載したものである。


Opuscule


誰が定めたる森の入り口 夜明には天使の着地するところ

睡つてゐるのか。起きてゐるのか……。

教会の天井弓型にくりぬいてフラ・アンジェリコの天使が逃げる

頬にふれてみる。耳にもふれてみる。そつと。やはらかい……。

数式を誰より典雅に解く君が菫の花びらかぞへられない

胸の上におかれた、きみの腕。かるく、つねつて……。

知つてゐた? 夜が明けるといふこんな奇蹟が毎日起こつてゐることを

うすくひらかれたきみの唇。そつと、ふれてみる。やはらかい……。

君のまへで貝の釦をはづすとき渚のほとりにゐるごとしわれ

指でなぞる、Angel の綴り。きみの胸、きみの……。

書物のをはり青き地平は顕れし書かれざる終章をたづさへ

もうやはらかくはない、きみの裸身。やさしく、かんでみる……。


 一九九二年の春に出した同誌の第五号では、同人の林が上梓した第一歌集の『ゆるがるれ』のなかから七首を採り
上げ、それらの歌を通して、林の造形技法について論じた。そのうち、三首をつぎに引用する。


淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり

闇よりくろき革衣着てちはやぶる神戸オリエンタル・ホテルへ

昇降機すみやかに闇下りつつ死してはじめて人は目覚める


 これらを筆者は、「闇の miniatures」と名づけたのであるが、それが、このときの論考に「Bible Black」というタ
イトルをつけた所以ともなっている。
 同人雑誌を最後に出したころに催された同人会の宴の後、三次会になるのか、四次会になるのか、それは定かでは
ないが、夜中の一時はゆうに過ぎていたと思われる。まだまだ帰るのには早過ぎるとでもいうように、林と笹原の二
人が筆者宅に寄り、筆者とともに三人で酒を酌み交わしながら明け方までしゃべりつづけていたことがあったのだが、
そのとき、天狗俳諧もどきのことをしたのである。ちょっとした遊びのつもりで、順々に三人で、上句に中句、中句
に下句をつけて、俳句を詠んだのだが、あまり面白いものとはならなかったので、筆者の提案で、出された句を、各
自で自由に選んで組み合わせることにしたのである。三人が競作をして、それぞれ見せ合ったのであるが、このとき
ほど笑ったことはなかった。まさに、「めちゃくちゃな」といった言葉で形容されるようなものが、つぎつぎと披露さ
れていったのである。それらは、どれもみな、三人の個性が非常によく現われたものとなっていた。筆者がつくった
もののうち、いくつかのものを、つぎに紹介する作品のなかに入れておいた。初出は、ユリイカの一九九八年十二月
号である。


木にのぼるわたし/街路樹の。


ぼく、うしどし。
おれは、いのししで
おれの方が"し"が多いよ。
あらら、ほんとね。
ほかの"えと"では、どうかしら?
たしか、国語辞典の後ろにのってたよね。
調べてみましょ。
ううんと、
ほかの"えと"には、"し"がないわ。
志賀直哉?
偶然かな。
生まれたときのことだけど
はじめて吸い込んだ空気って
一生の間、肺の中にあるんですって。
ごくわずかの量らしいけどね。
もしも、道端に
お父さんやお母さんの顔が落ちてたら
拾って帰る?
パス。
アスパラガス。
「どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ」
「抜け髪の 頭叩きて 誰か知れ」
「フラダンス きれいなわたし 春いづこ」
「ゐらぬ世話 ダム崩壊の オロナイン」
「顔おさへ 買ひ物カゴに 笠地蔵」
「上着脱ぐ 男の乳は みんな叔母」
「南下する ホームルームは 錦鯉」
これが俳句だと
だれが言ってくれるかしら?
〈KANASHIIWA〉と打つと
〈悲しい和〉と変換される。
トホホ。
それでも、毎朝、奴隷が起こしてくれる。
まだ、お父様なのに。
間違えちゃったかな。
ダンボール箱。
裸の母は、棚の上にいっしょに並んだ植木鉢である。
魔除けである。
通説である。
で、きみは
4月4日生まれってのが、ヤなの?
オカマの日だからって?
だれも気にしないんじゃない?
きみの誕生日なんて。
それより、まだ濡れてるよ。
この靴下。
だけど、はかなくちゃ。
はいてかなくちゃ。
これしかないんだも〜ん。
トホホ。
いったい、いつ
ぼくは滅びたらいいんだろう。
バーガーショップ主催の交霊術の会は盛況だった。


