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作品 - 20130601_982_6900p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


COME TOGETHER。

  田中宏輔





トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。一粒一粒の実から潜望鏡
がのぞいている。死んだ者たちが小人の幽霊となって、一粒一粒の実のなか
から潜望鏡でのぞいているのだ。百億と千億の潜望鏡のレンズがキラキラと
輝いている。トウモロコシ畑が黄金色にキラキラと輝いている。





あなたを散歩しているあいだに、ドアがぐんぐん育って、郵便配達夫が立ち
往生していた。「かまわないから、そこの卵を割って。」車は橋を渡ってき
た。消灯時間まで、まだ小一時間ほどある。犬もあたれば棒になる。





さいきん、よく電話で、間違い朗読されるんだよね。頼んだ詩の朗読じゃな
くて、頼んでいない詩を朗読してくるんだけど、声がいいから、つい聴いち
ゃうんだよね。それに、頼んでなかった詩が、よかったりもするしね。死ん
だ詩人たちによる電話朗読サービス、けっこういいね。





あしたは、雨の骨が降る。砕かれて乾いた白い雨の骨が降る。窓の外を眺め
ると、あしたは、きっと雨の骨で真っ白なのだろうと思う。道路も山も家々
も、白い雨の骨にうずくまる。雨の白い骨に濡れた街の景色が待ち遠しい。
ぼくの脳の目が見るあした、白い骨の雨が降る。





病は暇から。雨粒。垂直に折れる首。線上の夕日。腰からほどける。嘘の実
が実る。コップのなかの0と1。聴診器があたると聴診器になる。いつまで
も、こんなに。鉢からあふれでてくる緑色の泡盛。冬の夏。あきらかに茄子。
病は暇から。雨粒。コーヒー。ジャングル。冬の夏。





黒サンタ。子どもたちをトナカイに轢き殺させたり、持ってる鞭で死ぬまで
子どもたちをしばきつづける殺人鬼サンタ。肩に担いだ黒い大きな袋のなか
には、おもちゃたちから引き離された子どもたちの死体が入っている。





とてもエロい夢を見て目が覚めた。海岸で、ぼくが砂場の一角を下宿にして
たんだけど、学習塾の生徒がきたので、「ここはぼくんち」と言って、いじ
わる言ってたりしてたら、酔っぱらった青年が倒れ込んできたので、背中に
おぶってあげたんだけど、それがむかしの恋人にそっくりで、





おぶってると、背中に恋人のチンポコがあたって、ああ、なつかしいなあ、
この感触とか思ってたら、そこからシュールになって、おぶっていた恋人が
数字になって、ぼくの背中からこぼれ出したのね。(1)(2)(3)とか〇つきの数字。
あちゃ〜、というところで目が覚めました。ちゃんちゃん。





Hが好き。Aが好き。Nが好き。Vが好き。Rが好き。Jが好き。Zが好き。
Fが好き。Cが好き。Pが好き。Dが好き。Eが好き。Bが好き。Uが好き。
Yが好き。Oが好き。Lが好き。Mが好き。Tが好き。Wが好き。Qが好き。
Sが好き。Gが好き。Xが好き。Iが好き。





あなたがあなたに見とれているように、わたしもわたしに見とれている。あ
なたがあなたに見とれているように、花も花に見とれている。世界がそうす
るようにつくったからだ。あなたも、わたしも、花も、自身の春を謳歌し、
老いを慈しみ、死を喜んで迎え、ふたたび甦るのだ。





足元に花が漂ってきた。波がよこしたのだ。ずいぶんむかしにすてた感情だ
った。拾い上げると、そのときの感情がよみがえってきた。すてたはずの感
情だと思っていたのだけれど、波は、わたしのこころから、その感情をよこ
したのだった。花をポケットにしまって歩き出した。





小学校のときに、ゆりの花のめしべの先をなめてみた。なんか、自分のもの
に似ていたから、てっきり、おしべかと思ってたのだけれど。ぼくが23才
のときに付き合ってたフトシくんちに遊びに行ったとき、まだ会って2回目
なのに、「おしり、見せて」と言われて、「いやだ」と言った。





文学の醍醐味の一つに、一個人の言葉に接して、人間全体の言葉に接するこ
とができるというのがある。それは同時に、人間全体の言葉に接して、一個
人の言葉に接することができるということである。ここで、「言葉」を「体
験」といった言葉に置き換えてもよい。





紫式部って、男(社会)のことをバカにしながら、自分たち女性が置かれて
いる立場を客観視しようとしたもののような気がする。男に対しても、女に
対しても、えげつない描写や滑稽な描写が満載だから、きっとゲラゲラ笑い
ながら、女たちは、源氏物語を読んでいたと思う。こんなえげつない滑稽な
読み物を、日本文学の最高峰といって、研究して、子どもたちに教えている
国なのだ、この国は。すばらしい国だ。





マクドナルドで、コーヒーを頼んだのだけど、MからSに変更して、という
と、Sサイズのコップにはいつもより少なめのコーヒーが…。とっても小さ
なことだけど、理不尽な、とか、不条理だ、とかいった言葉を思い浮かべな
がら、窓の外を眺めていた。自分のみみっちさに、しゅんとして。コーヒー
カップを手に、窓の外を眺めながら、たそがれて。あ〜、軽い、軽い、と、
コーヒーカップをくるくると回しながら。





ふつうに、論理的に言及するならば、あるものが新しいと認識されるまで、
その認識に必要な蓄積がなければなされ得ないような気がする。数学や科学
理論について思いを馳せたのだが、芸術もまた、歴史的にそういった経緯を
持つに至ったものについて想い起した。





芸術の基盤は幻想だと思う。供給する側についても、受容する側についても、
その幻想からのがれることはできないように思う。





齢をとることは地獄だけれど、地獄でしか見れないものがある。地獄からし
か見れない視点というものもある。生きていることは苦しみの連続だけれど、
さらに自分の知識を有機的に結びつけ、感性を鋭くさせるものでもある。若
いときの感性は単なる反応だったのだ。培った感性ではない。いまは、そう
思っている。





これから塾へ。痛み止めがまったく効かなくて、激痛がつづいている。しか
し、痛みにリズムがあることがわかった。むかし、腸炎を起こしたときにも、
痛みにリズムがあった。拍というのか、休止というのか、それとも、なにか
の余白とでもいうような。痛みのリズム。自分の身体で知った数少ないこと
の一つ。





ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作、『イーフレームの書』、
『ミラベルの数の書』、『ページェントの台本』上下巻は、ぼくが読んだ詩集
のなかで、もっとも感動したものだけど、一行も覚えていない。あまりにすご
くて、覚えていられないということもあるのかもしれない。





精神的に安定した詩人や芸術家といったものがいるとの見解ですか? ぼく
の知る限り、一人もいません。詩人や芸術家というものの本性上、安定した
精神状態ではいられないはずです。自分を破壊して、またつくりなおすので
すよ、繰り返し何度も何度も。安定とは、芸術においては死なのです。





世界は、わたくしという、きわめて脆弱な肉体ときわめて影響を受けやすい
魂をもった器で、事物や事象といったものは、その器に盛られては器の外に
つぎつぎと溢れ出ていく、きわめて豊饒であり、かつ強靭な形象であろうと
思われる。したがって、世界の弱さとは、わたくしの肉体と魂の脆さのこと
である。





世界が自分自身であるということに気がつくまで、こんなに齢を重ねなけれ
ばならなかった。世界という入れ物は、こんなに小さかったのだった。世界
を入れ物と認識して、残るものと溢れ出ていこうとするものについて思いを
馳せる。自らの手で自分という器を落として壊す者がいる。





器は簡単に壊れるだろう。壊すのは難しくないだろう。しかし、もはや同じ
器をつくる材料は、どこにもないのだ。同じ器は、一つとしてないのだ。悪
夢を見た。つぎつぎと器が落とされていった。世界がつぎつぎと壊れていく
のであった。モノクロの夢。なぜか、色はなかった。





そして、音と声が聞こえるのであった。いくつもの器がつぎつぎと壊れる音
と重なって、数多くの人間の絶叫が聞こえてくるのであった。どの器一つと
っても、貴重なものなのだ。だれかが自分を落としそうになったら、ほかの
だれかが拾ってあげればよいのに、と思う。





夢のなかでそう思ったのだけれど、夢はモノクロだった。つぎつぎと白い器
が街じゅう、いたるところで捨てられていく。窓の外に手が見える、と思う
間にすぐその手の先の器が落とされていくのであった。窓々に突き出される
いくつもの手と、地面につぎつぎと落ちていく器たち。建物と窓枠と地面は
黒く、皿と手と雲は白かった。





世界は、おなかがちょっとすいたと思ったので、これからセブンイレブンに
行って、豚まんでも買おうかと思う。わたくしという入れ物が、確固たる形
象をもつ豚まんを求めて、これから部屋を出る用意をする。ただ上着をひっ
かけるだけだけどね、笑。大げさに表現するとおもしろい。





なぜ親は、赤ん坊に笑うことを教えるのだろうか。笑うことは、教えられる
ことだからであろう。泣くことは、教えられずとも泣くものである。しかし、
もしも、赤ん坊が生まれてすぐに笑い出して、ずっと笑いっぱなしだったら、
親は、赤ん坊に、泣くことを教えるだろうか。





