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作品 - 20140623_437_7500p

  • [佳]   - 草野大悟  (2014-06)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  草野大悟

ノアール以外は何もない。風も吹かない。山は音という音を忘れている。
「マリンスノウみたいだね」
「そうだね、マリンスノウみたいだ」
「雪の匂いがするよ」
「そうだね、雪の匂いがするね」
「これからどこへ行くの」
「どこへ行こうか?」
「あなたが決めて」
「それでいいの?」
「ええ」
「そう、いいんだね」
 シュラフの中で裸で抱き合いながら二人は互いの影を見つめた。
「ブランはどこ?」
「ブラン?」
「そう、ブラン」
「さあ、僕にも分からない」
「探しに行こう」
「ブランを?」
「ええ」
「今から?」
「ええ」
 ノワールに沈んだ二人が、ブランを見つけ出すことなど限りなく不可能。そんなことは分かっているんだ。言われなくても、分かっている。
 もう夜も遅い。それに、私たちは裸だ。シュラフにくるまれたまま歩け、というのか。無理な相談だ。私たちはなにも好きこのんでここでこうしてシュラフに包まれているわけではない。目が覚めたら、いつのまにか裸で抱き合っていた。
「ねえ……」
「ん?」
「赤や青や緑もいるかな?」
「そりゃあいるだろうよ。黄や赤紫や空色だっているかもしれない」
「かもしれない、なんて、ずいぶんいい加減だね」
「そう、いい加減だね」
色のない世界は、音を包み込み、溶かしさる。溶かされた音は、行き場を失い、ただ曖昧な笑いを浮かべている。
 私たちのまわりの多くの影が、このようにして実態を失っていった。裸で抱き合う相手は、風しかいない、と私たちのまわりの多くの影は知っているのに、だ。
 それは、たぶん、夢という劇薬のせいだろう。多くの場合、夢は叶わない。努力という観念も成就することはないし、流された涙や汗が実を結ぶこともない。
 生きてゆくということはそういうことだ。
叶わない、結ばないことを前提として歩むことだ。
 人生に絶望しました。そう言って、あるいは言わなくても自死する人がいる。幸せだ、と思う。
「自殺する人が幸せ? なんでそう思うの?」「なんでだろうね」
「ね、行こうよ」
「どこに?」
「だから、さっき言ったとこ」
「だから、どこ?」
「いやぁね、もう忘れたの」
「ああ、多分、そうかもしれない」
 シュラフの外には、いろんな色や音が溢れてキラキラ輝いてる。そんなお伽噺を信じている人たちは、みんな鯨を愛している。
 鯨は、それ自体が一つの大きなシュラフで、銀河系を幾つも包み込む包容力を保持している。だから、そこでは、色彩や音や匂いといった自己を主張する現象は必要とされない。
おそらく。
 シュラフの中には、半月や土星の輪や木星の惑星や火星の悲鳴があったはずだ。それから、今は抹殺された冥王星も。……あった。
「ねえ」
「ん?」
「ねえ」
「ん?」
「あのね、……、これ誰にも言っちゃだめだよ。い〜い、分かった?」
「うん、誰にも言わない」
「約束する? 絶対?」
「約束する。絶対」
「あのね、私ね、私の頭ね、左後ろペッタンコなんだよ」
「は?」
「だから、ペッタンコ」
「胸?」
「ばか‼」
 ふたりの言葉だけが行き交う空間。空気の存在。酸素だけでは生息できない。必要悪という媚薬も多くの人や多くの影は、あっ、それに多くの骨たちも、必要としている。
