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作品 - 20131016_593_7079p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


比喩としてのパイが気になる

  お化け

君は「当たり前はやっぱりつまらない」って言う。いま私、どこにでもありそうな喫茶店で、ありきたりの「もの」のほとんどはつまらないのは認める。でもだからと言って「当たり前」の景色をじっと見つめることのない人になってしまったら、ありふれたものの中にある砂金の輝きを見つけることはできないよ。君には、当たり前に見えることはすべてつまらない、と見えている。君に私は言いたい。「いいや、私がいま当たり前のように見ているは、普遍的で美しいかもしれない」と思ったことがありますか、「ダーウィンのように君は疑ったことはありますか」と。もちろん、あると思う。え、君、誰だっけ? 私の思考実験の助手。わかってよ、ありふれたことに目を凝らして美しさを見つけようとすることは、当たり前のことのひとつ、の雫。人間が生きている日常は、そこを見つめる者に対して、美しさをもっている。

大人になって、世の中を見るやり方が変わって、見るものが輝かなくなっていく。小さな頃の自分のように生きていくわけにはいかない。これも当たり前のことのひとつ、の滴、滴滴、雨粒たち。生きるのが泣き出しそうなのは喪失していくからで、色んなことを諦めて生きてきた大人たちの心の中には、悲しみが美しくなれる居場所がある。悲しい人、「当たり前」の領域をキャンバスにして、そこにある区別を浮かびがらせる美しい線、鉛筆を持って、シャ、シャ、線を引く、線画。当たり前という必要条件の内側の美しさの十分条件を満たす形として実際に囲む線を描いていく。美しさはその線がなければ消えてしまうような紙一重、はかなさ。美しさの形は心の揺らぎをなぞって共感しながら感情を増幅させてしまうメロディーのように、実際の形は未だかつて実際には存在したことはないかもしれない。曖昧なんだ。ざわざわ、胸騒ぎして、胸が苦しくて、美しいような色彩豊かな影が震えて消えてしまうことだけがこの世界に存在する。

まだ鉛筆は持っていますか? 私が許すから、AとAでないものの間にハッキリ線を引いて欲しい。AでなくてもBでもCでもいい、とにかく或るものと或るものでないものの間に境界線を引く。「Aである」か「Aでない」かだ、という論理的には当たり前な真理が視覚化される。あなたはその世界を切り分けた。切り分けるものは「世界」でなくたって構わない。パイを切り分けたと言った方が私が言いたいことかもしれない。世界が大きすぎる、安部公房が言うように「大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる***」かもしれないから。あなたが持っていた鉛筆はいつの間にかナイフになっている。パイのAの領域とAでない領域もいつの間にか切り分けられている。パイはいつの間にかチョコレートケーキになる。そしてチョコレートケーキはいつの間にかあなたがいちばん好きなケーキになっている。チョコレートケーキが好きな人のケーキはそのまま。Aの領域はちょうどあなたが食べたいだけのケーキの量で、あなたはそれを食べて、幸せな気持ちになった。

私はケーキを食べ終えたあなたたちをみている。あなたたちは私に気づいて、私は、どちらかと言えば不幸せな人間。不幸せに見えたのは、きっと、小さな喜びを持ったあなたたちが、いっせいに、私のことを見つめ出したから。そして私は自分がどこにでもいるありきたりな人間です、と自分のことを思って、どうすればいいかわからなくなってしまう。何か言わなければならない。「私はあなたたちと違ってパイから先には進めなかった」と、キッパリと言った。ダイエット中だった。あなたたちのようにケーキに進むわけにはいかなかったのよ私は。それに、もちろんそのパイは、比喩としてのパイなのだから、それが実際なんなのか、とそこで立ち止まって考えたかった。「パイ」あるいは言い換えるとAである何か、それは何か、私にとってAであるベキなのは何なのか、私はそう問いかけたかった。まだナイフを持っていますか? 比喩としてのパイを切り分けなさい。割り切れないものをすべて割り切るようにして。

後ろから、前から、横から、あなたたちはナイフを突き刺し、通り抜けた刃で誰かを傷つけた。切り分けられたパイはさらに切り分けられた。私やあなたたちは、自分が食べきれる以上の断片を欲しがった。自分が抱えきれないものを手に入れた者は動けなくなり、その重みで潰れていった。自分の中に持ち運んで動くことができなければ意味がなかった。手に入れることができたのは自分が望むものよりも少ない量だった。分割された比喩としてのパイのはもともとの位置から移動して、誰かが持ち去ったところに空いたニッチにハマった。切り離されたパイはやがて世界の断片に変質し、盗者の物語の意図の中で移動し、世界全体は組み替えられ、世界像の様々な可能性が試され、大きくなっていった。動く、その絵の連続、活動写真、「自由」という能動的曖昧さをジグソーパズルの絵の表現型にする巨大な有機体、の成長、胃袋に市場を持つリヴァイアサンの亜種を追うドキュメンタリーは、止まらない。あなたと私は大きすぎるものの何処かを呆然と見つめていて、震えながら、まだナイフを持っている。

誰かが「1+1は2じゃないのよ」と脅す。1+1=3なのか、4なのか5なのか、人と人とがくっついて「集まればその人数分以上の力になるのだって」確かめ合っている。収穫逓減の法則はそれをあざ笑っている。誰かが恋人を脅している。「人との関わり方が下手なあなたと私を足した1+1は2じゃない、3でもない。良くて1.7ぐらいか1.6とか、もしかしたら1.1なのかもしれない。だけど、私たちは一緒になるの。壊すのに1.1人の力が必要な壁だって1人の力じゃ壊せない壁じゃん。1人分より多い力が1ヶ所に集まってタイミングよく使われることが大事なの」だって、言って、2未満の力で壊せる壁を2人で壊して進もうとしながら、凶日、感情が爆発した日の頭の中が、逆再生されて、弾の中に詰められた。「半分こしよう、私は私を半分切り分けてあなたにあげるから、あなたはあなたを半分に切り分けて私に頂戴」と言い終えた後には自分を切り分けたナイフは拳銃に変わっていて、弾が装填され、バン、込められていたものが的確な位置でタイミングよく爆発し、君の揺れている心に小さな穴が空いて液体がこぼれた。

輪郭を伝って流れた液体の線がだんだん弱くなって、途切れ、乾き、線がわからなくなるとき、シャ、シャ、まだ鉛筆を持っていた人が瞬間を写生した。彼が描いた別の絵では、線は途絶えない、「穴の空いた心たち」から流れ出た液体は合流し、大河になって、空から見た地形に線を刻んでいた。別の絵では「穴の空いた心たち」が雲のようになりボヤッと集まって、雨が降っていた。それとはまた別の絵では、とても綺麗に世界を切り取っていた。そこには消えたものがあった。例えば、片脚を失うとき、耳が聞こえなくなるとき、失明するとき、最愛の人をなくしたとき、そんなとき、自分の当たり前の世界だったものが消えるときに消えたものがあった。「老いる」ことのように「徐々に」ではなく、クリアに喪失したものがそこにあった。「綺麗に切り分ける、ということは、喪失している現実にハッキリ気づいてしまうことに似ていて、悲しいことだ」彼は言った。いちばん綺麗な喪失を探していた。人生は絵になる、って言って、彼はいなくなった。にゃー、にゃー、にゃー。














*** 安部公房「箱男」から引用

小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
雨のしずく……濡れてちぢんだ革の手袋……
大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。
国会議事堂だとか、世界地図だとか……

文学極道

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