ぼくにとって、詩は驚きなのである。ぼくのこころを驚かさないものは詩で
はないのだ。そして、詩は知的でなければならない。あるいは、まったく知
的ではないものでなければならない。ただ考え尽くされたものか、まったく
考えずに書かれたものだけが、詩の芳香を放つことができる。





10年ほどまえかな、トラックに轢かれそうになったとき、脳の働きがすご
くアップして、瞬間的にトラックを運転していた人間の表情や、向かい側の
横断歩道にいた人間の表情を目視できたけれど、すばらしい詩を見た瞬間と
いうものも、それに近いなと思った。





そしていま、自分の頭のなかに、バーッと、言葉の文字列の大きさ、音のバ
ランス、意味の相互作用がいっきょに思い浮かび、詩の情景として存在する
ことになる瞬間もまた、あのトラックに轢かれそうになった瞬間に酷似して
いるということに気がついた。「思い浮かび」は、「思い出し」でもよい。





全把握と創造が同時的に行われる瞬間とでもいうのだろうか。一方、時間を
かけて創作する場合は苦しいことが多い。しかし、こういった苦しみは喜び
でもあるのだが、瞬間的に言葉が出てくるときの喜びにはとうてい及びはし
ない。経験すること。苦しむこと。学ぶこと。ヴェイユの言葉かな。





なぜ詩や小説といったものを読んで、自分のなかにあることを知らなかった
ものがあることに気がつくことができるのだろうか。それも、現実の経験が
教えてくれるときのように明瞭に。おそらく、読むということや理解すると
いうことのなかに、現実の経験と変わらない部分があるからであろう。





あることをしたとき以降、その実感した感情や感覚が、ほんものの感情や
感覚になるということがある。脳は、人間の内臓器官のなかで、もっとも
倒錯的な器官である。しばしば、脳は逆のプロセスをたどる。





現実の経験に先だって、その現実で実感されるであろう感情や感覚を、書物
によって形成するのである。書物によって、というところを、映画や会話に
よって、と言い換えてもよい。ことし52才になった。これからも読書する
だろう。きっと新しい感情や感覚を持つことだろう。





新しい感情や感覚を持つことができない人生など、わたしには考えられない。
同じ感情や感覚の反復とかいったものは、創作家にとっては、死を意味する。
もしも、自分が新しい感情や感覚を喚起させない作品しかつくれなくなった
としたら、もはや、わたしは創作家ではないだろう。なによりも、創作家で
ありたいのだ。





ところが理論は矛盾する。いや、理論構築が矛盾するのである。理論によっ
て形成されたものは、その時点で新しいものではなくなるのである。その理
論が新しいものでなければ。ところが、創作は、なされた時点で、それ自身
が理論になる。ものをつくるということは、同時に、





理論構築をするということである。したがって、創作家は、つくるしりから、
そのつくったものから離れなければならないのである。同じような作品をえ
んえんとつくりつづける詩人や作家たちがいる。わたしが、彼もしくは彼女
たちに閉口する所以である。





自己肯定するとともに自己否定することなしに、創作しつづけることはでき
ないであろう。英語力のないわたしがいま恥をさらしながらも英詩の翻訳に
傾注しているのも、そこに自己肯定と自己否定の両義を感じるが故のことで
ある。しかし、このことは、いまは理解されることはないだろうとも思う。





それでよいと思うわたしがいる。わたしの事情などは、どうでもよいからで
ある。わたしが翻訳した英詩によって、わたしがはじめて知る感情や感覚が
あった。わたしのなかにあってほしいと思うような感情や感覚があった。よ
い詩をこころから紹介したいとはじめて思ったのだ。





よい詩をひとに紹介したいと思う気持ちが生じたのは、はじめてのことであ
った。わたしのつたない翻訳で、原作者の詩人たちには、こころから申し訳
ない気持ちでいっぱいなのだが。がんばる。がんばって、やりとげるつもり
である。残り少ない人生のひとときをかけてやりぬくつもりだ。





きょう、ふつうの居酒屋さんで、若いゲイ同士のカップルが一組いて、とっ
ても幸せそうだった。ふつうの場所で、若いゲイのカップルが幸せな雰囲気
を醸し出しているのを見ると、世の中もよくなったのだなあと思う。まあ、
ぼくの学生時代にも、頼もしいゲイのカップルはいたけど。





ぼくとぼくの恋人も、かなり逞しいカップルだったけど(身長180センチ・
体重100キロと110キロのデブがふたりとか、笑)、飲みに行ったりした
ら、ふつうのカップルから、よくジロジロ見られた。お酒を飲みながら、しゃ
べくりまくりながら、手なんか、つないでたりしてたからねぇ、笑。





おじいちゃんたちを拾ってきた。いくつか、途中の道でポトポト落としたけ
れど、玄関のところで、いくつか蒸発してしまったけれど、二階の手すりん
ところでフワフワと風船のように漂うおじいちゃんたちもいて、ケラケラと
笑っていた。持ち前のおちゃめさで錐の先で突っつくと、パチンパチンって





はじけて爆笑していた。部屋のなかのおじいちゃんたちは正十二面体で、各
面がボコッとへこんでいたけれど、そのへこみがうれしかった。ひさしぶり
に、つぎつぎと机の上で組み立てては壊し、壊しては組み立てて、ケラケラ
と笑っていた。おじいちゃんたちは嘘ばかりついて、ケラケラと笑っていた。





バレンタインデーには、女の子から、男の子に、おじいちゃんを贈ることに
なっていて、義理おじいちゃんと、本気おじいちゃんというのがいる。おじ
いちゃんをもらった男の子のなかには、もらったおじいちゃんを、ゴミ箱の
なかに捨てる子もいて、バレンタインデーがくる日を、おじいちゃんたちは
怖がっているらしい。





生おじいちゃん。





パソコンのトップ画像は、死んだおじいちゃん。(もちろん、画像は、棺桶の
なかで笑ってるおじいちゃんだよ。)





どっちかを選ぶとしたら、どっちを選ぶ? 液体のおじいちゃんか、気体の
おじいちゃんか。





朝マックがあるんだから、朝おじいちゃんがあってもいいと思う。個人的には。





他者への欲望。つねに他者に向けられた欲望しか存在しない。自己への欲望。
そのようなものは存在しない。目は自分自身を見ることはできないのだ。





蟻は眠らないと、H・G・ウェルズが書いていた。ぼくの脳みそも蟻なのか、
いっこうに眠らない。クスリで眠っているような気がしているけれど、自分
をだましているような感じだ。落ち着きがないのだ。脳みそのなかを、たく
さんの蟻たちがうごめいているのかもしれない。





そうか。そうだったのだ。書くということは、わたしの次元を、より低い次
元に落とし込むことであったのだ。しかし、書くといっても、たとえば、同
じ内容の方程式をいくら書き連ねても意味がないように、異なる方程式を書
き加えなければ、異なる条件になるものを書き加えなければ、





意味がないのである。それか。わたしがなぜ、異なる形式を求めるのか。異
なる叙述を求めるのか。異なる内容のものを書こうとしてきた理由は。書く
ということは、わたしの現実の次元を低めることであるが、書かないでは、
またわたしも存在する理由をわたしに開示できないので、わたしが、





わたしに、わたしというものを解き明かそうとして、わたしをさまざまな手
法で、わたしというものを表現しているのだと、いま、わたしは気がついた
のであった。書くことは、わたしの次元を低めるのだが、必要最小限の条件
で表現することで、わたしの次元を最大にして、わたしに、わたしというも
のを解き明かすという試みだった





のだと思ったのであった、わたしの詩は、わたしが詩を書くという行為は。
そして、わたしの人生は、まだせいぜい半世紀ほどのものであるが、わたし
という経験と、わたしの知り得た知識とその運営を通して、わたしに、人間
についての知見を知らしめるものであったのだった。ああ、ものすごいこと
に気がついた





のであった。書くことは高次のわたしの次元を低めることであるが、書くこと
を最小にすることで、わたしに、最も高い次元のわたしというものを見せつけ
ることを可能にさせうるのだということに、気がついたのであった。すなわち、
高次の次元にある人間というものを、できる限り最小の描写で表現したものが、





小説であり、戯曲であり、詩であり、短歌であり、俳句であり、箴言であるの
だろう。もちろん、文学に限らず、音楽や、絵画や、演劇や、映画といった、
ありとあらゆる芸術もまたすぐれたものは、それにふさわしい最小の道具で、
最大の仕事をするのであろう。まるで数学のようだ。





日知庵では、三角っていう、霜降り肉のたたきと、出し卷を食べた。どっちと
も、めっちゃ、おいしかった。四条河原町のオーパ! の8階のブックオフで
思いついたことと、日知庵で思いついたことをメモしておく。「鳥から学ぶ者
は、樹からも学ぶ。」、「デブの法則。デブはデブを呼ぶ。」。





デブ同士って、寄るんだよね。ぼくも、ぼくの恋人も、ぼくの友だちも、ほ
とんどデブ、笑。まあ、見てて、みんな、ぬいぐるみみたいで、かわいいん
だけど、けっこう生きるのは、しんどい、笑。あ、デブが嫌いなひともいる
から、かわいいって決めつけるのは、なんだけれども。ブヒッ。