 多分、マンガンノジュールが海底深く沈積し、メタンハイドレイトがさして注目もされずにくすぶっていた現実とはそういうことなのだろう。
「あのさぁ」
「な〜に」
「きみは、圧倒的にブランだよね」
「え? な〜に、それ」
「だから、きみはシロ」
「唐突過ぎて理解不能です」
「そう、唐突過ぎるよね」
「うん」
 何も聞こえないということは、全てが聞こえるということだ。何も見えないということは、全てが知覚できると言うことだ。そういうことだ。耳や目や鼻や舌の宇宙は、それらを喪失した所から始まる。
 淫雨。
 これだけは確かなようだ。
 そう言えばこの時期、紫陽花が咲いていた。
心を紫陽花に例えてうたった詩人もいた。腺病質のその詩人に、きみが魅せられたことは
当然のことだ。きみは淫雨を扱いかねて、いつも戸惑い顔をしていた。ぼくは、そんなきみをずっと見つめていた。ただ、見つめ続けていた。
「困るよね。なんにもないなんて」
「そう、困るね」
「ものっすごく困るよね」
「うん、ものっすごく困る」
「ねえ」
「ん?」
「緑のヤツ、もう起きだしたかな?」
「う〜ん、どうだろう。赤は起きてるかも」
 色に就寝時間があり、起床時間があることを二人が知ったのは、つい最近のことだ。森という名の世界にいるオゾンが教えてくれた。
 色は音に似ている。そう誰かが言っていた。
誰だったか思い出せない。私だったのかもしれない。音は色だ。色は音だ。ノワールとブランみたいに。
 朝や昼や夜が、それぞれの名で呼ばれる瞬間、夢という幻が実像となって見える。上弦の月がそう断言した。嘘つけ。見えるくらいならもうそれは、絵画となっていなければならない。有史以来、誰一人、夢の実像を描いた者はいない。描こうとした者は、その者自体が夢になっている。
「もうそろそろ行こうか?」
「うん、行こう」
「服を着なくちゃだめだよ」
「えー、着るの−」
「そうだよ。もちろん」
「なーんか、うざったい」
「それは分かるけど、とにかく着ようよ」
「私、このままがいいんだけどな」
「僕は、このままのきみがいいんだけど、だけどね、人の目っていうのがあるじゃない」
「人の目? 目? って?」
「だから目だよ。目。人の目」
「私も人だよ」
「うーん、そうだけど、そうだけど」
「だけど、なんなの」
「そうだけど、人という他人の目」
「あーあ、他人ね。他人の目ね」
「そう、他人の目」
 他人の目には棘が潜んでいる。それが刺さる。刺さった棘が、体中を廻っているうちに、赤色を産むこともある。涙さえ流せぬうちに。
 恋人を抱えて空を飛んでいたあの絵描きは、今も相変わらず下手くそのままか? 下手を極め続けているのか? そいつはとっくの昔に消滅している。消滅に無関心でいられることは、ある意味幸せであり、ある意味不幸だ。 私たちは、そいつと同じくらい、おそらく人並みに不幸だ。何が? 不幸色という色を知っている。無限に変化する淫雨だ。
「グリに映っている五人の少女にヒントがあるのよ、きっと」
「そうだ! それだ! 五人の少女だ!」
「ほら、こちらを向いているのは四つの目。他は、下や右や左を見ている!」
「四つの目だ。確かに。こっちを見ている目は四つだ。他の六つのことは考えなくていい」 四つの目が探しているものと、私たちが探すものが同じだということに、なんで気づかなかったんだろう。今頃になって。
