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作品 - 20131209_468_7183p

  • [佳]  逆転 - はかいし  (2013-12)

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逆転

  はかいし

――本の上でのあの素晴らしい眠りを与えてくれたサルトルに捧ぐ


 お前は女に出会った。運悪くそこはベッドの上だった、初体験で風俗という、いかにも吐き気がしそうなことをお前は試みていた。もちろんすべての人々がそう感じるとは思わない、しかしお前は感じたのだ、その吐き気を、その初々しさを、おのれの若さを。そしてうんざりした。お前はうんざりする自分を感じた、そう言い直してもいいだろう。お前は真っ直ぐに愛を表現できる相手が見つからなかったために、つまりどこかひねくれたところがあったために、そうなってしまったのだ。お前は暑さの中で、くねくねした路地裏を抜けて、その店へ入っていった。
 そこに夢があった。愛する。これはなんだろうか? ここに乳房がある。ここに谷間がある。鎖骨がある。肩がある。愛する、これは奇妙なものだ。この体のどこに、そんなものがあるのだろう? 股の間には物静かな陰毛しか生えていないし、うなじには甘い汗の一滴もない。これを愛と呼ぶならば、果たして人々は何を味わうのだろう? そんな快い眠りを開かれた目に見続けていた、女の夢だった。お前は愛すると同時に、その体で哲学してしまうのだ。お前が愛しているまさにその体で生き抜いてしまうのだ。
 すべてが終わると、今度はもう来ないぞという気持ちがした。もう来ないぞ。もう二度と。そして、それをいつかまたどこかで言い聞かせてしまうのかもしれないと思ってしまう。お前は愛について数多くの比喩を知っていたが、愛することと愛そのものとの違いについて、深く考えたことはなかった。

 一ヶ月もしないうちに、また別の女のところへ行った。今度はアパートだった。女は姦通の最中に気分が悪くなり、嘔吐した。お前は、それが女のものであるとは思わず、自分のものであると考えた。お前は前回の経験を思い返していたのだ。お前は立ち上がり、吐き出されたものを、まるで自分のものであるかのように扱って、女をますます気分悪くさせた。女は突き刺されたまま、洗面所とベッドの間を行ったり来たりしなければならず、またお前は突き刺したまま、雑巾で床を拭かなければならなかった。お前は、ちょうど直立した女に対して、逆立ちするような体勢でいた、女が動くたびにお前はペニスを軸にしてぶら下がり、女の動きに合わせてどこまでも行ったり来たりすることができた。一通り吐瀉物がなくなると、お前はこう言った。「あのいきのいい魚や野菜が、ゴミになっちまうなんてなあ。俺が持っていくからな」もちろん、お前は冗談のつもりで言ったのだ。しかし、お前は逆さまだった。すべての言葉、お前が口にするすべてのことは、女には反対の意味に受け取れるようだった。女はお前の過剰なユーモアを、自分に別れを告げる深刻なメッセージと勘違いした。「自分よりも魚や野菜の方が大事なの? 信じられない……」また吐いた。仕方なく、お前は自分と女を逆にしてみた。つまりお前は直立し、女が逆立ちするのだ。こんなことをしたらかえって逆効果なのではと思うかもしれない、そしてそれはじっさい逆効果だった。女は吐きまくり、それは止まらなかった。辺り一面が吐瀉物の海になった。その吐瀉物の中の酸のせいで、女は溶けてしまった。お前は吐瀉物に溺れながら女を探したが、見当たらない。ここには乳房もない。ここには谷間もない。鎖骨もない。肩もない。しかしお前は納得した。なるほど、愛が女をとろけさせるとは、このことか。いつの間にやらお前も溶け出した。その日のうちに、アパートの住民たちは異臭のためパニックに陥り、ドアの郵便入れから吐き出される吐瀉物にびっくりして、大家さんまでもが逃げ出す始末だった。直ちにアパートに包囲網が張られ、これを解体するべきかどうかという議論が持ち上がった。多くの人々が反対した。しかし議論している間に、その集会場にも吐瀉物が押し寄せてきているという誤情報が入り、慌てた人々が窓を扉を閉めて隙間を粘着剤で塞ぎ、自分で自分たちが閉じこもる密室を作ってしまった。密室殺人が起こる準備は万全と言えた。外部の様子を確認しようと思ったら窓を割るしかないが、あの異常な酸っぱい匂いを我慢しなければならず、また酸っぱさのために目が潰れてしまうというデマが流布していて、誰にも手のつけようがないのだ。誤情報を流した犯人探しが始まったが、それ以前にどの情報が正しく、どの情報が正しくないのかを、判断できる人間がその場にいなかった。一人が発狂し、一人が何者かに殺害された。やがて、議論は哲学的な方向に進み出した。この極限状態において、そもそも正しさとは何か、と言い出す厄介な輩がいたのだ。「考えてみれば、我々もひょっとすると、もう溶けていて、この世界には存在していないのかもしれないぞ」「いいや、存在することと、存在するものはまったくの別物だ。たとえ我々が溶けてしまったとしても、我々は存在する」こんな調子で、集会場にいた人々は極端なニヒリズムに陥ることになった。「すべては存在しないのだ。すべては無だ。おそらくその言い分が最も我々にとって説得的だろう」吐瀉物が住宅街を埋め、山々を溶かし、マグマと混ざって海を蒸発させ、全世界を浸食しつつあったが、この密室の人々はもはや自分から存在を否定していたので、溶けようが溶けまいが関係なかった。他の家々でも、これと同じことが起き、いくつも密室が生まれていた。人々は閉じこもり、乱交にふけり、殺し合い、それで快楽を増やしていた。世界のあらゆる愛はこうして終わることとなった。どこかに出かけることもなくなったので、「もう来ないぞ」と言うものは誰もいなかった。もちろんこの吐瀉物の大陸に、誰かが出かけて船で近づいてくるなんてことはあり得ないし、その意味でこの愛を邪魔するものはいないのだった。

文学極道

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