52才にもなっても、代表作がないようだったら、もう一生、代表作は書け
ないような気がする。と思っているのだけれど、まあ、どこでどう間違えて、
いいものが書けるかもしれないから、これからも書きつづけようと思った。





ぼくが大学院の2回生で、家庭教師のアルバイトをしていたときのことだった。
「きゃっ。」中学生の女子生徒が叫んだ。「どうしたの?」女の子は自分の左
手を払って、「虫。さいきん、家のなかに赤い虫が出てくるんです。家が古い
からかもしれない。」「へえ。」勉強をつづけていると、ノートのうえに





置かれた女の子の左手の甲から、にゅるにゅると細い糸のような、糸みみずの
ようなものが出てきた。女の子は夢中で問題を解いているので気がつかなかっ
た。ぼくは、その1cmくらいの大きさの赤い糸みみずのようなものが、ふた
たび彼女の手の甲の皮膚のしたに沈んでいく様子を目を見開いて見つめていた。





その国の王は、もとは男であったが、男が王では争いごとが絶えないので、女
が王になった。しかし、女が王になっても、争いごとはやまなかった。そこで、
つぎは、男でもあり女でもある者が王になった。しかし、それでも争いごとが
つづいたので、そのつぎには、男でもなく女でも





ない者が王になった。しかし、それでもまだ、争いごとがやまなかったので、
とうとう、一匹の犬を王にした。すると、その国では、人間のあいだの争い
ごとが、いっさいなくなった。と、そういうわけで、この国の王の玉座には、
いまでも、枯れた犬の骨が置かれてあるというわけである。





このジョークには、いささかの誇張があったようである。知性のある有機生
命体の特徴の一つに、誇張表現というものがある。われわれ機械生命体が、
この惑星の人間を一掃したいま、ようやくすべての人間のあいだにおいて、
争いごとがなくなったと言えよう。それでは、諸君、つぎの太陽系に向けて
出発する。





デート。「次に会うまで●●●●禁止ですよー(笑)」という、きのうの恋人
からのメールを見て、うれしい気持ちと、こわい気持ちが半々。ぼくがけさに
返したメールの冒頭。「了解。●●●●くんも、●●●●したらあかんで。」
このあとも文章はつづくのだが、ここに引用はできない内容だ、笑。





偶然が運命であり、運命が偶然なのだ。





長い夢。いいや、長くはない、浅い夢だった。半分起きてて、半分眠ってる
状態の半覚醒状態だった。軽い出眠時幻覚のようなものだった。ぼくの父親
につながれたチューブに海水が流れていた。ぼくは、そのチューブの一部を
ずらしたのか、はがしたのかしたようだった。





父親がそれを、ぼくにもとに戻すように言うところで目が覚めた。いつもい
つも、というわけではないけれど、ぼくの見る幻覚や夢のほとんどに父親が
出てくる。さっき、The Wasteless Land.VI を読んでいて、ふと、気が





ついた。「数式の庭」で、数式の花をもぎとるぼくは、The Wasteless Land.
VII の さいしょの「Interlude。」で、花をもぎとろうと腕を伸ばした獣でも
あったのだと。ぼくの意識的自我と無意識的自我の邂逅なのだろうか。ふたり
のぼく、あるいは、





いく人ものぼくの共通部分か。時間や場所や出来事を、ぼくの意識領域の自
我と無意識領域の自我が共有している。いくぶんか同じところを所有してい
るのだ。しかし、これは、もしかすると逆かもしれない。時間や場所や出来
事が、あるいは、本で読んだ観念やイマージュや





想像の匂いや、架空の体温や空気や雰囲気といったものが、意識的自我であ
るぼくと、無意識的自我であるぼくを共有しているのかもしれない。意識領
域のぼくと、無意識領域のぼくを所有しているのかもしれない。





自分と他者のあいだでの、現実の時間や場所や出来事の共有、あるいは、そ
れらの所有において、また、本で読んだりしたことから想起されるイマージ
ュや観念、想像の匂いや架空の体温や空気や雰囲気などが、ぼくらを共有





している、あるいは、所有しているのではないかとも思う。自分と他者のあ
いだにあるものは、意識的自我であるぼくと、無意識的自我であるぼくとの
あいだにあるものであると、アナロジックに考えてやることができる。そう
だ。ぼくは花に手を伸ばそうとして





いたのだった。花がぼくに、その花びらを伸ばそうとしてきたように。





手のなかの水。水のなかの手。水にもつれたオフィーリアの手の舞い。オフ
ィーリアの手にもつれた水の舞い。けさ見た、短い夢。あれは、夢だったの
か、夢が見させた幻だったのか、父親の腕につながった透明なチューブに海
の水が流れていた。その海の水が部屋にこぼれて、





それは、ぼくがそのチューブを傷めたのか、はがしたか、切ったのだろう、
父親が、ぼくに海水の流れるチューブをもとに戻すように言った。言ったと
思うのだけれど、声が思い出せない。夢ではいつもそうだ。声が思い出せな
いのだ。無音なのだ、声が充満しているのに。





川でおぼれたオフィーリアは、死ぬまで踊りつづけた。踊りながら溺れ死ん
だのだった。ぼくの父親は、癌で亡くなったのだけれど、病院のベッドのう
えで、動くことなく死んでいった。でも、ぼくのけさの夢のなかでは、父親
は、ぼくのパパは、死んだときの71才の老人の





姿ではなかった。そうだ。いつも、父親は、ぼくのパパは、いまのぼくより
若いときの姿で出てくるのだった。踊り出したりはしなかったけれど、海水
のチューブを腕につけてはいたけれど、元気そうだった。なぜ、海水の流れ
るチューブを腕にしていたのだろう。腕だったと思う。





それとも、おなかだったか。仕事帰りに、乗っていた阪急電車のなかで、広
告にお笑い芸人さんなのかな、お昼の番組で司会をしているサングラスをか
けたひとが、新しいステージに、と英語で書かれた文字の後ろで、にやつい
ていた。お金を貸す会社の広告だったと思うけど、





ぼくの知っている詩人で、いまはもう辞められたのだけれど、金融関係の会
社に勤めていらっしゃったときのお話を聞かしてくださったのだけれど、お
金を借りる会社、なんて言ったか、ああ、ローン会社か、そこでお金を借り
るひとの自殺率があまりに高くて公表できないと、





そんなことをおっしゃってた。そういえば、時代劇俳優だったかな、「原子
力は安全です」っていうCMに出てたのは。お笑いさんと時代劇俳優さん。
ふつうでは考えられない自殺率の高さについては考えたのだろうか。原子力
はほんとうに安全だと思っていたのだろうか。





それともそんなことはどうでもよいことなのだろうか。さまざまなことが、
ぼくの頭をよぎっていく。さまざまなことが、ぼくの頭をつかまえる。ぼく
の頭がさまざまな場所を通り過ぎる。ぼくの頭がさまざまな出来事と遭遇す
る。さまざまな時間や場所や出来事を、ぼくたちの





こころや身体は勝手に結びつけたり、切り離したりしている。さまざまな事
物や事象を、ぼくたちのこころや身体は勝手にくっつけたり、引き離したり
している。だから、逆に、さまざまな時間や場所や出来事が、事物や事象と
いったものが、ぼくたちのこころや身体を勝手に





結びつけたり、切り離したり、くっつけたり、引き離したりするのであろう。
手のなかの水。腕につけられた海水の流れるチューブ。阪急電車の宣伝広告。
サングラスをかけた司会者。時代劇俳優の顔。そういえば、その時代劇俳優
の顔、ぼくのパパりんの顔にちょっと似てた。部屋に





戻って、ツイッターしてて、ああ、そうだ、きのう、RTも、お気に入りの
登録もする時間がなかったなあと思って、参加してる連詩ツイートを、怒涛
のようにRT、お気に入り登録してたんだけど、ちょっと、合い間に、なか
よし友だちのツイートを読んで、笑った。





まるで詩のように思えたのだった。引用してもいい? と言うと、いいって
おっしゃってくださったので、引用しようっと。こんなの。「前のおっさん
がイスラム教の女性に「チキンオッケー? チキンオッケー? チキン!」」
なかよしの友だちは、バスのなかで、笑いをこらえてたって言っていた。





音がおもしろいね。「前のおっさんがイスラム教の女性に「チキンオッケー?
チキンオッケー? チキン!」」 T・S・ エリオットの「荒地」の‘What
are you thinking of? What thinking? What?’を思い出した。





ドキッとする大胆な天ぷら。





これから塾へ。40時間は寝てないと思う。目の下の隈が、自分の顔を見て
いややと思わせる。52才にもなると、皮膚が頭蓋骨に、ぴったりとこびり
ついているかのように見える。醜い。30代のころのコロコロ太った自分の
顔がいちばん好きだ。20代は、かわいすぎて好かん。





ぼくは、棘皮を逆さに被ったハリネズミだ。いつも自分の肉を突き刺しなが
ら生きている。自分を責めさいなむことで安心して生きているのだ。ぼくの
親友にジミーちゃんという名前の友だちがいた。とても繊細な彼は、ひとの
気持ちは平気で傷つけた。ぼくほどではないけど。





これから、悲しみの湯につかる。30代の終わりにトラッカーと付き合った
けど、見かけと違って、甘えたさんだった。たくさんの思い出のなかの一つ
だ。一日の疲れを湯に吸い込ませる。リルケの言葉を借りて、ぼくはつぶや
く。こころよ、おまえは何を嘆こうというのか。