確かに探すものは同じだ。一言で言うなら色彩。しかし、根本的に異なることがある。それは、探しているものが重なったときに始めて明らかになる。
 明らかになるものを怖れてはいけない。大多数の人が恐怖に襲われて、せっかく手の中に入ったそれを落としてしまう。
 怖れないことだ。怖れを友にすることだ。凍り付くような友を持つことだ。大切なことは、そのことに尽きる。それ以外のことは、おそらくは、枝葉末節だ。枝葉末節を好むならそうすればいい。しかし、掌に入ってものを投げつけることだけは、忘れないで。
 さあ、私たちはここを出よう。心地の良いシュラフの暖かさと裸の心地よさを捨てて。 葉風は、いつだって私たちみんなの、みんなの産まれた頃を包むように、思い出させる。
やはり、私たちは、緑の記憶から逃れることはできない。また、逃れる気もない。
 葉風は、私たちのコア。原点。マンガンノジュール。私たち自身。Weg Nach Innen。内面の自分。自分への道。
 よく、しばしば、合う度に、行ったよね。
抱き合った。墓地の桜の老木の下。裸になって。すぐ後ろには多くの骨たちが埋められていた、と今になって理解した。
 君の肉体はとても輝いていた。白く。
 あなたの体は美しかった。どの墓石よりも。 やっぱり、桜の木の下には屍が眠っているわ。
 きみの言の葉。
「そう、梶尾みたいにね。僕らは、それを感じる。それに触れる。基次郎みたいにね」
「基次郎って、だーれ?」
「梶尾だよ。梶尾基次郎」
「何屋さん、その人?」
「うーん……」
「ね、何屋さんなの?」
「うーん…檸檬かな、檸檬屋さんだ、きっと」「なーに、それ。それって全然分かんない」
「いいんだよ。いいんだ。僕と一緒になればすぐ分かるようになるよ」
「いやだ。一緒になんかならない。あなたなんかと」
「そのとおりだよ。君と僕とは、一緒にはなれない。というより一緒になることが許されない」
「ねえ、じゃどうしてこんなシュラフに裸でふたりで包まってるの? ね、どうして?」
「うーん、必然かな? 必然という幻」
「そうかぁ、そうかも。だって、私は、あなたのこととても嫌いだったわ。初めて会ったころから」
「そう、嫌いだった、俺のこと」
「そう、嫌いだった。あなたはノミみたいに縮こまってみえたもの」
「ノミ? ノミねぇ」
「そ、ノミ」  
赤が歩き始めた。
 青も。
 緑も歩いている。
 どこへ行くのかは、あえて問うまい。
 彼らは、彼らの中の声のままに、声に従って歩く。その声は、私たちには聞こえない。
 聞こうとも思わない。
 耳に馴染みすぎた声。
あっ。星が流れた。
 大きな黄と赤紫が抱き合ってる。空色が、ぽつん、という音たてて佇んでる。寂しそう、空色。
 空色は、いつだって、どんな時代だって寂しい。そう決まっている。それが、空色の空色たる所以だ。それは、ひとつの定理だ。君やあなたが納得しようがしまいが、それは、定理なのです。
 光がいない、ということは、予想以上に遙かに厳しく、影までいないということは、もう、ほとんど、絶望色一色に塗りたくられている現実。蛍が道を辿っている。
朧月は、ふたりの言葉。
 眞実は、ふたつある。
 ひとつは、君の眞実。
 ひとつは、私の眞実。
 ふたつの眞実がひとつになったときに、産まれる。
 産まれるものの何かを、今は知らない。知らないことが、時として最上の解決策だったり、する。
「ねぇ」
「ん?」
「ノワールだね」
「そうだね。まったくのノワールだ」
「それもいいよね」
「うん。いい」
「ねぇ」
「ん?」
「私たちが歩いている所は、地面? 床?
