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作品 - 20121203_061_6516p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


THE GATES OF DELIRIUM。──万の川より一つの川へ、一つの川より万の川へと

  田中宏輔



 いま、わたしは、西院というところに住んでいるのだが、昨年の三月までは、北山大橋のすぐそば、二十歩ほども歩けば賀茂川の河川敷に行けるところに三年間いた。その前の十五年間は、下鴨神社からバスで数分の距離のところで暮らし、さらにその前の六年間は、高野川の近くにアパートを借りて、学生時代を過ごしていた。それ以前は、東山の八坂神社のそばの祇園に家があって、そこで生まれ育ったのであるが、そこから京都随一の繁華街である四条河原町までは、歩いてもせいぜい十分かそこらしかかからなかった。子供のころから学生時代まで、河原町にはよく遊びに行ったが、その河原町と祇園を挟んで鴨川が流れている。京都の中心を流れているともいえるその鴨川を上流にさかのぼると、二つの支流に分かれる。賀茂川と高野川である。逆に見ると、賀茂川と高野川が合わさって、本流の鴨川になるのだが、白地図で見ると、その形はYの字そのものといった形をしており、まるでビニール人形の股間のように見える。ところが、色のついたカラーの地図で眺めると、二つの川の合わさるところ、その結ぼれには、糺(ただす)の森という、まるで女体の恥毛のようにこんもりと茂った森があり、この森の奥に下鴨神社があり、この森の入り口に河合神社がある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」という、よく知られる言葉で序を告げる『方丈記』を記した鴨 長明は、この河合神社の神官の家の出である。二つの川が合わさるところにあるから河合神社というのかどうかは知らない。たぶんそうなのだろう。二つの川が合わさって一つの川になるという、このことは、わたしに、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という崇徳院の歌を思い出させるのだが、ただちにそれはまた、プラトンの『饗宴』にある、「かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。」(鈴木照雄訳)という言葉を思い出させる。そういえば、イヴの肉は、アダムの肉から引き剥がされてできたものではなかったか。一つの身体が引き裂かれて、二つの身体になったのではなかったか。「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(ノサック『ルキウス・エウリヌスの遺書』圓子修平訳)「確かかね?」(J・G・バラード『地球帰還の問題』永井 淳訳)「裏切りは人間の本性ではなかったかな?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(リルケ『東洋風のきぬぎぬの歌』高安国世訳)「もし僕たちの行為が僕たちを裏切り、そしてぼくたちの考えも僕たちを裏切って本心を明らかにしないとすれば、いったい僕たちはどこにいるのか?」(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)「ああ、私たちは何処に存在する?」(リルケ『オルフォィスに寄せるソネット』第二部・26、高安国世訳)「愛のことは/何もかも知っているのに、その愛を感じられなかった。」(オーデン『戦いのときに』VIII、中桐雅夫訳)「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)。「人間であることはじつに困難だよ」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)。「それが人生なのよ」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)。「不潔なのよ!」(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』16、内田昌之訳)「で、彼を愛してた?」(ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳)「いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。」(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)「すべてをもと通りにしたいのかね?」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳)「どうして二千年前にそうしなかった?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』2、宇佐川晶子訳)「結局のところ、われわれはみな死からよみがえった人間じゃないんですか?」(J・G・バラード『執着の浜辺』伊藤 哲訳)「そうだよ。」(ウィリアム・ホープ・ホジスン『闇の海の声』矢野浩三郎訳)「いやんなっちゃう!」(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)「だれが彼を再生する?」(ジーン・ウルフ『警士の剣』20、岡部宏之訳)「わたしを選びたまえ。」(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)「すごく大きいわね!」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「信じられない!」