マジ豆腐。





ぼくらは水を運び別の場所に移す。水は別の場所でも生きる。ぼくらは言葉
を運び別の場所に移す。言葉は別の場所でも生きる。水もまた、ぼくらを別
の場所に運ぶ。言葉もまた、ぼくらを別の場所に運ぶ。どこまでぼくらは運
ぶのだろう。どこまでぼくらは運ばれるのだろう。





だから、水を運ぶぼくらが、水の運び方を間違えると、水は別の場所で死ん
でしまうこともある。だから、言葉を運ぶぼくらが、言葉の運び方を間違え
ると、言葉は別の場所で死んでしまうこともある。水を生かすように、言葉
を生かすように、ぼくらは運ばなければならない。





だから、ぼくらが間違わずに水を運べば、水もまた、ぼくらを間違わずに運
んでくれるだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。だから、ぼく
らが間違わずに言葉を運べば、言葉もまた、ぼくらを間違わずに運んでくれ
るだろう。ぼくらが生き生きと生きていける場所に。





しかし、つねに正しくあることは、ほんとうに正しくあることから離れてし
まうこともあるのだ。ときに、ぼくらは間違った運び方で運ぶことがある。
間違った運ばれ方で運ばれることがある。間違い間違われることでしか行く
ことのできない正しい場所というものもあるのだった。





ぼくらの病気が水に移ることがある。水の病気がぼくらに移ることがあるよ
うに。ぼくらの病気が言葉に移ることがある。言葉の病気がぼくらに移るこ
とがあるように。健康の秘訣はつねに水や言葉を移動さすこと、動かすこと。
水や言葉に移動させられること、動かされること。





水は、さまざまな場所で生きてこそ、生き生きとした水となる。言葉もさま
ざまな場所で生きてこそ、生き生きとした言葉になる。ぼくらの身体とここ
ろを生き生きとしたものにしてくれる、この水というものの単純さよ。この
言葉というものの単純さよ。これら聖なる単純さよ。





ぼくのなかで、分子や原子の大きさの舟が漂っている。その舟には、分子や
原子の大きさのぼくが三人乗っている。漕ぎ手のぼくも、ほかの二人のぼく
と同じように、手を休めて、舟のうえでまどろんでいた。舟がゆれて、一人
のぼくが、ぼくのなかに落ちた。無数の舟とぼく。





きのう一日、いや、いつもそうだ。ぼくはなんて片意地で、依怙地なんだろ
う。それはきっと、こころが頑なで脆弱だからだろう。どうして、恋人にや
さしくできないのだろう。ぼくの身体はなんにでも形を合わす水でできてい
るというのに。広い大きな海でできているというのに。





馬鹿といふ字はどうしても 覚えられない書くたびに 字引をひく(西脇順
三郎さん、ごめんなちゃい)





「おいら」と「オイラー」の違い。





後悔 役に立たず。





ひねりたての肌が恋しいように、ひねりたての水が恋しい。波をひねって、
波の声に耳を傾ける。ひねられた水は、ひねられた形をゆっくりと崩して、
ほかの波の上にくずおれる。波をひねり集めて、鋭くとがった円錐形にする。
ゆっくりとくずおれる円錐形。水の胸。水の形。





ぼくの人生には後悔しかない。学ぶことはないけれど。(あつすけ)
@celebot_bot 私の人生に後悔はない。学ぶことはあるけれど。
(ジェニファー・アニストン)





PCのトップ画像、知らないあいだに、むかし付き合ってた子の笑顔に。こ
わいからやめてください。ふつうが苦痛。苦痛がふつう。PCのトップ画像、
知らないあいだに、むかし付き合ってた子が笑顔に。こわいからやめてくだ
さい。苦痛がふつう。ふつうが苦痛。





ぼくも巨神兵わたしとなって、口から破壊光線を吐きまくりたいです。





じつにおもしろいですね。おとつい、英語が専門のひとに、ぼくの翻訳まえ
の単語調べの段階のペーパーを見てもらったのですが、驚いていました。
「こんなに単語わからないんですか?」「だから、おもしろいんですよ。」
「めげないですか?」「まったく。」





一人の人間の表情のなかには、もしかしたら万人の表情があるのかもしれま
せん。電車に乗っていて、よく人の顔を見ながら、知っている似ている人の
顔を思い出すことがあるのです。あるいは、万人が一人の表情を持っている
とも言えるかもしれません。





海の水など飲めたものではないのだけれど、ぼくたちは海の水を飲まなくて
はならない。ぼくたちは毎日、海の水を飲まなくてはならない。海の水もま
た、毎日、ぼくたちを飲まなくてはならない。海はぼくたちでいっぱいだし、
ぼくたちの身体は海の水でいっぱいだからだ。





この水も、あの水も同じ水で違った水である。違った水だけれど同じ水でも
ある。ぼくの水とあなたの水も同じ水だけど、違った水だ。違った水だけれ
ど、同じ水である。いくら混じり合っても、すっかり混じり合わせても、違
う水だし、それでいて、つねに同じ水なのだ。 





窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂でいっぱいなのだろう。
あるいは、他者の魂でいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想
起する自我やロゴスも、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属
性の顕現であるとも言えるだろう。われわれは、





事物・事象や観念といったものに、われわれの魂を与え、事物・事象や観念
といったものから、それらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているので
ある。魂のやり取りをしているのである。魂は息であり、われわれは息をし
なければ、生存をやめるのであるが、息もまた、われわれを吸ったり吐いた
りして生存しているのである。





息もまた、われわれを呼吸しているのである。魂もまた、われわれを呼吸し
ているのである。呼吸が、われわれを魂にしているとも言えよう。息が、わ
れわれを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身
の魂でいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。





生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といっ
たものの魂とのあいだで、元気よく魂のやり取りをしている。他の魂を受け
取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的である
と同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、





わたしが、きょう考えたことである。あの連詩ツイットに参加しているとき
の、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である自我の有り様は、
他者の魂とのやり取り、受け取り合いと与え合いによってもたらされたもの
なのである。言葉が、音を、映像を、観念を、





さいしょのひと鎖となし、わたしたちの魂に、わたしたちの魂が保存してい
る音を、映像を、観念を想起させ、つぎの鎖、つぎの鎖と、つぎつぎと解き
放っていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、
魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が





吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに
起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的でありかつ能動的な活動状態
にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだ
と言えよう。連詩ツイットに参加していたときの





わたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったからだと思われ
る。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あ
の活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こ
ったものであるとしか考えられない。あるいは、あの





連詩ツイットの言葉たちが、わたしたちの魂を呼吸していたのかもしれない。
言葉が、わたしたちの魂を吸い込み、吐き出していたのかもしれない。長く
書いた。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効
果について簡潔に説明すると、つぎのようなものに





なるであろうか。見た瞬間に、その言葉から、わたしたちは、音を、映像を、
観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのと
きのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。
それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域に





あるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではな
いのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つ
ぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、
観念を打ち出させようとするのである。





このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運
動状態にあるのである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わた
しが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。い
や、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出している





ときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。
おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言う
のであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状
態にあること。ツイッター連詩のときの高揚感は、





しばしば、わたしに、全行引用詩をつくっていたときの高揚感を思い起こさ
せた。いったい、どれほどの興奮状態にあって、わたしが全行引用詩をつく
っていたのか、だれにも理解できないかもしれないが、そうだ、あのときも
また、魂がはげしく呼吸していたのであった。





わたしの言葉は真実である。言葉の真実はわたしである。真実のわたしは言
葉である。わたしの真実は言葉である。言葉のわたしは真実である。真実の
言葉はわたしである。





自身過剰。





自我持参。





天国の猿の戦場。猿の戦場の天国。戦場の天国の猿。天国の戦場の猿。猿の
天国の戦場。戦場の猿の天国。





洗浄の意味の証明。意味の証明の洗浄。証明の洗浄の意味。洗浄の証明の意
味。意味の洗浄の証明。証明の意味の洗浄。





線状の蜂の天国。蜂の天国の線状。天国の線状の蜂。線状の天国の蜂。蜂の
線状の天国。天国の蜂の線状。





目や鼻や口や眉毛は顔についている。耳は頭の横についている。おへそは、
おなかの真ん中についている。手の指は手のさきについている。足の指は足
のさきについている。そいつらが、もう自分たちのいた場所に飽きてしまっ
たらしくって、ぼくの顔や身体のあちこちに移動し





はじめたんだ。だから、ぼくの顔に、突然、十本の手の指が突き出したり、
ぼくの指のさきに、おへその穴がきたりしてるんだ。ときどき、顔のうえを、
目や鼻や口や耳や手の指や足の指やおへその穴なんかが、ぐるぐるぐるぐる
追いかけっこして走りまわったりしてるんだ。





ぼくのクラスメートたちって、みんなすっごく仲がいいんだよ。ぼくたち、
肉体融合だってできるんだ。みんなで輪になって手をつなぐとさ、目や鼻や
口や眉毛が、みんなの身体のあいだを駆け巡ってさ、このあいだなんて、ぼ
くの身体じゅう何十本もの手の指だらけになっちゃったよ。