それとも今まで歩いたことのないナニカ?」「さぁ」
「分からないってこと?」
「そうじゃなくて…、表現する言葉を持たない」
「なに、それ? 言葉なんてそこいらへんにいっぱい転がってるじゃない」
「確かに転がってるね」
「それでもダメ?」
「残念だけど」
「そーお。じゃ、言葉なんか捨てちゃえば?それならどーお?」
「あ、いいかも」
 言葉は、言葉であるが故に限界を内包している。まずは、一つの国という概念で。次に肌の色の違いで。さらには、星という現実。
あまたの銀河系。その相似形。と全く異質な惑星群。
 言葉は、それぞれの、ごく限られたエリアでしか、その機能を発揮し得ない。残念ながら。いや、それが宿命。
 色や音は、エリアを越える。越えた先に何があるのか、などという疑問が涌き上がる前に、越える。越えて、越えて、越え尽くしたところに、言葉が待っている。そんなこと、百も承知だ。言葉だって。
「ねぇ、赤が来たよ」
「来たね」
「青も来た」
「歩いてるね」
「緑も」
「来た」
「黄と赤紫と空色は、まだみたい」
「彼らはおそらく別の道を行くよ」
「どうして?」
「だって……」
「だって、なーに?」
「だって、それが彼らだから」
「行こうか。一緒に。赤と青と緑と」
「黄と赤紫と空色はどうするの?」
「彼らは、僕らには馴染まない」
「って、どういうこと?」
「今に分かるさ。今に……」
遅くやって来た風が、海の語りかけるように。黄と赤紫と空色は、戸惑っている。どこに行けばいいのか、どう歩くべきかを彼らは誰からも教わらなかったし、教えを請うたこともなかった。今、この瞬間、彼らは、そのことを心の底から悔いている。
 そのとき、涙の匂いがした。黄の涙。あるいは赤紫や空色の涙? いいやそうではない。
それは、ただ、涙だ。彼らを超越した涙なのだ。色彩ゆえの悲しみを彼らは悲しみ、涙に託そうとする直前に流れた、涙。
 泣くがいい。心ゆくまで泣け。涙よ。
「ほら、ごらん、涙が泣いている」
「え? うそーお。泣くの? 涙」
「泣くんだよ。誰だって」
「あ、じゃ、ひゅるるんも泣く?」
「何よ、そのひゅるるん、って?」
「ひゅるるんは、ひゅるるんよ。見たことないの?」
「ない!」
「そう。ないんだぁ」
「僕たちには見えないし、聞こえないんだ。きっと」
「そうかもね」
「雷雲の涙だったら知ってる」
「私も、知ってるよ。派手だよね。ずいぶん」
「派手過ぎるほど派手だし、うるさいよね」
「うん。静かに涙しろって感じ」
「そうそう、静かに! って」
 さめざめと淫雨は。降る。雨の中を歩く赤や青や緑は、もう十分に発情している。ふたりだってそうだ。雨は、色たちを欲情させる。 あの日だってそうだ。雨が降っていた。色たちと二人は、墓地裏の桜の老木の下にいた。
 傘なんか役に立たないくらい。もう、どうとでもなれ。濡れてしまえ。交わってしまえ。 桜の花びらが、ふたりと色たちを包んで、雨が流れた。交わってしまえ。桜は、十二分に淫靡だった。
 薄雪の中でも交わる。寒い。特に風は応える。裸の心は何色なんだろう? 薄雪を握りしめながらふたりとも、色たちも、思った。 交わりは、おそらく、空の彼方の、さらに彼方から瞬きする間にやって来る。瞬く薄雪と帆風。春になり、また、夏になる。いつまで続く? 四季。
「ねぇ」
「ん」
「あのね。私ね。出て行きたい」
「出て行きたいって? どこへ?」
「あの扉、開けた世界」
「扉? 扉ってどこ?」
「えっ! あなたには見えないの?」
「見えないのって、君には見えるの?」
「誰だって見える。そう思ってたのに」
「僕には、扉なんか、ない」
「そーお、ないの?」
「うん」
 緋鯉と梅雨寒がわずかに溶け合った世界は、やはり不条理という名が似合う。そう、「恐ろしいくらい」ピッタリ。似合う。
 扉を開けたい。扉なんか、ない。相反する渦巻きだ。二人は。そうやって生きてきた。
生きて? 確かに生きてきた……はずだ。
 炎天が待っていた。向日葵は君だ。じゃあ、あなたは? 僕? 僕はノミかな、たぶん……。炎天は、心の底のその人自身を焼き尽くす。のだ。炎天は、ハンカチーフを持たない。
 ゴッホだって。炎天がハンカチーフを持たない、なんて知らなかった。だから、炎天の向日葵や糸杉を描いた。