(クルストファー・プリースト『イグジステンズ』第1章、柳下毅一郎訳)「凄いわ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳)。「おかしいわ。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』I・1、宇野利泰訳)「すると、くすくす笑って、おしまい。」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・2、矢野 徹訳)「何のこっちゃ。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』11、伊藤典夫訳)「どうしていつも笑ってばかりいるの?」(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)「いまのうちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「あんたは、ぼくの世界が好きかい?」(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・8、冬川 亘訳)「春はまたよみがえる!」(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)「そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけれど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。」(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)「一秒の百万分の一という時間も、観念連合繊維束と神経組織の協調には大事なのですわ。」(ハインリヒ・ハウザー『巨人頭脳』3、松谷健二訳)「ナポレオンの象徴は、ハチだった」(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)。「おまえの頭は、カエルでいっぱいなんだ。」(ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』第一部・10、伊藤典夫訳)「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳)「そうだ。そのことは蜂の巣によっても証明される」(稲垣足穂『水晶物語』9)。「気でもちがったのかい?」(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)「蜜蜂が勝手にあんなものを作るのである」(稲垣足穂『放熱器』)。「どうして頭がおかしくなったの?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「それは主観的なことじゃ。」(アンソニー・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)「もうぼくを愛していないのかい?」(E・M・フォースター『モーリス』第二部・25、片岡しのぶ訳)「どうして気がついたの?」(クライヴ・パーカー『魔物の棲む路』酒井昭伸訳)「いやあああ!」(リチャード・レイモン『森のレストラン』夏来健次訳)「ぼくを愛してると言ったじゃないか。」(ジョージ・R・R・マーティン『ファスト・フレンド』安田 均訳)「ぼくがどれだけきみを愛してるか知ってるだろう?」(ピーター・ストラウヴ『レダマの木』酒井昭伸訳)「だったらいったいなんだ?」(スティーヴン・キング『クージョ』永井 淳訳)「ただ一つ、びっくりした」(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)。「人生は驚きの連続だ。」(エマソン『円』酒本雅之訳)「驚きあってこその人生ではないか。」(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上・第三部・32、酒井昭伸訳)「牛についてなにを知っている?」(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)「牛だって?」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)「ママじゃなくて?」(オースン・スコットカード『辺境の人々』西部、友枝康子訳)「そうだ、牛じゃ」(サバト『英雄たちと墓』第I部・12、安藤哲行訳)。「その牛の話をしてよ」(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第七部・IV、友枝康子訳)。「じゃあ、もう、さよならだな」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)。「わたしに生まれなさい。」(ロバート・シルヴァーバーグ『確率人間』13、田村源二訳)「もう一度生まれ変ってみなさい」(フエンテス『脱皮』内田吉彦訳)。「何度でも生まれ直すんだ。」(ロバート・シルヴァーバーグ『いまひとたびの生』1、佐藤高子訳)「そろそろ」(レイ・カミングス『時間を征服した男』6、斎藤伯好訳)、「イエズスを呼び出して見せようかね?」(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第四章、渡辺一夫訳)「再生にかかってよいかね?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが内なる廃墟の断章』9、伊藤典夫訳)「しっ」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)、「しいっ。」(ルーディ・ラッカー『ソフトウェア』20、黒丸 尚訳)「もうひとめぐりさせるだけの時間は、まだある」(J・G・バラード『22世紀のコロンブス』第二十六章、南山 宏訳)。