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作品 - 20130815_765_6990p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


救急室3

  織田和彦




朝から、あおぞら総合病院は混み合っていた。8時15分。既に気温は25度まで上がっている。受付開始は8時20分からだが、蛇行する人々の列が、今にもあおぞら総合病院の外側にまで溢れ出そうだ。

「受付される方の最後尾はこちらです!」

黒縁眼鏡でスーツ姿の小柄な青年が、大きく手を挙げて、患者を誘導している。羊のように誘導に従う患者の列。実に秩序正しく、割り込みなどのマナーを失した行為は一切ない。

ぼくは財布から保険証を取り出し、列に並んだ。8月14日。お盆の真っ只中に、病院がこんなに混むなんて思わなかった。見たところ、8割くらいの人はどこが悪いのかさっぱり見分けが付かない。世の中と同じ、病は内部に深く潜み、表面にはそうそう現れないのだ。
などと思っていると、

「何科を受けられますか?」

と、唐突に黄色いシャツを着た少女に声をかけられた。顔に発疹が出ていること。頸部のリンパ節の辺りが腫れていることを告げると、看護師に相談してきます。そう告げると、病院の廊下を駆けていった。実際、どこの科を受けるのが適切なのか、よくわからなかったのだ。

走って戻ってきた、黄色いシャツの少女は、少し息を切らしながらも、嫌な顔一つせずぼくに一枚の紙切れを渡し「内科を受けてください」とそう言った。

その紙切れには、「11」という番号と、カタカナでぼくの名前が書かれていた。

その紙切れをもらうと、ぼくは何故かホッとした。

問診票を受付に提出した後、内科の診察室の前に置いてある黒いレザー貼りの長椅子に腰をかけ、病院内を観察しはじめた。足取りの覚束ないヨボヨボの爺さんが、さっきから内科の前をウロウロし、女性の看護師に声をかけては「今日は下痢が酷い」と訴えている。“今日は”と、いったところ、おそらく毎日通ってくる、病院しか行くところのない“困った爺さん”なのだろう。困った爺さんは、また違う看護師を掴まえては“病状”を訴えて回っている。

「下痢をされているんですね。大丈夫ですよ」

その一言をもらうと爺さんは安心したのか、内科の前をうろつくのを止め、病院の奥の廊下に消えた。

すると今度は目の前のエレベーターがドスンと開き、ストレッチャーに寝巻きのままぐるぐる巻きされた足の無い、80歳くらいの、別の爺さん運ばれてきた。白髪の坊主刈りで、よく太っている。ぼくの目の前を通り過ぎていくその爺さんの染みだらけの顔を見ていると。左の目から涙が流れ出しているのが見えた。

「私たち長く生き過ぎたのね」

正面玄関の、テラス側の廊下で、車椅子の婆さんたちが話しているの聴こえた。

「ジュウイチバン オダサン! オダカズヒコサ〜ン」
「はい」
「どうされました?」
「顔に発疹と下顎の辺りにシコリと腫れがあります」

ぼくほ問診票に書いた通りの説明をした。

内科の診察室の中から、長椅子に腰を掛けるぼくのところにツカツカと歩み寄ってきた、おそらく看護師と思わしき三十代後半くらいのその女性は、ぼくを診察室に招き入れるわけでもなく、ぼくの腫れた頬っぺたを触りながら、廊下で「診察」をはじめたのだ。

「ここ、痛む?」

多分、ぼくと同級生くらいと思われる女の看護師は、ショートカットの髪を茶色に染め、少し濃いめのブルーのアイシャドーを入れていた。

「おたふく風邪かもしれないわね」

如何にも世慣れた風な彼女は、ポケットからマスクを取り出し、「これ、しといて」とぼくにマスクを手渡すと、手招きをし、歩き出した。彼女はぼくが、ちゃんとついてきているかどうか確かめるように、二度ばかり後ろ振り返った。