 青空が、きらきらと、夜になる瞬間を、貴方たちは、知らない。もちろん、私たちも、知らない。犯された眞実という虚実を、桜たちは、知っているかもしれない。おそらくは、
未定型で。
 遺伝子は、冷酷だ。いつも、私たちの裏をかく。一生懸命に生存し、目一杯やっても。
 どこへ向かおうとしているのか。と、何百年も、私たちは問い続けてきた。けど、まさに、そこ。科学を発展させること。我々は、結局は、結局はね、生態系に生かされている。
だから、だから田舎の林業を遣ってるところで、モモンガのいる集落を守るために、ニホンモモンガを守る、というシチュエーシュンでやってゆく。
 まず、ポイントを捉える。林業と、どうマッチさせてゆくかが見えてくる。
 きれいごとに思えるかもしれないね。問題は、体験だね。きれいごとばかりでは、誰も動かない。
「連れていこう」
「だれを?」
「赤だよ」
「赤だけ?」
「違う。青や緑も」
「それだけ?」
「いいや違う。黄も赤紫も空色も連れていく」「みんな、連れていくの?」
「そう、みんな」 
「そうね。賑やかでいいかもしれないね」
「賑やかな色彩たちと無彩色とのコラボ」
「コラボ。うん。確かにいい」
「じゃ、進もう。扉までSALCO」
「SALCO、皆でSALCO」
 なぜ、素直に、ぶらぶら歩こう、と言わないのか。SALCOなど、特定区域内の地域でしか使われない言葉を、得意げに、横文字っぽく喋っているところが青臭い。
 そもそも、そうすんなりと扉までたどり着ける、と思っていること自体が緩い。そんなに甘くはない。色彩の真実と無彩色の虚無が口を開けて待っている荒野を歩いていくんだ。
 口に落ちる覚悟がなければ、歩ききることはできはしない。
 泥鰌鍋でも食って、ぽかぽかになって行け。
 悪いことは言わないから、そう、しろ。
 それ以外に、たどり着ける方法はない。
 蜜豆!
 蜜豆をこの緊迫した状況の中で、誰が食う? 食える? そんな奴がいればお目にかかりたいものだ。
「ねぇ、さっきからなんか聞こえない? 泥鰌鍋とか蜜豆とか……」
「ううん。なんにも聞こえない。空耳じゃ?
それとも、君の内面の声? かも」
「ねぇ、みんなは聞こえなかった?」
「さあ、聞こえたような、聞こえないような……」
「どっちなの! 貴方たち色彩は、いつだって中途半端なんだから。もう! やっぱり、頼りはノワールとブランだけかしら?」
「おいら、どっちかっていうと、泥鰌鍋かも」
「だれ。今言ったの。泥鰌鍋かも、って言ったの。誰よ!」
 …………。
「いいわ。みんなでそうやって知らんぷりしてれば。覚えてらっしゃい。あんたたちみんな透明にしてやるから!」
 …………。
 苔色の地面には、若竹色の空模様が似合う。
 シャボン玉の表面を飾る虹は、白日の夕べ。見渡す限りの口の連続。落ちないように、気を張った、とたんに吸い込まれる。疲れ果てた雨粒に、ふるふるとうたれ、安らぎは溶けてゆく。
 優しいひと。ちらちら。優しいひと。ふわふわ。百日草。哀しみのひと。小糠雨。
 もう半分くらいは来ただろうか。空(くう)のただ中では、すべてが無意味だ。これまでに常識と思っていたものが非常識に変わったり、天使が悪魔になったり、クリオネの食事の瞬間を見たか? そんな感じ。ぐわっと、牙。
 いつか二人で積んだケルンは、今も、登山者たちを守っている。のだろうか? それとも、とうの昔に口に吸い込まれてしまったのだろうか? 少なくとも、こうして、ぶらぶら歩くものたちの邪魔だけは、しないで欲しい。
 横走りする稲妻が、直近を走ったとき、イオンの匂いがした。そのあと、雷鳥を直撃して焼き鳥にしてしまったことを、君は、隠している。それを食ってしまったことを、隠している。
 都合の悪いことを隠すのは良いことだ。その代わり、一生を賭けて隠し抜くことだ。中途半端が、最も悪い。隠しきること、これがすべてだ。それ以上も以下もない。雷鳥は、焼き鳥になった、それを食った。それでいい。
旨かったか、不味かったかなどは二の次、枝葉末節の論議だ。
 あのとき、かっ! が照りつけていた。照りつけていたのに稲妻だ。どうしたことだ!