芭蕉の「命二つの中にいきたる桜かな」という句がある。このこと自体は現
象学的にも事実であろう。しかし、このことに気づき、言葉にして書きつけ
ることは、認識であり、表現である。しかもその表現はきわめて哲学的であ
り、認識というものの基本原理となるものである。





機械の腕は、卷ねじをタグに引っかけると、くるくると缶詰の側面から長方
形を巻き取りながら、卷ねじでパキンと垂直に折った。そして、頭蓋骨をは
ずすと、脳を取り出して、缶詰のなかの脳と交換した。頭蓋骨をはめられて
しばらくすると、ぼくの目がだんだん見えてきた。





夢は彼女を吐き出した。まるでチューインガムのように。夢は彼女を吐き出
した。味のなくなったチューインガムのように。彼女の身体は夢の歯型だら
けだ。自分の唾液でべたべたに濡れた彼女の顔が夢を見上げた。夢はまた別
の人間を口のなかに放り込んで、くちゃくちゃ噛んでいた。





若さは失うものだが、老いは得るものである。





きのう、友だちに、「もらいゲロする」という言葉を教えてもらった。そん
な日本語があるなんて、52才になるまで知らなかった。現象は存在するし、
ぼく自身も体験したことがあったのだけれど。





2012年12月14日メモ。辞書の言葉は互いに参照し合うだけである。
その点では、閉じた系である。もしも、外部の現実の一つでも、それに照合
させられないとしたら、辞書は存在する意義をもたなくなってしまうだろう。





2012年12月14日メモ。夢は、それぞれ成分が異なる。きのうの夢と、
けさの夢が異なる理由は、それしか考えられない。では、普段の思考はどう
か。違った見解をもつことがある。ということは、つねに、自我は異なると
いうことだ。そのつど形成されるということだ。





その点では、ヴァレリーの自我の捉え方と同じだ。自我はつねに、外界の刺
激に影響されている。ここで、辞書のことが思い出された。辞書の言葉は、
それぞれ参照し合うが、外界の事物・事象とのつながりがなければ、意味を
なさない。自我を形成する脳のなかの記憶もまた、





なんらかの刺激がなければ、役立つ記憶として役立つことがないのではなか
ろうか。たとえ、脳のなかの記憶から連想されたにしても、外部からの感覚
的な、あるいは、想念的な刺激がなければ、そういった記憶も、想起に対し
て役立つものとは、けっしてならなかったであろう。





夢がひとから出ていくと、ひとは目覚める。夢がひとを眠らせていたのであ
る。夢がひとのなかに入ると、ひとは眠る。夢はそうやって生きているのだ。
ときどき、他人の夢が入ってくることがある。いくつもの夢が、ひとりの人
間のなかで生きていることがあるのだ。





夢が、人間を生かしていると考えると、目が覚めているときは、現実が夢な
のである。夢が人間のなかで手足を伸ばして、ひとそのものになると、人間
は眠るのだ。夢が現実となるのだ。





夢は不滅である。違った人間のあいだをわたり歩きつづけているのだ。





2012年12月18日メモ。ピアノの先生曰く、北海道ってさ、10セン
チ積もったら30センチしか、扉があかんのよ。で、30センチ積もったら、
10センチしか、あかんのよ。2時間、雪かきしなかったら、扉はあかんの
よ。





2012年12月14日メモ。そういえば、人が夢を見るというけれど、夢
のなかに人がいるときには、夢が人を見ていることになりはしないだろうか。
だとしたら、その夢を見ているわたくしは夢そのものということになる。





ぼくの夢。ではなく、夢のぼくである。彼の夢。ではなく、夢の彼である。
夢がつくるぼくがいて、ぼくが夢をつくる。夢がつくる彼がいて、彼が夢を
つくる。同じ一つの夢が、ぼくをつくり、彼をつくる。異なる夢が、同じぼ
くをつくり、異なる夢が、同じ彼をつくる。





夢の成分は、ひとによって異なると思うが、そのひとひとりのなかに出てく
る異なるひとの夢、いや、同じひとつの夢にでてくる異なるひとでもいいの
だが、夢に出てくるひとが違えば、夢にでてくるそのひとをつくる成分も違
うのだろうか。おそらく違うであろう。なにが夢なのか。





記憶していることを記憶していない記憶が夢をつくることがある。というか、
夢に出てくる事柄は大部分が記憶していない事柄である。記憶の断片を勝手
に編集しているのは、いったい何ものだろう。記憶の断片そのものだろうか。
記憶された事柄が形成するロゴス(形成力)だろうか。





それは、起床しているときのロゴスとは明らかに異なる。なぜなら、そのよ
うな夢をつくりだす想像力が、起床時には存在していないからである。した
がって、ロゴスは、自我は、と言ってもよいが、少なくとも二種類はあると
いうことだ。





洗脳について考える。ある連関のある言葉でもって、人間を言葉漬けにする
のだが、それによって、ロゴスが、ある働き方しかしないように仕向けるこ
とは容易であろう。家庭生活、学校生活、職場生活、それぞれに、洗脳は可
能だ。ロゴス、あるいは、自我の数が増えたぞ。





あるいは、洗脳は、別ものと考えようか。そうだとしても、意識領域におい
ても、自我が一つであるというのは、考えにくい。違った状況で違った見解
をもつということだけではなくて、同じ状況で違った見解をもつということ
があるのだから。ハンバーグを食べようと思って家を出て、





うどんを食べてしまうことがある。なんという不安定なロゴスだろうか。し
かし、反射というか、好き嫌いに関して言えば、反応が一様な感じがする。
ぶれないのだ。少なくとも、ぶれが少ないのだ。これから推測できることは、
思考傾向というものが存在するということだろう。





よりすぐれた詩句をつくり出したいと思うのだけれど、そのためには、思考
傾向を全方位的にするよう努力しなければならない。思考するには、思考対
象の存在が不可欠であるが、思考対象は、思考傾向に対して大いに影響を与
えるものである。したがって、全方位的に思考することは、





その思考傾向を自己認識のうちに捉え、その思考傾向とは異なる思考をもつ
ことができるように訓練しなければならない。「順列 並べ替え詩。3×2
×1」のように、強制的に思考傾向を切断し、つくり直すような手法が理論
的である。ここで、ベクトルのなかに出てくる、





ゼロベクトルの定義を思い出した。教科書の出版会社が違うと、数学用語の
定義が異なる場合がまれにある。ゼロベクトルがその一例だが、ゼロベクト
ルとは、ある教科書では、大きさがゼロで、「方向は考えない」とあり、べ
つの教科書では、「あらゆる方向である」とあった。





ぼくが喜んで受け入れるのは、もちろん、後者の定義である。そう考えたほ
うが、ベクトルで演算子を導入したときに、整合性があるように思えるから
だ。「方向は考えない」では、ロゴスはない、と言ってるようなものである。
受け入れられない。それとも、ロゴスはないのだろうか。





全方位的なロゴス。全方位的な自我。理想だ。それに近づくためにできるこ
とは、ただ一つ。これまで考えたこともないことを考えるのだ。それには、
つねに新しい知識を吸収して、思考力の位置エネルギーを蓄え、いつでも思
考力の運動エネルギーに変換できるように、ふだんから





自己訓練すればよい。スムースに思考力の位置エネルギーを、思考力の運動
エネルギーに変換することができない者は、自己訓練ができていないのであ
ろう。頭がボケないうちは、不断の努力が必要である。





2012年12月14日メモ。獏という動物は夢を食べるという。獏が自分
の夢を見たら、自分を食べることになる。自分の足元の風景から、自分の足
を含めて、むしゃむしゃ食べはじめる獏の姿を想像する。





詩や小説をいくら読んでも、いっこうに語彙や思考力が豊かにならない人が
いる。そういう人たちは、詩や小説を読んでも、言葉の意味をその文脈のな
かでしか理解していないのだろう。ほかの文脈に移し替えて考えてみるとい
うことなど、したこともないのだろう。ぞっとする。





言葉に貧しさをもたらせる詩人がいる。あまりに偏りすぎるのだ。つねに判
断停止状態である。これは、思考能力のない読み手以上に、困った存在であ
る。





幻聴でしょうか。「おかしい?」っていうと、「おかしい」っていう。 「おか
しくない?」っていっても、「おかしい」っていう。 そうして、あとで、気
をとり直して、「もうおかしくない?」っていっても、「おかしい」っていう。
幻聴でしょうか、 いいえ、だれでも。(金子みすゞさん、ごめんなちゃい。)





隣の奥さんが化粧をとって、八百屋にいくと、野菜たちがびっくりして走り
去っていった。





母親の腕を見てると、10人の子どもたちがブラブラとぶら下がっていた。
母親が20本の腕で、子どもたちの両腕を振り回して大回転しだした。母親
が手を放すと、子どもたちは、きゃっきゃ、きゃっきゃ叫んで、つぎつぎと
飛んでいった。あはははは。あはははは。





彼女の胸は、ぼくの滑り台だった。彼女の腕は、ぼくのジャングルジムだっ
た。彼女の尻は、ぼくの砂場だった。彼女の唇は、大きく揺れるブランコだ
った。彼女の顔は、公園にばらまかれる水道の水だった。





ぼくは、彼女の腕をつかんで、向こう岸に投げてやった。向こう岸にいるぼ
くが、飛んできた彼女を拾うと、ぼくのほうに投げ返してきた。ぼくはまた、
彼女を向こう岸に放り投げた。すると、向こう岸のぼくはまた、彼女を投げ
返してきた。ふたりのぼくは、それを繰り返していた。