つぎに、筆者にとって、ポエジーの源泉となるほどに魅了された俳句や短歌を、系統別に分類する。


気の狂つた馬になりたい枯野だつた                             (渡辺白泉)

菫程の小さき人に生れたし                                 (夏目漱石)

馬ほどの蟋蟀となり鳴きつのる                               (三橋鷹女)

一枚の落葉となりて昏睡(こんすい)す                                 (野見山朱鳥)


 他のものになりたい、いまの自分ではいられない、という強い気持ちが、他のものに生まれ変わりたいというここ
ろからの願いが、言葉となって迸り出てきたものであろうか。引用した句のなかでは、とりわけ、はじめの三句にお
いて、その句を作っていたときに、作者たちの心境がかなり危ういところにあったものと推測される。


蟻地獄松風を聞くばかりなり                                (高野素十)

団栗(どんぐり)の己が落葉に埋れけり                                 (渡辺水巴)

木を割(さ)くや木にはらわたといふはなき                             (日野草城)

機関銃天ニ群ガリ相対ス                                  (西東三鬼)


 正確にいえば、すべての句が擬人法に分類できるものではないのかもしれないが、自己の心情を事物に仮託して語
らしめているところは、同様の手法である。


牛(うし)馬(うま)が若し笑ふものであつたなら生かしおくべきでないかもしれぬ              (前川佐美雄)

さんぼんの足があつたらどんなふうに歩くものかといつも思ふなり              (前川佐美雄)

考えがまたもたもたとして来しを椅子の上から犬が見ている                  (高安国世)


 これらの三首には、教えられるところが多かった。短歌では、思考方法をより応用発展させられるようなものが、
わたしの好みである。つぎの三首もまた、同様の傾向のものである。


憂鬱の鳥が頭上にあらはれてふたりの肌のにほひをかへる                    (林 和清)

言霊の子は森といふ文字バラバラにひきはなしたりもどしたり                 (笹原玉子)

冬日和 病院にゐて犬がゐて海もそこまで来てゐるらしい                  (魚村晋太郎)


 林の歌からは、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」といった言い回しを思いついたのだ
が、イメージ・シンボル辞典を引くと、「飛び立とうとしている鳥、または翔んでいる鳥は魂の実体化したもの。」とあ
る。休日には、よく賀茂川の河川敷にあるベンチの上に坐って、鳥たちが空を飛んでいる姿を目で追っていたり、川
のなかで餌をあさっている様子を見つめていたりして、ぼうっとしていることが多いのだが、サバトの『英雄たちと
墓』の第III部・37に、「魂は鳥のように遠くの地に飛ぶことができるとは考えられないものだろうか?」(安藤哲行訳)
とある。後で、原 民喜のところで述べることの先取りになると思われるが、「鳥が来ては、わたしの魂を、他のだれ
かの魂と取り換える。」という言い回しを、「孤独な魂が、わたしの魂を、他のだれかの魂と取り換える。」とすると、
ますます、わたし好みのものになる。