誰に怒りの矛先をむければいい? 知っているなら教えてくれ。ずっと考え続けているけど、残念ながら、解を得られずにいる。このままでは、永遠に、解は見つからない。強くそう感じる。でも、いい。解なし。という解もある。
「さっきからずっと気になってたんだけど、番人がいないね」
「え?」
「いつも、すっくと立って見張っている」
「あーあ。ヤツのこと?」
「そう、青鷺」
「もう、飽きたんじゃない。番人に」
「飽きる? 想定できませんが、私には」
「だって、ヤツは、時の中に立ち尽くしてきたんだぜ。雨の日も、風の日も、雪の日だって」
「だから飽きたって言うの?」
「そ」
「でもさあ、私、いっつも不思議に思ってたんだ。番人、なんの番してんだろう? って」
「そう言われればそうだな。僕は、そんなこと考えてもみなかった」
「ね、不思議でしょ?」
「ヤツは、時の番人かも」
「時の番人? なーにそれ?」
「時の流れの中に立って、流れてはいけないものを見つけ出して食っている。そして、食ったものは、そいつが生まれた時に戻す。どーだい?」
「うーん、ほんとっぽいね、それ」
 そのころ番人は、青を捨てよう、と考えていた。青を捨ててくれるものを探していた。
 何人かいる番人が全部、そう考えて、青をすててくれるものを探していた。
 大きな翼でどこまで飛んでも、青は消せない。その現実を突きつけられて、絶望しかけていたときに、自分たちの役目に気づかされた。二人の会話が、青鷺の番人魂に火をつけた。そうだ、青を捨てるなんて、なんということを考えていたんだ。青鷺は、一声そう鳴いて、大きな翼で空をたたいた。
 翼のひとたたきで、番人の本来あるべき位置にもどったとき、二人とみんなの姿は見えなくなっていた。
 茜色になった風が、吹いてきた。
 番人は、口を大きく開けて風を飲み込んだ。
 風は、番人の体の中を吹き、青をより鮮やかに染めた。
 二人とみんなは、口に呑み込まれそうになりながら、扉を目指していた。赤が風を見つめながらハミングをした。赤紫と空色と黄も続いてハミングした。それは、カノンだった。
 重層的に奏でられるメロディが茜色の風に乗って世界中に流れた。
 外の生き物たちが動きを止めた。人間も車の運転を辞め、耳を傾けた。静寂の中にカノンは流れつづけた。扉が近いことが予想された。
 扉は、有機体を遮断することはできる。しかし、音楽や言葉や色や光や風を遮ることはできない。扉が、どうあがいても、それは不可能だ。歯ぎしりが聞こえた。扉が軋んでいる。歩き続けた。もうすぐ終わる。もうすぐ私たちは。
 夢や希望なんか叶うわけはない。断言したものに見せつけてやりたい。みんなの生き生きとした顔。色。見せつけてやりたい。叶わないものを叶えることが、私たちの仕事だ。
 扉の軋む音が大きくなった。恐竜の声。のたうっている。扉が、開けられることを拒んでいる。拒まれるようなことをしてはいない。
これから先私たちが存在する限り、そんなことは、決してしない。断言する。
 もう、どれくらい長い間、歩いてきただろう。分からない。ここには、時間などという煩わしい概念はない。しかし、体が、ずいぶん歩いた。一生分歩いた。そう、悲鳴を上げているのが分かる。
 頑張れ、青が叫んだ。
 みんなの顔がぱっと輝いた。
 頑張れ、もう一度、青が叫んだ。
 叫び声の真ん前に扉があった。足が歩くことを辞めた。もう、歩かない。そう決めていた。雨? いいや、秋空は澄みわたっている。
 涙? まさか。
「みんな、扉を開けるよ」
「うん」
「いち、に、の、さんっ!」
 赤と青と緑が一緒になった。光があふれた。
ブランが飛び跳ねている。
 黄と赤紫と空色も一緒になった。光に包まれて満面の笑みを浮かべたノワールがいた。

文学極道

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