『この世をば
わが世とぞ想う
望月の
欠けたることも
なしとおもえば』*1
下手な歌を諳んじる、坂の上で湿る夜。遠くに茂る緑の並木。靄みたいに立ち込める精液の匂い。老婆の浮腫んだ尻肉のような黄桃が空の穴に嵌まってる。
こんな夜に生まれたのだと思うと、気持ち悪い。
鳥肌が頬まで上る早さよりも遅く、坂を登る。やがて、彼方の道の奥に、あなたの待つ集合住宅がみえる。
***
記念日の白い卓子に載る、お菓子の家を切り分けるあなた。
ハッピーバースデーの歌が裏返り、弾ける林檎酒の笑い。
扉の金箔の花を、君と、半分こ。
蝋燭の灯る部屋の暗がりに垂れる、屋根にとける雪は甘くて、薔薇の香りがする。
『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』*2
むかしの、君の歌のように。切り分けられ、食べられた家の、つぐむ糸のらせん、二重。その、ふたつの時制を思うとき。あなたの谷間に光る、冷たい聖ペテロ十字が、緋色に染まって見えた。
あなたの背中に咲く、ホオベニエニシダの色うつりだろうか。
***
君の家は雪の上に建っていたんだ。朽ちて、その旧い家が雪に埋まるころ、僕らの家は、きっと、建つだろう。
***
僕らが口に運ぶ、骨まで柔らかい仔牛のシチューの油分で会話は滑らかにすすむ。それは卓子の隅に転がる茹で海老とか、床に落ちてる梟の羽根や、ひっくり返った蜘蛛のこととか。部屋のなかにあるものについてばかりだけど、時折あなたが脚を組んで見せる黒いハイソックスとか、悪戯にちらつく舌の先とかのおかげで、あまり飽きなかった。
***
蝋燭の火を吹き消して、その先は、語らなくていいだろう。青ざめた果物を鑿で割ったり、起伏の稜線に爪を立てたり。幾重にも襞をなす、青白い死者の乳が寄せては返す岸辺で、白く泡立つ裾の歯列につま先からあまく噛まれて、僕らは波紋になったり、螺旋になったり。そんな比喩のほか、語るべきこともない。歴史のいっさいは波のごときものだという、ただ、それ以外には。
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*1 藤原道長『望月の歌』。全文引用。
*2 三好達治『雪』。全文引用。
選出作品
作品 - 20130723_549_6965p
- [佳] 四月三十日 - NORANEKO (2013-07)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
四月三十日
NORANEKO