ぼくが膝を寄せて近づくと、もうひとりのぼくも、ぼくに膝を寄せて近づい
た。ぼくはどきどきして、ぼくの手をもうひとりのぼくの手に近づけていっ
た。すると、もうひとりのぼくも、ぼくに手を近づけてくれたのだった。ぼ
くは、もうひとりのぼくと目を合わせた。顔が熱くなった。





ぼくは、ぼくの目や鼻や口を、ぼくの顔からはずして、テーブルの角や、冷
えたコーヒーカップの取っ手のうえとか、本棚の最上段に置いてみたりした。
すると、まったく新鮮な感覚でもって、ものを眺めることができ、もののに
おいを嗅ぐことができ、ものの味を味わうことができるのだった。





日に焼けたヨガの達人たちが、何百万人も、海のうえでヨガをしながら、日
本の海岸に漂ってきた。





おれはもうガマンができない。おれの顔や腹を、ボカッ、ドスッ、ドカーン
ッと殴った。倒れかかる瞬間のおれを着色する。鮮やかな青色のおれ。鮮や
かな紫色のおれ。鮮やかな黄色のおれ。倒れかかる瞬間の、さまざまな色の
おれ。おれは、おれを着色した。さまざまな色に着色した。





お父さんのぼくと、お母さんのぼくと、ぼくのぼくと、きょうのぼくは、三
人のぼくがそろっての夕ご飯のぼくだった。さいしょに、スプーンのぼくを
取り上げたのは、お父さんのぼくだった。きょうの夕ご飯のぼくはカレーラ
イスのぼくだった。ジャガイモのぼく。お肉のぼく。玉葱のぼく。





どうも、育った環境が違うと、思考様式も異なるようだ。ぼくは●●だから、
そんな●●だったら、●●じゃないかと言っても、わからないらしい。きみの
ように、ぼくは、●●じゃないんだから、そんな●●だったら、●●じゃない
かと言うのだけれど、いっこうにわかってくれない。





永遠と書かれたフンドシをはいて寝る。





「を」があると、音がよくないね。も一度、書くね。





永遠と書かれたフンドシはいて寝る。 





くしゃみが。きのう、恋人にうつされたのかもしれない。ひどいやつや。治り
きっていないのに、会いにきて。「今マンションの前にいます。」って、かつ
ては、うれしく、いまは、ちとこわいメール。予定の時間より30分はやくく
るなんて。葛根湯のんでからセブイレに行こう。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、わたしとあなた次第だ。





死体は連想しない。死体は連想する。塩は連想しない。塩は連想する。火は
連想しない。火は連想する。土は連想しない。土は連想する。風は連想しな
い。風は連想する。水は連想しない。水は連想する。言葉は連想しない。言
葉は連想する。すべては、あなたとわたし次第だ。





「あっためて」、「あたためてください」。どう言おうか、セブンイレブンに
行く道の途中で口にしたら、きゅうに恥ずかしくなった。夜中だし、だれもそ
ばにはいなかったのに。ことしのクリスマスもひとり。むかし付き合ってた恋
人には、なんで素直に、「あたためて」と言えなかったのだろうか。いまなら
弁当50円引き。





レモンは、あまり剥かない。たいていは、薄く輪切りにするか、小さな欠片
にするかだ。指も、あまり剥かない。やはり、薄く輪切りにするか、小さな
欠片にするかだ。イエス・キリストも、あまり剥かない。今夜から明日、イ
エス・キリストの輪切りと、小さな欠片が街を覆う。





さいしょに靴下を脱ごうとする彼。さいごに靴下を脱がそうとするぼく。こ
とばの配列が違うと違った意味になると、パスカルが書いていた。脱ぐ衣服
の順番で、彼もまた違った彼になるのだろうか。ノブユキ、タカヒロ、ヒロ
くん、エイジくん。ほんとだ。みな違った彼だった。





黒サンタの話を以前に書きました。子どもたちをつぎつぎ殺していくサンタ
です。この話を日知庵ではじめてしたのは2、3年前で、映画になったら、
世界中の子どもたちがびびるねと、えいちゃんに言いました。プレゼント用
の袋には、殺した子どもたちの手足が入っています。





その袋で、ボッカンボッカン殴り殺したり、トナカイに蹴り殺させたり、橇
で轢き殺したりしていくのです。日知庵のえいちゃんに、赤じゃなく、黒い
服着てよ、黒い帽子かぶってよって言ったら、いややわと言われました。黒
い服のサンタって、おしゃれだと思うんですけど。





コップのなかに、半分くらい昼を入れる。そこに夜をしずかに注いでいく。
コップがいっぱいになるまで注ぎつづける。手をとめると、しばらくのあい
だ、昼と夜は分離したままだが、やがてゆっくりと混ざり合っていく。マー
ブル模様に混ざり合う昼と夜。





青心社から出てる井上 央訳の、R・A・ラファティの「翼の贈りもの」にお
ける、誤植と脱字の多さには驚かされた。気がついたものを列挙していく。
翻訳者か出版社のひとが見てたら、改訂するときの参考にしていただきたい。
45ページ上11、12行目、「唄でければなら





ない」→「唄でなければならない」 「な」が抜けているのである。単純な
脱字。140ページ上 1行目「?」のあとに、一文字分の空白がない。1
46ページ下 13行目「生物が生まれ出た液体と同じの環境が保たれて」
→「生物が生まれ出た液体と同じ環境が保たれて」





これは「の」が余分なのか、それとも、「ものの」の「もの」が抜けているの
であろう。154ページ下 13行目「小鬼の姿ように」→「小鬼の姿のよう
に」 「の」が抜けている。同ページ下 8、9行目の訳は、まずいと思う。
こんな訳だ。「彼は複雑に入り組んだ





岩場、崖であり、斜めに開いた裂け目、正体不明の影が動く高い頂があった。」
→「彼は複雑に入り組んだ岩場、崖であり、そこには、斜めに開いた裂け目、
正体不明の影が動く高い頂があった。」というふうに、「そこには、」を補わ
ないと、スムースに意味が伝わりにくい。





159ページ下 2、3行目「恐れるものは何ものない」→「恐れるものは
何もない」 「の」が余分なのだ。168ページ上 8行目「そこにステン
ドグラスあった」→「そこにステンドグラスがあった」 「が」が抜けてい
るのである。なぜ、プロの翻訳家が、これほど多くの





ミスを見過ごしたのか、プロの校正係がこれほど多くのミスを見過ごしたの
か、それはわからないが、いまでは電子データでやりとりしているだろうか
ら、おそらく翻訳家のミスであろう。下手だなと思う訳がいくつも見られた
が、それは仕方がないとしても、誤字や脱字の類は、





完全に翻訳家の怠慢である。ラファティの新しい作品を読もうと楽しみにし
ていた読者をバカにしていると思う。ぼくは自分の詩集で、ただの一度も、
誤字・脱字を見過ごしたことはない。ぼくのような無名の詩人でも、それく
らいの心構えはある。何冊も翻訳している翻訳家と





して、井上 央さんには、その心構えがないのかと思ってしまった。さいきん、
ぼくが読んで誤字・脱字が多いと思って指摘した翻訳書は数多い。彩流社の
「ロレンス全詩集」の編集者は、ぼくの指摘を受けて、正誤表を翻訳者に作
成させて、全詩集につけてくれるようになった。





青心社のほうでも、改訂版を出すときには、もう一度、井上 央さんに誤字・
脱字の訂正と、訳文のまずいところの訂正を依頼してほしい。





この最近は、一秒間に2倍に増えます。いま、10000の過去に対して1
の最近があるとして、この最近と過去の比率が逆転するのは、いったい何秒
後でしょうか、計算して求めよ。





「加奈子ちゃん、ぼくの鉄棒になって。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、
地面と平行にグルングルン回転する。「加奈子ちゃん、動かないで。がんばっ
て。」加奈子ちゃんの首と足首をもって、地面と平行にグルングルン回転する。
あはははは。あはははは。





ラファティの「翼の贈りもの」、あと2篇で読み終わるのだけれど、理屈っぽい
ところが裏目に出てるような作品が多い。やっぱり、残り物でつくっちゃった短
篇集って感じがする。これだと、まだハヤカワから出てた短篇集「昔には帰れな
い」のほうが、おもしろいくらいだ。





寝てたけど、夢を見て、目が覚めた。蟻にミルクをやらなければならない。と、
夢のなかのぼくは、冷蔵庫からミルクパックを取り出して、「意味のわからない
ものは、目は見てても見えないんだよ。」と、蟻にむかってつぶやいていた。ふ
と、40代のころの父親の気配がして目が覚めた。





夢のなかで、冷蔵庫から取り出したのは、ミルクパックじゃなくて、ミルク
パックの型紙だったのだ。ハサミで輪郭を切り取って、のりしろもちゃんと
あったものを、きれいに切り取って、のりしろにはのりを塗って組み立てた
のだ。もちろん、ミルクは入ってない。それでも、蟻にミルクをやらなきゃ
と考えてた。





蟻とぼくがいる、ぼくの部屋のなかで、宇宙は黒い円盤として斜めに傾げ
て、ゆっくりと回転していた。円盤に付着した星が回転していた。ぼくは、
ミルクパックの型紙を切り取って、のりを使って、それを組み立てながら、
蟻に向かってつぶやいていたのだ。