 笹原の歌からは、「巧妙な組みあわせがよく知られた語を新鮮なものにする」(ホラーティウス『詩論』岡 道男訳)。
「詩句とは幾つかの単語から作った(……)国語の中にそれまで存在しなかった新しい一つの語である。」
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)「たえず脳漿(のうしよう)に憑(つ)きまとう無数の抒情的なとりつき易い言葉と
美辞麗句をしりぞけ」(マラルメの書簡、アンリ・カザリス宛、一八六四年一月付、松室三郎訳)、「われわれの先輩
たちが(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)(……)すでに秩序を与へて呉れてゐるところの結合を(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)、
さらに新奇に結合し直すことである(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。」(ポオの『ロングフェロウ論』
より、阿部知二の『ColeridgeとPoe』からの孫引き)「作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外れの
ものである。無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合せを作ること、これこそが創造するということなのである。
発見とは、識別であり選択である。」(E・T・ベル『数学をつくった人びとIII』28、田中 勇・銀林 浩訳)「新しい関
係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「一つの言語を創り出すこと」(マラルメの書簡、
アンリ・カザリス宛、一八六四年十月付、松室三郎訳)。「言語の絶えまなき再創造(つくりなおし)」(C・デイ・ルイス『詩を読む若
き人々のために』I、深瀬基寛訳)。「再創造する力のない思考は、かわりに因習的などうでもよいイメージを持ってく
ることを余儀なくされている」(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、鈴木道彦訳)。「卑猥と
さえ思えることも、思考の新しい脈(みやく)絡(らく)で語られると、輝かしいものとなる。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「なすべ
きことはひとつしかない。自分を作り直すことだ。」(ヴァレリー『邪念その他』P、清水 徹訳)「生まれるとは、前と
は違ったものになること」(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)といった言葉が思い出されたのだが、
それは、結局のところ、語の選択や、語と語の結合といったものが、そして、その配置や全体の構成といったものが、
文学作品のすべてであるということを、改めて、わたしに思い起こさせるものであった。

 魚村の歌には、目を瞠らされた。自分のほかには、だれもいない病院の玄関先で、これまた吼えもしない、おとな
しい犬を眺めながら、ぼうっとしているような冬日和の静かな街角。その街角の風景のなかで、海だけが動いている。
これまた静かに、ひたひたと破滅の音階を携えながら、といった映像が思い浮かんだ。山が動く、森が動いてくると
いうのは、聖書やシェイクスピアにもあった。海が近づいてくるというイメージは新鮮であった。また、この海が近
づいてくるというイメージは、冬日和の静かな街角の風景そのものが、しだいに海のなかに滑り落ちていくという映
像をも思い浮かばせてくれた。この二つの映像は、作品を読むときばかりではなく、作品をつくるときのイメージ操
作の訓練にも役に立つと思った。逆の視点から見ること。相反する向きから眺めること。それを空間的なものに限る
必要はない。時間的なものにも応用できる。

 以上、引用してきた俳句や短歌には、すべて、「ポウが詩のもっとも大切な要素としてかんがえたあの不意打ち」(エ
リオット『アンドルー・マーヴェル』永川玲二訳)があり、それは、「予期に反して」(アリストテレース『詩学』第九
章、松本仁助・岡 道男訳)、「わたしを驚かせ」(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくのさまざまな逃亡につ
いて、秋山和夫訳)、「私の目を私の心の底に向けさせる」(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、大山俊一
訳)ものであった。ただ、これらのうち、多くの「作品が驚かせることに気をつかいすぎることはたしかである」(ボ
ルヘス『伝奇集』ハーバート・クエインの作品の検討、篠田一士訳)が、しかし、驚きこそ、関心を惹かせる最たるも
のである。それにまた、「思考にとって、予想外ほど実り豊かなものがあろうか。」(ヴァレリー『己れを語る』頭脳独
奏用協奏曲、佐藤正彰訳)。