「救急室3」と札の掛かった病室につくと、ぼくをその部屋に押し込んで、カーテンレールで間仕切りされたベットに案内し、「先生がくるまで、ここでしばらく待ってて」と言ってカーテンをピシャリと閉めた。

そして、カーテン越しの向こう側で「きゃっ!貼っちゃった」と言って出て行った。

何を「貼った」のか?カーテンを開けて見てみると「内科 オダさん」とだけ書かれたメモがカーテンの表側に貼り付けられていた。

多分、楽しい性格の看護師さんなんだろう。

そう考えて、ベットにしばらく寝転がることにした。熱もないし、特にしんどいわけでもない。しかしなんで彼女はぼくを救急室なんかにつれてきたのだろう?おたふく風邪とか言っていたので、感染症を疑い、院内感染を避けるための措置なんだろうか?説明がなかったのではっきりはわからないが、おそらくそうなんだろう。

さて、することがなくなったぼくは天井のトラバーチンの穴ぼこの数を数え始めた。スマートフォンは病院の駐車場に停めた車の中だし、“楽しい”看護師さんはさっさと出て行ってしまったし、ぼくは病室という隔絶されて世界の中に今一人取り残されてしまったのだ。そしてトラバーチンの穴ぼこの数を数えるという作業に意義を見いだせなくなったぼくは、ベットに横たえた体から全部の力を抜き、このまま眠ることにした。

どのくらい眠っただろうか?

5分か10分くらいのことかもしれない。
隣のベットからうめき声が聞こえはじめたのだ。

その声からすると50代くらいの、中年の女性のものと思われる。カーテン越しに光を透かしてみると、微かに見える影から、女性は点滴をしていることがわかる。さっきまで考えもしなかったが。この病室にいるのは、どうやらぼくだけではなさそうだ。さらにその向こう側のベットからは、若い女性が嘔吐いているのが聞こえた。

なるほど、人間、そう簡単にひとりになれるものではないな。ぼくは妙に納得した。人は、たとえどんな境遇や世界にあっても、仲間になれそうな他の誰かを必ず見つけ出すことができるのだ。

しかしだ、ぼくの放り込まれたこの「救急室3」は、重症患者が多いらしく、胃腸炎でひたすら嘔吐き続ける16歳の女子高校生、熱中症で倒れ運び込まれた主婦や、始終ストレッチャーで運び込まれる患者が出入りし、カーテンで塞がれてよくは見えないが、なんらかの「応急処置」を施されては緊急の往来を繰り返しているらしいのだ。泣き叫びながら嘔吐する女性が、数人の看護師に抱きとめられ「大丈夫!大丈夫だよ」と励まされている声がずっと聞こえる。

さながら野戦病院のごとき様相を呈しているのだ。

ぼくをここに連れてきた看護師のことを考えた。左手の薬指に指輪はなかったし、彼女と話せば、このあおぞら総合病院の事が、もっとよくわかるかもしれないな。

「オダさんって方はどちらですか?」

初老の紳士といった感じの小柄な医師が、黄色いシャツを着た丸顔の若い女性を伴って「救急室3」のぼくのベットに入ってきた。医師は神妙な面持ちでぼくの顔を覗き込んだ。患部を触り、幾つかの質問をしたあと、「ヘルペスですな、ヘルペス一型ですよ。皮膚科に案内しておきます」そういって、そそくさと出て行った。「皮膚科の先生を呼んでくるので、そのままそこでお待ち下さい。寝ていてくださって結構ですよ」丸顔の黄色いシャツの女性は頬を少し紅潮させながら言った。まだ見たところ、学生といった雰囲気だ。

少しガッカリしたぼくは、カーテンに貼られた「内科 オダさん」のメモを乱暴に剥ぎ取った。その裏側には、見知らぬ女性の名前と11ケタの数字が、まるで暗号のようにぐるぐると書きなぐられていたのだ。

文学極道

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