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作品 - 20121214_335_6551p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


【and she said.】

  にねこ

『穏やかな斜光の中で
左目が潰れてしまった、きみと
冷えていく景色が
すれ違っていくカレンダーの
色を、ひらり
一枚落とした。
そうして、彼女は言った。
風が邪魔した。』

僕が彼女に向けた最後の言葉はなんだっただろうか。彼女が僕にくれた最後の言葉はなんだったのだろうか。忘れてしまった、のか、それとも自分の心を守るためにそっと心が鍵をかけてしまったのか。空白の言葉の中に黒い蟻が点々と繋がっていくように、滲んだ手紙に隠されたような、そんな言葉を思い出そうか。そう。彼女と僕の、あの時の言葉。最後の言葉、を思い出すのに、一番始めのことを思い出すのはナンセンスなのかもしれない。だってそれから何年も彼女と一緒だったし、彼女の不在からもう何年も経っているのだからそんな事を探ったって。でも。順番は大切だ、どんなことでも。

『はじまりの歌が聞こえて来た
それは常にあなただった
忘れていた飛行機雲の
その先に
呼ぶ声が、歌だった
電話は3分で終わった
浮かび上がり縛られていく
幾多の彫刻たちの
その足の裏を覗くように
高層ビルの上から靴の先にこびりついた汚れへと
伝うように蜘蛛が
ゆっくりと下がっていく
もうどうでもいい、と
酒の中に沈む石の煌めきが
揺らした
琥珀色に灼けた
のどの奥から漏れ出してくる
堪えきれない言葉の中に
「涙」という一文字と
「あなた」という三文字を
僕は書かなかった
書かなかったんだ

『空に向かって喇叭を吹き鳴らした。透明の嬰児たちが浮かび上がり、風に震える。セロファンを目に貼り付けた光景の、その薄さに肌寒さを覚え。鍵括弧で括られた消えていくはずの子らが、流される。途端に声を失い。』

ベッドの上に針を落とした
回り出す残響が
ぷつぷつと
雨を降らしはじめ
断片がそぼって
凍りついた毛布を
とかしていく
残され
滴る事をやめた
血液が
黒く
黒く
染み付いたのだ
天井の蜘蛛の巣が
くるくると回る

『不在通知は
雨に掠れて届かない
知らぬ間に忍び寄っていた
灰色の震えを
左側の切断面に
ひくひくと呟いた
行方しれずの心臓の紐が垂れ下がり
緞帳を瞑らせ
骨なくして
指なくして
不便よりは
零れた赤が地面に絵を描く。』

なにが面白いのか
子供の頃はくるくる回って
目を回して
それこそぶっ倒れてしまうまで
回転を愛した
天井が回り
目を瞑れば
セカイが回った
なにも知らない
矮小な世界だったが
僕は
そのセカイを愛し
十年以上のちに
きみも
このセカイを愛したはずだった
囁かれた
天井と僕との間に
ひきずられていく
煮溶かした
呼吸の中に』

リンと電話がなる。というのはもちろん比喩表現で当時の着信音は「your song」でいまとは変わってしまってる。追憶。そうそう電話がなったのだった。声が聞こえる。始めての人の声、単純な用件を伝達するだけの電話はしかし夜通し続き、顔もしらない彼女に恋をした。なんの話をしたのだっけ?ピアノとエンデとアゴタ・クリストフの話。二つの嘘が始まった夜。

『信じられないといって
噛みちぎって行ってしまった。
だから僕の半身は
ここにはないのだ
僕の右手は
寂しい左側をなぞる
ごうごう風が行き過ぎる
耳鳴りの音も半分で
半分の呪いが
食べ残されたように
僕の体にわだかまる【and she said.】』

嘘つきな僕と正直未満の彼女が吐き出した嘘が日常を覆い隠すまでに時間はかからなかった。電話での顔のないやり取りは2ヶ月続き、初めて顔とそこに貼り付く表情を眺めた夜、二人は口づけすらせずに寄り添って寝た。それは果たして啓示だったのか。いやそんなはずはない。僕に神はいない。彼女に神がいなかったように。彼女はキリスト教が好きで、その偶像が好きで、フレスコ画が好きで、ロダンの地獄の門が好きだった。二人でよく西洋美術館に出かけては、何も言わずにロダンを見つめた。僕はそれを見つめている彼女の真剣な頬が好きだった。お互い宗教については曖昧で、なんだか、神様という言葉を玩具のように扱った。憧れ。かもしれない。ドゥオーモの鐘がなり、幸せな花嫁がライスシャワーを浴びる。きらびやかなステンドグラスと磔にされた男の姿。響くパイプオルガン。遊戯的で意味もわからずに。そうか。嘘ついたんだっけ。ピアノの話。共通のある好きな音楽のピアノで弾き語りができるよと部屋に誘った。わかりやすい嘘、僕の部屋のシンセサイザーは当時の「ラ」の音が出なかった。Aマイナーの曲なのに。笑ってしまう。もちろん弾き語られる事はなく、響いたのは彼女の方だった。