 ところで、子供というものは、何にでも驚くものである。「愚鈍な人間は、どんな話を聞いても、よくびっくりする
ものだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』八七、田中美知太郎訳)というが、子供が驚くのは不思議でも何でもない。知ら
ないからである。成長するにつれて、驚くことが少なくなっていく。知っているつもりになるからである。子供はま
た、よく怖がるものである。とりわけ、闇を怖がる。少なくとも、わたしはそうであったし、いまでも、そうである。
いまだに電灯を点けたままでないと眠れないのである。子供のころ、母親がわたしの部屋の電灯を消して、部屋から
出て行った後、布団を被らなければ眠れなかったのである。同じ暗闇でも、布団さえ被れば安心だと思っていたから
である。何ものかの気配を感じて眠れなかったのである。いまでも電灯を消してしまうと眠ることができないのは、
何ものかの気配を感じてしまうからである。ふつう、大人になると、自分の部屋のなかの闇を怖がったりはしないも
のだと思われるのだが、それは、そこに何ものかがいることを感じることができないからであろう。子供のころのわ
たしが、闇そのものの怖さを感じていたのかどうかは、いまとなっては思い出すことができないのだが、闇のなかに
潜む何ものかの気配を感じて怖がっていたことだけは、たしかに憶えている。

 わたしが詩を書きはじめたころ、だいたい一九九〇年ごろのことで、ずいぶん以前のことだが、真昼間にドッペル
ゲンガーを見て、部屋のなかにいた何者かの正体が、もう一人のわたしであることがわかって、闇のなかに潜んでい
たのが自分自身であることに気がついてから、少しは闇に対する恐怖心も薄れたのだが、それでも、いまだに電灯を
点けたまま眠っているのである。というのも、たとえ、それが自分自身とはいっても、やはり怖いからである。それ
に、それがほんとうに自分自身であったのかどうか、確実なことはいえないからである。わたしに擬態した何ものか
であった可能性もあるからである。と、こういったことが、橋 〓石の「日の沈むまで一本の冬木なり」という俳句に
出会ったときに思い出されたのだが、ドッペルゲンガーを見たのは、ただ一度きりのことであり、二度とふたたび出
てくることはなかった。もう一度くらい自分自身と顔を見合わせる機会があってもよいのではないかと思われるので
あるが、じっさいに出てくると、やはり驚くことになるのであろう。これまでわたしが引用してきた俳句や短歌の作
者たちも、わたしと似たような感覚の持ち主なのではないだろうか。

 つぎに、原 民喜の作品から引用する。出典は、『冬日記』、『動物園』、『夕凪』、『潮干狩』、『火の子供』の順である。
彼もまた、わたしと同じような感覚を持っていたのではないだろうか。彼の小説はすべて、散文詩のような趣がある。


 ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしてゐたが、枯木にゐる鳥
はゆっくりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる。その落着はらった動作は見てゐるうちに羨
しくなるのであった。かういふ静かな時刻といふのも、あるにはあったのか。彼はその孤独な鳥の姿がしみじみと
眼に沁みるのだった。

 去年、私ははじめて上野の科学博物館を見物したが、あそこの二階に陳列してある剥製の動物にも私は感心した。
玻璃戸越しに眺める、死んだ動物の姿は剥製だから眼球はガラスか何かだらうが、凡そ何といふ優しいもの静かな
表情をしてゐるのだらう、ほのぼのとして、生きとし生けるものが懐かしくなるのであった。

 肉はじりじりと金網の上で微かな音を立てた。胃から血を吐いて三日苦しんで死んだ、彼女の夫の記憶が、あの
時の物凄い光景が、今も視凝めてゐる箸のさきの、灰の上に灰のやうに静かに蹲(うづくま)ってゐる。