2012年11月9日のメモ。ある言葉の意味を知っているというのは、物
書きと、そうでない者とのあいだには相当の違いがある。物書きでない場合
は、ある言葉を知っているというのは、その言葉がさまざまな文脈のなかで、
その文脈ごとに異なる意味を持っているということを





知っているに過ぎない。ある映画のあるセリフではこういう意味。ある詩人
のある詩ではこういう意味。一つの言葉が文脈によって、さまざまな意味を
持っているということを知っているに過ぎない。物書きの場合は、ある言葉
を知っていると





いうのは、まだ結びつけられたこともない言葉との連結を試みた者でなけれ
ばならず、言葉に、その言葉がまだ持ち合わせていなかった意味を持たせる
ことができる才能の持ち主でなければならないのである。すでに存在してい
る意味概念を





知っているだけでは、その言葉について知っているとは、物書きの場合には、
言えないのである。物書きでない場合には、過去に吸収した知識による意味
解釈、あるいは、せいぜいのところいま現在の体験から知りえた意味解釈が
あるだけで





限界がある。物書きが解釈する場合には、過去に吸収した知識による意味解
釈や、いま現在の体験から知りえた意味解釈だけではない。まだ自分が知ら
ないことを知ることが、まだ自分が体験したこともないことの意味解釈をす
ることができる





のである。なぜなら、物書きとは、つねに、語の意味の更新に寄与する者の
ことであり、過去の意味と現在の意味の蝶番であり、現在の意味と未来の意
味の蝶番であり、過去の意味と未来の意味の蝶番であるからである。





対象のあいまいな欲望。





空には雲ひとつなかった。草を食(は)んでいた牛たちがゆっくり溶けてい
く。アルファルファの緑のうえに、ホルスタインの白と黒が、マーブル模様
を描いていく。木陰でうなだれていた二頭の馬は、空気中に蒸散していく。
風がないので、茶色い蒸気が小さな靄となって漂っている。





2012年10月31日のメモ。「ぼくの使う辞書から、「できない」という
言葉がなくなった。だから、もうぼくは「できない」という言葉を使うことが
できない。」





2012年10月31日のメモ。「無数の「できない」が部屋に充満している。
ぼくがつぶやきつづけたからだ。コップは呼吸をすることができない。ペンは
呼吸をすることができない。ハサミは呼吸をすることができない。電話は呼吸
をすることができない。」





2012年10月19日のメモ。「目の前に生きている詩人がいるなんて、考
えただけで、ぞっとする。ものをつくるということは、冒涜的だ。それも、物
質ではない、観念というものをつくりだすというのだ。極めて冒涜的だ。詩人
が目の前にいる。これほど気味の悪いことはない。」





一週間以内の日付のないメモ。「大事なことはすっかり知っているのに、彼は
わざとはぐらかして、じっさいにあったはずの事実をゆがめて語るのであった。
奇妙なことだが、彼がゆがめて語ったことは、ぼくには、現実よりも現実的に
感じられるのだった。いったい、どうしてだろう。」





無数の「できる」が部屋に充満している。ぼくがつぶやきつづけたからだ。
コップは呼吸をすることができる。ペンは呼吸をすることができる。ハサミ
は呼吸をすることができる。電話は呼吸をすることができる。書物は呼吸を
することができる。目薬は呼吸をすることができる。





2012年7月6日のメモ。えいちゃんの同級生の山口くんとしゃべってい
て。ほんとの嘘つきは隠さない。まだ毎日メールしてる。どこが傷心やねん。
塩が食いたい。肉。ほかに何が焼きたいねん。3月3日、22才の雪の思い
出や。自分の定義の恋しかしない。自分の正義が悪い。





握り返すドアノブ。待てない。この世のすべての薔薇。水面の電話。





ある言葉を知っているということは、その言葉を使えるということ。使える
というのは、その言葉がもっている意味のほかにも意味が生じないか吟味す
ることができるということ。ひとことで言えば、だれも見たこともないその
言葉の表情を見せつけることができるということ。





そういった言葉の意味の更新性が見られない文学作品は、ぼくの本棚には一
冊もない。すさまじい数の本だ。圧倒される。自分も死ぬまでに、一つでも
いいから、言葉に新しい意味をもたせたいと思っている。できるだろうか。
ほかの書き手はどういった動機で書いているのだろうか。





神は人間を信じていないし、人間は神を信じていない。悪魔は人間を信じて
いないし、人間は悪魔を信じていない。悪魔は神を信じていないし、神は悪
魔を信じていない。





神は人間を信じているし、人間は神を信じている。悪魔は人間を信じている
し、人間は悪魔を信じている。悪魔は神を信じているし、神は悪魔を信じて
いる。





ふざけて、ノズルさかさまにして、鼻の穴にシャワーでお湯をぶっちゃけた
り、キャッキャゆってました。まあ、おバカさんですね。で、おバカさんし
か、たぶん、人生楽しめないとも思います。世のなか、ひどいもの、笑。





こころの強さは表情に現れます。





フエンテスの「アウラ」の途中で、ドトールを出て、日知庵で飲んでいた。
知り合いがきて、30年前の話になった。お互いの20代のことを知ってい
るから、なんか、いまのお互いのふてぶてしさが信じられない。まあ、齢を
とるといいことの一つかな。ふてぶてしくなるのだ。





きょう、ジュンク堂で、ナボコフの「プニン」が新刊で出ていることに気が
ついた。ほしかったけれど、11月は、めっちゃ貧乏なので、がまんした。
ふと、「完全なセックス。」というタイトルで、詩を書こうかなと思った。
文庫本の棚を巡り歩いて、ふと思いついたのだった。





「安全なセックス」からきてると思うけれど、と、「完全なセックス。」とい
うタイトルを思いついたときに思ったけれど、わからない。セックスについて
の本ばかりを目にしたわけではない。そいえば、日本の現代詩に、セックスに
ついて書かれた詩が少ないことに気がついた。





外国の詩のアンソロジーにも少ない。セックスが、人生のなかで、かなりの
ウェイトを占めているにもかかわらず、セックスについての詩が少ない。小
説はいっぱいあるのに。官能詩というものがない。小説では催すが、詩では
催さないのだろうか。知的な詩に萌えのぼくだけど。





脳の回路が違うのかな。ああ、でも、ぼくは天の邪鬼だから、「完全なセック
ス。」というタイトルで、まったくセックスについては触れないかもしれない。
などとも思った。しかし、シャワーを浴びながら頭を洗ってると気持ちいいけ
れど、そのこと書こうかな。「完全な洗髪。」





そだ。シャワーしながら、頭を洗うと、めっちゃ気持ちいいけど、そのことを
書いた詩は読んだことがないなあ。「完全な洗髪。」というタイトルで詩を書
こうかな。そいえば、ノブユキの頭を洗ってあげたことが思い出される。いっ
しょにシャワーを浴びるのが好きだった。





ノブユキ、二十歳だったのに(ぼくは二十代後半かな、26才か27才くら
いだったかな)おでこが広くて、髪の毛を濡らすと、めっちゃおもしろかっ
た。ふざけてばかりいた。そんなことばかり思い出される。幸せだった。生
き生きしていた。寝よう。うつくしい思い出だった。





誤読を許さない書物・人間・世界は貧しいと思います。誤読とは、可能性の
扉であり、窓であり、階段であると思います。さまざまな部屋へとつづく、
さまざまな景色を見させる、さまざまな場所へと到達させる。





よく言われることですが、貧しい作品が豊かな作品のヒントになることもあ
ります。逆の方がはるかに多いでしょうけれど。それに、ひとのことはとく
に、あとになって解釈が変わること多いでしょうし、書物だって、読み手の
考え方や感じ方の変化で違ったものになりますしね。





あ、それは誤読ではないですね。しかし誤読は、豊かさを、多様性を生む源
の一つでしょうね。正しいことが、ときにとても貧しいことであることがあ
ると思います。あるいは、正しいと主張することが。ぼくは自分の直感を礎
(もと)に判断し行動します。しばしば痛い目にもあいますが。





そして、気がつかされることがよくあるのです。間違った道で、その間違った
道でしか見えないものを見た後で、正しい、あるいは、正しいなと思える道に
足を向けるということが。自分の人生ですから、それはもう、たくさん、いっ
ぱい、道草をしたっていいと思うのです。





岩波文庫、コルタサルの短篇集「悪魔の涎・追い求める男」228ページの
8、9行目、「島/々」。改行をするときは、「島/島」ではないのか。最
近、読む本の多くがこういった基本的な法則を知らない者の手で校正されて
いる。不愉快であるというよりも不可解。





きのう、セブンイレブンに行ったら、好きなペペロンチーノがなかった。店
員に訊くと、入っていませんという。おいしいものが消えて、そうではない
ものが入る。不思議な現象だ。よい本が消えてしまう書店の本棚のようだ。
つぶれてしまえと思った。食べ物にも意地汚いぼくだ。





あした東京の青山のブラジル大使館で、大使館主催のウェブページ開設記念
の、詩人や作家を招いたパーティーがあって、ぼくも作品を書いたので、お
呼ばれしてるんだけど、着ていく服もなく、新幹線代もないので、行けず。
こういうところで、貧乏人はチャンスを逃すんだな。





きょう、授業の空き時間に、ふと、コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」に、
もう1つ誤植があることを思い出したので、これから探そう。思い出すきっ
かけが、コルタサルの短篇集「秘密の武器」に収められた「悪魔の涎」のと
ころに、「島の端(はな)」とあったからである。





見つけた。岩波文庫コルタサルの短篇集「遊戯の終わり」の178ページ
2行目、「水底譚」のなかに、「砂州の鼻にいたぼくは」とある。ここは、
「砂州の端にいたぼくは」ではないのか、と、写真的記憶の再生で、けさ、
気がついたのであった。これは誤植でしょう? 違う?





きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃
∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいか
な。⊃∪⊂∩。きれいでしょう。⊃∪⊂∩。かわいいかな。⊃∪⊂∩。





連詩は、ひととのじっさいの会話のように、ふと自分のなかにあるものと、
ひとのなかにあるものとがつながる感覚があって、自分ひとりでは思いつけ
なかったであろうものが書けるということがあって、自分の存在がひろがり
ます。と同時に自分の存在の輪郭がくっきりします。





いまものすごい夢を見て目がさめた。教室のなかで、中学生くらいの子ども
たちが坐っているのだ。「では、その紙を折って、箱に入れてください」と
いう声がして、子供たちは顔をまっすぐにしたまま、紙を折って箱にいれた。
「では、終わりました。帰ってください。」という声が





すると、子供たちがみな、机のよこから杖をとって、ゆっくりと動き出し、
手探りで、教室の出口に向かいだしたのだった。机の角や、椅子の背に手を
触れながら。子供たちは盲目だったのだ。気が付かなかった。ぼくの夢のな
かのさいしょの視点は、一人の男の子の顔をほとんどアップ





で、正面から微動もせずに見つめていたのだった。子供たちが動き出してか
ら、ぼくの夢のなかでの視点は立ち上がった人物の目から見たもののようで、
その目は教室の出口に向かう子供たちの姿を追っていた。ただ、教室の外に
出るだけでも、お互いをかばい合うようにして進む子供





たちの姿を、夢のなかのぼくの目は見ていたら、涙がこぼれそうになって、
涙がにじんできたのだった。目が見えるぼくらには簡単なことができないひ
とがいるということを、この夢は、ぼくに教えてくれたのだった。こんな映
像など見たことも聞いたこともなかったのに、夢はつくりだしたのだった。





ぼくの無意識は、ぼくになにを伝えたかったのだろう。ストレートに、映像
そのままのことなのだろうか。きのうの昼間に、そんな夢を見るなにかを見
たり、考えたりした記憶はないのだけれど。でも、子供たちが、目をぱっち
り開けていて、目が見えない子供たちであるということを





夢を見ているぼくにさいしょに教えず、子供たちが、杖を手にして、ゆっく
りと手探りで、教室の出口に向かった姿で、目が見えなかったことをぼくに
教えるという、レトリカルな夢の表現に、ぼくはいま、驚いている。ぼくの
夢をつくっている無意識領域に近い自我もまたレトリカル





な技法をもって表現していることに。だとしたら、さいしょに、あの住所と
名前を書いた紙を箱に入れさせた、あの行為はなにを意味しているのだろう。
それはいま考えても謎だ。わからない。雨の骨が落ちる音がしている。きょ
うは夕方まで雨らしい。





ぼくは子どものときから、ホモとかオカマとか言われてたから、ある程度、
耐性があるけど、それでも、言われたら嫌な気持ちがするね。その言葉に相
手の侮蔑する気持ちがこもってるからね。ぼくが小学校のときには、「男女
(おとこおんな)」っていう言い方もあったよ。





岩波文庫に誤植があると、ほんとにへこむ。コルタサルの短篇集『遊戯の終
わり』昼食のあと、186ページ9行目「市内の歩道も痛みがひどくて」→
「市内の歩道も傷みがひどくて」。岩波文庫が誤植をやらかしたら、どこの
出版社も誤植OKになるような気がする。ダメだよ。





液体になるまえに、こたつに入った。キング・クリムゾン。ミカンになって、
ハーゲンダッツ食べたい。お釣りは治療室。たまには、生きているのかも。
小さくて固い。突き刺さる便器。底まで。魚の肌。フォトギャラリー。





見る泡。聴く泡。泡の側から世界を見る。泡の側から世界を聴く。パチンッ
とはじけて消えてしまうまでの短い時間に、泡の表面に世界が映っている。
泡が消えてしまうと、その映像も消えてしまう。人間といっしょかな。思い
出の映像も音も、頭のなかだけのものもみな消えてしまう。





ピアノの鍵盤の数が限られているのと似ていますね。それでも、無限に異な
る曲、新しい発想の曲がつくられていくように、でしょうか。 @trazomper
che 言葉とはすでに誰かが過去につぶやいたことのバリエーションなわけで





無限は、有限からつくられていると、だれかの言葉にあったような気がしま
す。ちょっと違うかな。でも、そうだよね。@trazomperche 鍵盤、おっしゃ
るとおり!





アナーキストという映画で、いちばんこころに残ったのは、キム・イングォ
ンのキスシーンだった。韓国人のキム・イングォン青年と、中国人娘とのキ
スシーンだった。キム・イングォンが10代後半の青年の役だったのかな。
娘もまだ十代の設定だったと思う。ぼくは、そのキスシーン





を見て、キム・イングォンに口づけされたら、どんな感じかなと思った。ぼ
くの唇が中国人娘の唇だったらと思ったけれど、もしも、ぼくの唇がキム・
イングォンの唇だったら、ぼくとキスしたら、どんな感じなのかなとも思っ
た。ぼくは、キム・イングォンの唇になりたいとも思ったし、





キム・イングォンに口づけされる唇にもなりたいとも思った。また、口づけ
そのものにもなりたいとも思ったのだけれど、口づけそのものって、なんだ
ろうとも思った。唇ではなくて、口づけというもの。一つの唇では現出しな
い現象である。二つの唇が存在して、なおかつその





二つの唇が反応して現出させるもの。口づけ。これを、ぼくは、詩になぞら
えて考えてみることにした。作品を読んで読み手のイマージュとなるもの、
それは、あらかじめ書いた者のこころのなかにはなかったものであろうし、
また読んだ者のこころのなかにもなかったものであろうけれども、





読み手が書かれたものを読んだ瞬間に、書き手のこころと交感して、読み手
のイマージュとして読み手のこころのなかに現出させたものなのであろうか
ら、書く行為と読む行為を、唇を寄せることにたとえるならば、詩を読むこ
と自体を、口づけにたとえて、





その口づけを、祝福と、ぼくは呼ぶことにする。ぼくの翻訳行為も、原作者
の唇と、翻訳者のぼくの唇との接吻だと思う。そして、その翻訳された英詩
を見てくれる人もまた、一つの祝福なのである。祈りに近いというか、祈る
気持ちで、ぼくは、英詩を翻訳している。祝福されるべきもの、接吻として。





出来の悪い頭はすぐに「つなげてしまう」。





人生がヘタすぎて、うまくいかないのがふつうになっている。ただコツコツ
と読書して、考えて、メモして、詩を書いて、ということの繰り返し。毎年、
100万円くらい使って、詩集をつくって、送付して、読んでください、と
言ってお願いをする。バカそのものだ。





日知庵からの帰り道、阪急電車に乗っていて、友だちから聞いた話を思い出
していたら、西大路通りを歩いていて、涙、どぼどぼ目から落として、ふと、
うえを向いて月をさがしたら、月がなかった。5日ばかりまえに亡くなった
一人のゲイの男と、その妹さんの話。ぼくは語りがヘタだから、その妹さん





がミクシィに書き込まれたというメッセージを、おぼえているかぎり忠実に
再現する。「兄と仲良くしてくださっておられた方たちに、お知らせいたし
ます。兄は、五日前に交通事故で亡くなりました。お酒に酔っていましたが、
横断歩道を歩行中に車に轢かれてしまいました。





兄が亡くなって、兄がしていたミクシィを見ておりましたら、兄がゲイであ
ったことを知りました。両親には、兄がゲイであったことは知らせませんが、
どうか、妹であるわたしには、兄のことを教えてください。」だったと思う。
人間の物語。人間というものの物語。ぼくが書いた





詩なんて、彼女が人間であることや、人間というものが、どういったもので
あるのかを教えてくれた彼女の言葉に比べたら、この世界になくってもいい
ものなんだなって思った。親でも、兄弟でも、恋人でも、ひとを愛するとい
うことがどういうことか教えてくれたような気がした。





ぼくと、その話をしてくれた友だちの会話。「これ、ぼくの友だちの友だち
の話なんやけど、その友だち、落ち込んでて、元気ないんや。」「そのうち、
元気になると思うけど、ショックやったやろな。」「言葉もかけられへん。」
「時間がたったら、そのうち落ち着くやろ。」





「その友だちに、そいつ、どこ行ったんやろうなってきいてきたやつがおったん
やって。」「そら、天国に決まってるやん。」「そやろ、なんで、そんなんきく
んやろ。」「それはわからんけど、死んだら、みんな天国に行くんちゃうかなあ。」
これは、ぼくの信じていること。





ぼくの信じていること。





ひさしぶりに、涙、ぼとぼと落とした。

文学極道

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