『「一人の男が死んだのさ」マザーグースの歌のように。「とってもだらしのない男」』

神の言葉を僕が感じられる訳がない、姦通し姦淫を好み、蛇の様に赤い舌で絡め取った粘膜は僕の悪徳だから。初めてお互い肌を触れ合わせてからは、とどまることを知らず、ただ求めあった。お風呂場でのセックスというのは不思議なもので、もしそこに水の精が存在しているのだとしたら、きっと笑って、ちゃぷちゃぷ笑って、そしたら思わず僕らも笑ってしまう。照れ臭くてなんだか幸せで。幸せというなんだかわからないものの形を模倣するように何度も何度も繰り返し抱き合った。

『湯気が隠す
湾曲した愛情と愛情を歌う欲情と浴場に眠った秘密の情景が
シャワーカーテンを濡らす
びしょびしょのまま
足跡をつけて追って来いと獲物が呼んでいるので
あとをつけた
息を殺さねばならない
一撃で仕留める約束だから』

一日の構成物質がふたりの分泌液にまみれていくように、カレンダーを塗りこんだ。僕の舌が辿らなかった場所はなく、地図に描かれていない空白の場所に慎重に道を引くように、僕はシーツに彼女を描いた。そのうちに彼女自身が僕の舌になりひらひらと赤く蠢き出す。僕は饒舌なのできっと彼女も姦しかったのだろう。僕がしゃべる度にシタになった彼女もひらひらとよく踊った。

『その天井の木目を何度数えただろう
終わるまでの時間に震えが走り
連結した時間の切り取られた風景
それはそこかしこに眠るベッドで
揺籃を揺らす手はもう失って
噛みすぎた薬指の赤が
押しつぶす他人の重力の回数に染まる。』

不思議な舞踏は熱帯魚を思わせる。様々に人工的交配を繰り返され、色とりどりに染められたベタが争う様に、絡みつきそうして鱗を剥ぎ傷つき、しかし美しく。しなやかに背を反らせて、彼女はうめき声をあげる。声。そうだ声だ。僕たちは時に耳になった、そばだてるように、すべての音を取りこぼさぬようにと、録音しいつでも再生できるように、澄ました。僕らには光学磁気のシステムはついていなかったから。粘膜の立てる音、セキやクシャミ、そんな他愛のない肉体の立てる音に共時性を見出し、渇いたように、貪欲に。波形が絡み合うように。疲れるとそのままで眠った。塗りこまれ、赤子のように濡れた肌のまま。

『白詰草を編んだ
つながっていく絡まりが
空を閉じ込めた
眼球に
転がる草原の草笛の音が
拡散し溶けて
広がったスカートが染まる
青は醜いと
王冠を放り投げ
王様は裸の罰を受けた』

いつも眉を顰めて眠った。夏には可愛らしい小鼻にプクリと汗を浮かべて。でも苦しそうだった。彼女の出自には実は映画の様な秘密が隠されていたのだけれども彼女はその事を知らない。僕もその事を知らない。知らない世界が多すぎてだからこそ二人の嘘がなり代わり視野をつぶし「u r all i see」まさにそうだった。お互いにとってお互いは常に他人で片割れで共犯者で、かといって当事者ではなかった。猫が好きだった。そうだ、野良猫に餌をやっていたっけ。小さなアパートで真っ白い猫。覚えたてのフランス語で名前をつけた。ネージェ。雪という意味らしい。後で分かった事だけれども、Neigeはネージュと発音するのが正しい。知った時、互いに顔を見合わせて大きな声で笑ったんだ。ネージェは、人懐こい猫で、窓を開けて名前を呼ぶとどこからともなく現れて、一声鳴いた。実家で猫を飼っていた彼女はことの他喜び、その顔を見るのが僕も好きだった。やがてネージェは黒い猫と結ばれて、沢山の仔をもうけた。名前を呼ぶと必ず一緒に仔猫を連れてきて、彼女に抱かれた。僕も抱いた。仔猫はふわふわした毛玉の様で、それが生きているものだとは俄かには信じられなかったけれど、確かにあたたかく、軽い命を燃やしていた。愛おしい生命の具象として猫がいて、なんだか誇らしかったのを覚えている。ネージェが急に訪れなくなった日、庭に彼が死んでいた。

『だから言った。私は言った。直立した朝に出棺した、夜夜の戯れを葬る。短すぎたネックレス、折れた爪。そしてペディキュア。猫も笑わない真空の月の光が、まだ照らしている合間に。出ていけと、不実な果実の搾りかすに。発酵して湯気を立てる前に。』