 濃い緑の松が重なり合ってゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであった。

僕は歩きながら自分の靴音が静かに整ってゐるのを感じる。

 まるで鏡のなかの自分自身をじっと見つめるように、民喜は、枯木の枝にとまる鳥を眺め、科学博物館に陳列され
ている剥製の動物に目をとめ、箸のさきにある灰や、濃い緑の松を見ているような気がする。ガラスの眼がはまった
剥製の動物の表情や、金網の上で焼ける肉の音も、松の木の枝葉の揺れや、静かに整って聞こえる自分の足の靴音で
さえも、自分自身のように感じていたのではないかと思われるほどである。すさまじい同化能力である。また、「ゆっ
くりと孤独を娯しんでゐるやうに枝から枝へと移り歩いてゐる」「枯木にゐる鳥」「の落着はらった動作」を「羨しく」
思う民喜であるが、彼はまた、『沙漠の花』のなかに、「私には四、五人の読者があればいいと考へてゐる。」とも書い
ており、その言葉だけからでも、彼がいかに孤独であったか、窺い知ることができよう。「孤独の実践が、孤独への愛
を彼に与えた」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇・花咲く乙女たちのかげに、鈴木道彦訳)のかどうか、そ
れはわからないが、じっさい、彼は孤独であったと思われる。そうでなければ、「わたしの吐く息の一つ一つがわたし
に別れを告げてゐるのがわかる。」(『鎮魂歌』)といった言葉など書くことはできなかったであろう。「詩人は同時代人
たちのさなかにあって、真理と彼にそなわる芸術とのゆえに孤独な境遇にある」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)。
レイナルド・アレナスの『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行訳)のなかに引用されている、ポール=マルグリ
ットの『魔法の鏡』に、「わたしの孤独には千の存在が住んでいる」といった言葉があるが、孤独になればなるほど、
同化能力が高くなるのであろうか。それとも、同化能力が高まるにつれて、ますます孤独になっていくのであろうか。
ローマ人の手紙五・二〇に、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」とある。

 ここで、「私は彼の孤独を一つの深淵に比したいと思う。」(トーマス・マン『ファウスト博士』一、関 泰祐・関 楠
生訳)、「人間は自己自身を見渡すことができない。」(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)、「蟋蟀(こほろぎ)が深き地
中を覗(のぞ)き込(こ)む」(山口誓子)ようにして、「自分自身のなぞのうえにかがみこむ」(モーリヤック『テレーズ・デスケイル
ゥ』五、杉 捷夫訳)ことしかできないのである。しかも、そこでは、つねに、「幾つもの視線が見張っていた。」(ガ
デンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』11、菅野昭正訳)「彼は、転べば、自分自身に出会う。彼は、自分に(ヽヽヽ)ぶつかる。」(ヴ
ァレリー『倫理的考察』川口 篤訳)「そこでは、唯一人(ヽヽヽ)の者が多数のものになる」(エリク・リンドグレン『鏡をめぐ
らした部屋にて』中川 敏訳)、「「単一」が「多様」に移行する場だ。」(エマソン『詩人』坂本雅之訳)「思うがままに
形を変えるプロテウスは、何者にでもなりうるから実は何者でもない。」(モーリヤック『小説家と作中人物』川口 篤
訳)「自分の中にひとりでいるということは、もうだれでもないことだ。わたしは大勢になっているのだ。」(ジイド『地
の糧』第八の書、岡部正孝訳)。

 しかし、「人間は、そもそも深淵を真下に見て立っているのではないか。見るということ自体が──深淵を見るとい
うことではないか。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)「なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵
もまたなんじを見入るのである。」(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一四六、竹山道雄訳)。そこでは、「夜がかれを見
つめている。」(レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』第三部、宇野利泰訳)「自分の内部を見張ってい」(ボリス・ヴィ
アン『心臓抜き』II・18、滝田文彦訳)るのである。「すべてこれらのものがどこからやって来たのか、またいかにし
て無の代わりに世界が存在することになったのか」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「魂はその存在の秘奥の叢林を分
けて、層また層と、至りつくすべはないが、しかもたえず予感されている暗黒への道を降って行く。そこから自我が生
まれそこへ自我が回帰する、自我の生成と消滅をつかさどる暗黒の領土、魂の入り口と出口、しかしそれはまた同時に、
魂にとって真実な一切のもの、小暗い影の中に道を示す金色の枝によって魂にあかされた一切のものの入り口であり出
口である。金色にかがやくこの真実の枝は、いかに力をつくしても見いだすことも折りとることもできないが、それと
いうのも発見にまつわる天恵は下降にあたってさずけられるそれと同じ、自己認識の天恵なのだから、共通の真実とし
て、共通の自己認識として魂にも芸術にもそなわっている、あの自己認識の。」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第II
部、川村二郎訳)「成る程さうだ! 僕等の一切は深淵だ、──行為も、意欲も、/夢想も、言葉も!」(ボードレール
『深淵』堀口大學訳)「すべての事実は、世界が人間の魂のなかに移り住み、そこで変化をこうむって、向上した新し
い事実となり、ふたたび現れてくることの象徴だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「世界という世界が豊穣な虚空の
中に作られるのだ。」(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)。

 わたしが、彼らに魅かれるのは、「わたし以上にわたし自身だ」(エミリ・ブロンテ『嵐が丘』第九章、鈴木幸夫訳)
と思われるところがあるからであるが、そういった人々は、「自分ではそれと気づかないで」(クリスティ『アクロイ
ド殺人事件』23、中村能三訳)、「自分で自分の翼をもぎ取ってしまう」(ジイド『狭き門』村上菊一郎訳)のである。
「敏感で繊細な気質のひとはいつもそうなのである。こういうひとの強烈な情熱は傷を与えるか屈服するかのどちらか
にきまっている。本人を殺すか、さもなければみずから死に絶えるかのどちらかなのである。」(ワイルド『ドリアン・
グレイの画像』第十八章、西村孝次訳)。まるで『イソップ寓話集』のなかに出てくる、自分の羽で殺される鷲のよう
なものである。「自意識という病気を病んでしまっているこういった青年たちは、一瞬たりとも自分自身へ向けた関心
をよそへそらすことができない」(モーリヤック『夜の終り』VIII、牛場暁夫訳)。「なにを見てもいつも自分自身へ戻っ
てしまうのだ。」(ノヴァーリス『サイスの弟子たち』一、今泉文子訳)。

 俳句や短歌を系統別に分類したところで引用するつもりであったのだが、西東三鬼の「鶯にくつくつ笑ふ泉あり」
という句に出会ったとき、これは単なる「感傷的誤謬(ごびゆう)(自然物に人間の主観や感情を投射すること)」(ロバート・シル
ヴァーバーグ『時間線を遡って』40、中村保男訳)などといったものではなく、三鬼にあっては、すべてのものが、
このような様相をもって彼に対峙していたように思われたのである。逆に見れば、三鬼という人間が、「すべての存在
をただ自分ひとりのために変形するように見える精神を持ち、提出されるすべてのものに働きかける(ヽヽヽヽヽ)ところの、一人の
人間」(ヴァレリー『テスト氏』テスト氏との一夜、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)であったということであろうか。

 民喜もまた、そのような人間の一人であったに違いない。これを病的といえば、語弊は免れないかもしれないが、
「病的なものからは病的なものしか生れ得ないということ」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠
生訳)はなく、そういったものが、「健康な感覚を持っているために全然とらえることができず、理解しようとも思わ
ない」(トーマス・マン『ファウスト博士』二五、関 泰祐・関 楠生訳)ことを、わたしたちに教えることもあるであ
ろう。それが、わたしたちにとって、新鮮な感覚や印象を持たせられるものであり、しかも、わたしたちのためにな
るものでもあるということも大いにあり得ることなのである。もちろん、わたしは、健康的なものからは何も得ると
ころがない、などと言っているわけではない。正統的なものと異端的なものとが互いに分かち難く結びついているよ
うに、健康的なものと病的なものもまた、互いに分かち難く結びついているのである。よく、「意識のなかに二つもし
くは数個の考えが同時に存在すること」(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)があるが、わたした
ちの精神は、それらの間を、始終、往還しているのである。それというのも、「同じものでありながら、いつも快いも
のは何ひとつ存在しない」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)からであって、「そ
れは、われわれの本性が単一ではなく、われわれが可滅なものであるかぎり、或る異なる要素も含まれているからであ
る」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第七巻・第十四章、加藤信朗訳)が、それゆえにこそ、文学には、「前とは
違った眼で眺める」(エリオット『イェイツ』高松雄一訳)ことのできるものが求められているのであろう。