酔い潰れるまで、酒を煽る夜があった。自らの腐臭を焼く為に酒を飲む。ままならぬ世界にべったり甘えたまま、からんと音を立てて飲み込んだ。そんな僕に辟易したのか、それが、最後だったのか、否。彼女と僕は、その場所に「同時に存在していなかった」。けして明かす事なく、部屋の片隅で静かに腐っていく僕の触角は(ほのめかす事すらしない)恥、だ。気づいていなかったのはもしかすると僕だけだったのかもしれないけれど。酒。彼女はあまり飲めなかったけれど、僕との時間を愛した。色々なバーを渉猟しいろいろな物語を紐解いた。妖精の話やダ・ヴィンチの話、転がったおにぎりの実在論的解釈。くすくすと微笑みを分け合いながら。酒を飲んでほんのりと染まる背中に残酷に刻んでいく言葉と体温をきっと嫌いになれるわけがなくて、だから傲慢だ。支配されていたのはきっと包まれていた僕なんだ。

ああ。喉が渇く。

『穏やかな朝から出発した
穏やかな一日
が連なる
いつ覆るかわからぬ不安

気付かぬふりをして
穏やかに
穏やかに
水を飲んだ
水道のからん
ひねる
冷たい
そういう日

私の中の水がへり
少しずつこぼれ
私は自分の体液で溺れているのだと
思う
海はきっと私の
中にあるのに
切り離された小さな雫のうちに
溺れる
それは』

嘘つき。それは知っていた。いつしか二人の間で交わされていた約束。嘘をつき続ける事。その一つの嘘は僕にもわからない。本当を求めて、失われた半身に出逢えた喜びを悦びにすり替えていた二人は、嘘に酩酊していくのだ。ふらつく足で塀の上を歩く様に。

『手を離すと落ちるよ。それはよくわかる真理で。その痺れが、僕らを繋ぎとめる。いずれにしても、溶けていく消えていく、だから。骨だけはしっかり残そうと、ふたり。情景がぼやけていく中で、底のない川に金属製のオールを突き立てるように、笑った。』

騒々しい一夜。ベネチアングラスが割れた夜。彼女がお土産に買ってきてくれた、揃いのグラス。透明な赤がとても綺麗で、大のお気に入りになった。ワインを注ごうよ。飲めないくせに、バローロなんて買ってきて、赤が赤に沈んで行く様に瞳を輝かせた。生きているみたいだね。そうかな。僕は彼女の胸に耳をつける。静かの中でとても柔らかいノイズが蠢いていた。ベネチアングラスは透明度が命なんだよ。光に透かしてみて、黒く澱んだ部分がなかったら、一級品なんだ。野暮ったい蛍光灯を消して、蝋燭に火をつけた。わだかまる、黒い影が、無数にテーブルを彩り、後ろ暗い愛を囁いている。僕は微笑む。そうして彼女の耳を齧る。
「嘘つき」
明かされてはいけない本当の嘘が、物語の帳を破って。その数ヶ月後、ベネチアングラスは故郷に帰るように窓から飛び出した。破片がまるで血の様だった。

『割れてしまった
ベネチアングラスの縁が
足を裂く
傷口は深くない

天使の欠けた足裏の
ミケランジェロの思い出と
ダビデ像を、旅出像と
勝手に思い込んでいた君は
ゴリアテの片思いも知らずに
えへへと笑い
ワインにその顔を
浮かばせる
共振する相手を
失った、赤の右側が
ゆっくりと冷えて
伝わるのが
血液なのだとしたら
やはり君は
えへへと笑い
そうして、言うのだろう
何度も聞いた言い訳を
何度も塞いだその唇で』

同じようにゆがんでいたから、同じように求めあったのかもしれない。そのあわいには真空に潜むエーテルの神秘が残り、その不条理がさらに二人をゆがめていった。

『沈黙が木の葉を揺らし、冬が手紙を落とした』

抱きしめた時の体温が冷えていく。何時キスをしたのか分からない、少し薄目の形のいい唇が、ゆがむ時がやがて訪れるなんて。皮肉なものだね。

『咥えたまま、しゃべることもできずに、頷いた、それは肯定なのか否定なのか、自分でもわからずに、ただこの時間に溺れていたかったその契約を、レースに署名した。引き千切られる、その前に。』

ああ、こんな話面白くない。最後の言葉、最後の言葉なんだ、思い出せない。どうして思い出そうとしたのかさえ思い出せない。最後の言葉。あなたがいなくなった日。月並みだけれども、世界が反転した。すべてが敵にまわってしまって、僕の歯車は欠けているのに、太陽は上り月は上り朝は騒々しく網膜を焼いた。生きている、その事をいっそないものにしようかなんて、笑っちゃうね。でも、現実として水すら飲み込めない凍りついた時間が足元に転がって僕を苛んだ。だから?

『だからいった。わたしは言ったんだ。
胸を叩いて、嗚咽した。彼女が残したのは、なにも入っていないマグカップとティースプーン。
それから彼女は沈黙した。沈黙した。沈黙した、だけだった』

そして。
耳は瞑れない。
ゴッホはカミソリで切り落としたよ。
丁寧に封筒の中にいれて、
レイチェルの元に自分で届けたそうだよ。
さあ。
僕は。

文学極道

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