 文学で求められていることは、ただ一つ、「ものごとを新しい観点から見る」(ロバート・J・ソウヤー『ターミナル・
エクスペリメント』31、内田昌之訳)ことのできる「新しい連結をさがすことだけだ。」(ロバート・J・ソウヤー『タ
ーミナル・エクスペリメント』31、内田昌之訳)。カミュの『手帖』の第四部に、「小説。美しい存在。そして、それ
はすべてを許させる。」(高畠正明訳)とある。詩もまた、美しい存在である。詩もまた、「すべてのことは許されてい
る。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(コリント人への第一の手紙一〇・二三)。では、俳句や短歌と
いった定型詩においては、どうであろうか。すべてのことが許されているわけではない。形式というものがある。そ
れに縛られている。しかし、「形式が束縛をあたえるから、観念はいっそう強度のものとなってほとばしり出るので」
(ボードレールの書簡、アルマン・フレース宛、一八六〇年二月十八日付、阿部良雄訳)ある。もちろん、形式といっ
たものが作品のすべてではない。しかし、「人間の注意力は、限界を設けられれば設けられるだけ、また、自らその観
察の場を限られれば限られるだけ、いっそう強烈になるもの」(ボードレール『一八四六年のサロン』一二、阿部良雄
訳)である。「最大の自由が最大の厳密さから生まれる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)
所以である。しかし、よく注意しなければならない。こころにも、慣性のようなものがあるのだ。「聞こえもせず見え
もしないものが後ろにある。」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「暗闇は単に人間の目の
なかにあって見ていると思っているが見えてはいない。」(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』12、小尾芙佐訳)
「新しい刺戟がもう入ってきているのに、脳は古い刺戟によって働きつづける」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マ
ン』第二部・V、友枝康子訳)。「意識的に受け入れたわけでもないつながりを、自分自身の中にもってるから」(フエ
ンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)、「暗闇が(……)彼の視線を(……)移させる力をもっている。」(ジェイムズ・
ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)「無意識の世界にあるものが、意識の世界に洩れ出してくる
のだ。」(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)「闇の世界には、おのずからなる秩
序があるのである。」(ハーラン・エリスン『バシリスク』深田真理子訳)「単純な無ではない。むしろ、力と場と面の
はかり知れない相互作用である」(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳)。「虚無に
よって分割された原子が/知らぬ間に 新しい結合を完成する。」(トム・ガン『虚無の否定』中川 敏訳)「虚無のなか
に確固たる存在がある」(アーシュラ・K・ル・グィン『アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』
からの抜粋』安野 玲訳)のである。

 マラルメの『詩の危機』に、「中くらいの長さをもった語が眼にとって理解可能な範囲で、線の形に最終的に並べら
れる。それと一緒に、語の間や各行の前後にある余白の沈黙も並べられる。」(南條彰宏訳)とある。いま、長さについ
ては云々しない。また、竹内信夫の『マラルメ─「読むこと」への誘い』(「ユリイカ」一九七九年十一月号)に、「語
のひとつひとつよりも、語と語を結ぶ空白、更には頁全体を大きく包みこむ空白がより意味深いのである。それは、何
ものをも指示しないが故に、最も多くの可能性にとんだ記号となることができる。」とある。「何ものをも指示しない」
といったことはないと思うのだが、そのことについては、後で述べる。

 ところで、詩はもちろんのこと、俳句や短歌においてもまた、余白といったものが、その文字の書かれていない空
白の部分が、いかに重要なものであるのかは、作者だけではなく、読み手の方もよく知っていることであると思われ
るのであるが、作品によっては、文字によって余白が書かれているような印象を与えるものもある。この沈黙ともい
うべき空白は、読み手の記憶に大いに作用するのである。プルーストの「晦渋性(暗闇)によって光を作り、沈黙に
よってフルートを奏している。」(『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)といった言葉が思い起こされる。余白は、また、記憶
だけではなく、読み手がいま現に見ているもの、聞いているもの、触れているものなどにも作用するのである。作用
があれば、当然、反作用もある。読み手の記憶や感覚器官が知るところのものによって、この沈黙ともいうべき空白
も、影響を受ける。余白が大きければ大きいほど、読み手の心象が揺さぶられ、印象の充溢さを増す、といったこと
はないのだが、余白の効果は絶大である。「主観的な余白が重要なのだ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶
訳)。したがって、凡庸な作品でも、余白の視覚的な効果を十分に配慮すれば、読み手によっては刺激的なものになり
得るのである。凡作であっても、俳句や短歌がある特別な印象を与えるのは、余白とリズムによるところが大きい。
詩においても、余白の視覚的な効果をねらってつくられたものもあるが、一瞥すれば、それが凡作かどうかは、すぐ
にわかる。凡作においては、余白は、単なる空白であって、何もないのである。何も詰まっていないのである。沈黙
でさえ、そこには存在していないのである。

 ブロッホの『ウェルギリウスの死』の第III部に、「詩は薄明から生まれる」(川村二郎訳)とある。わたしには、「詩
は薄明そのもの」のように思われる。薄明は、暗闇から生まれるものである。薄明は、暗闇があってこそ、はじめて
存在できるものである。余白とは、闇である。余白のなかには、魂がうようよ蠢いているのである。生きているもの
の魂も、死んだものの魂も、余白のなかに蠢き潜んでいるのである。薄明のうすぼんやりとした明かりのなかで、た
だそれらが存在していることだけが感じられるのである。しかし、目を凝らしさえすれば、夥しい数の魂たちが、そ
の姿をくっきりと現わすのである。「何ものをも指示しない」わけではない。それどころか、はっきりと指し示すので
ある。わたしたちが目を凝らしさえすれば。それというのも、薄明があったればこそのことなのである。たとえ、そ
れがうすぼんやりとした薄明かりであっても。というよりも、それがうすぼんやりとした薄明かりであったればこそ
なのである。なぜなら、うすぼんやりとした薄明かりでなければ、わたしたちが目を凝らすことなどないはずだから
である。

「闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか」(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)。「光
と闇は宿敵ではなくて、/いったいの伴侶だ。」(ディラン・トマス『骨付き肉』松田幸雄訳)「白にはかならず黒がつ
く。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「光を見るにはなんらかの闇がなくてはならない。」(ソーニャ・ド
ーマン『ぼくがミス・ダウであったとき』大谷圭二訳)「いかなる物体も明暗なくしては把(は)握(あく)されない。」(『レオナルド・
ダ・ヴィンチの手記』科学論、杉浦明平訳)「光はついに影によって解釈されねばならない」(稲垣足穂『宝石を見詰め
る女』)。「光と色と影とがたくみに配分されるとはじめて、それまで隠されていた見事な様相が目に見える世界に顕わ
れ、そこで新たな開眼にいたるものである」(ノヴァーリス『青い花』第一部・第二章、青山隆夫訳)。


 意味の明瞭なものには、あまり目を見開かされることはない。強い光のもとで、目を見開くことがほとんどないよ
うに。もちろん、意味の明瞭なもののなかにも、見るべき作品はあるのだが、ほとんどのものが通俗的で、その主題
も、すでに知っている作品のなかで取り扱われているものばかりである。結局のところ、わたしたちは、たとえ難解
な作品であっても、それがすぐれたものであれば、たちまち目を凝らして見るものであって、たとえそれが言わんと
しているところの意味が明瞭なものであっても、凡作であれば、ちらとも目を向けようともしないものなのである。
それゆえ、作者といったものはみな、「凡庸なものは一切容赦しない」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川
村二郎訳)覚悟で、作品の制作にあたらなければならないのである。そして、それだけが、作者というものに課せら
れた、唯一、ただ一つの義務なのである。

文学極道

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