「ああ」(スチュアート・カミンスキー『隠しておきたい』押田由起訳)、「どこまで話したっけ?」(アーシュラ・K・ル・グィン『シュレディンガーの猫』越智道雄訳)。そうだ。二つの川が合わさるって話だった。しかしまた、「一、それは二である」(メリッサ・スコット『天の十二分の五』6、梶元靖子訳)。合わさって一つとなった川は、また分かれて二つになることもあるだろう。この言葉は、先の長明の言葉とともに、エンペドクレスの「ここにわが語るは二重のこと──すなわち、あるときには多なるものから成長して/ただ一つのものとなり、あるときには逆に一つのものから多くのものへと分裂した。」(『自然について』十七、藤沢令夫訳)といった言葉や、ヘラクレイトスの「万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった言葉を思い起こさせる。そういえば、一人だったアダムが、その身を引き裂かれ、アダムとイヴの二人となり、幾たびか、二つの身体が一つとなり、一つの身体が二つとなって、カインやアベルやその他多くの子どもたちになったのではなかったか。マタイによる福音書の第一章における冒頭のイエス・キリストの系譜も、流れる川の名前を書き留めたもののように思えてくる。また、ヘラクレイトスの言葉といえば、「同じ川に二度入ることはできない。……散らしたり、集めたりする。……出来上がり、またくずれ去る。加わり来たって、また離れる。」(『ヘラクレイトスの言葉』九一、田中美知太郎訳)といった有名な言葉も思い出されるが、以前、テレビで、富士山の雪解け水が支流のひとつに流れ込むのに数百年かかることがあるというのを見たのだが、さまざまな支流が結びついて本流をつくり出すのだから、川のなかでは、さまざまな時間が流れていることになる。何年も前に降った雪や、何ヶ月も前に降った雨が、同じ一つの川のなかに流れているのだ。「河は同じでも、その中に入って行く者には、あとからあとから違った水が流れてくる。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』一二、田中美知太郎訳)。何週間も前に死んだ牛や、何ヶ月も前に掘り出されて凍らされたジャガイモやニンジンたちも、一つのシチュー鍋のなかで、ぐつぐつと煮られる。人間の肉体や精神も同じだ。高校までに習い覚えた国語の知識と、他人の書いたものから適当に言葉を抜き出して引用するという、かっぱらいの技術で、わたしもまた、いま書いている、このような詩稿が書けるようになったのである。「人生とは年月から成り立っているのだろうか、分秒から成り立っているのだろうか」(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)。「果物の話はしたかしら?「(ルーシャス・シェパード『黒珊瑚』小川 隆訳)「ぼくが発見したことがなんだか知っているかい?」(トーマス・マン『ファウスト博士』七、関 泰祐・関 楠生訳)。川には、牛もまた流れるということ。大学院の二年生のときのことである。前日の激しい台風が嘘のように思われる、よく晴れた日の午後のことであった。賀茂川の下流に、膨れ上がった一頭の牛が流れていたのである。アドバルーンのように膨れ上がった牛の死骸が、ぷかぷかと浮かびながら、ゆっくりと川を下っていくのを、恋人といっしょに眺めていたことがあったのである。「牛を見に行こう」(レイ・ブラッドベリ『刺青の男』狐と森、小笠原豊樹訳)。そういえば、わたしがはじめて書いた詩のタイトルは、「高野川」だった。それはまた、一九八九年度発行の「ユリイカ」八月号の詩の投稿欄に掲載されたのだった。そのときの選者は吉増剛造さんで、わたしの初投稿の拙い詩を選んでいただいたのであった。「いい詩だよ、覚えてるかね?」(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18・大西 憲訳)。インドでは、「詩人のつくった詩に対する最高の讃辞は、「なんとすばらしい詩であろう、まるで牛の鳴き声のようだ」という」(文藝春秋社『大世界史6』)。「きれいな花ね。」(ジョン・ウィンダム『野の花』大西 尹訳)「牛だ──」(フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』23、大森 望訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「花がなんだというのかね。」(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)「花が、何百もの小動物や小鳥を宿している」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』2、岡部宏之訳)。「凍らされて、それがこなごなに砕けちる感じ!」(グレッグ・イーガン『行動原理』山岸 真訳)「そうそれよ」(フィリスコ・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』17、藤井かよ訳)。「本当にいろんなことが起きるのね」(タビサ・キング『スモール・ワールド』1、みき 遙訳)。「頭の中で出来事を再構成しているのだ。」(マーガレット・アトウッド『侍女の物語』23、斎藤英治訳)「ぼくは違った光を見たいんだ」(エリザベス・A・リン『遙かなる光』1、野口幸夫訳)。「経験とは何か?」(バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)「おまえの幸福はこの中にあるのだろうか」(リルケ『リース』I、高安国世訳)。「幸せだったのだろうか?」(サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳)「幸せな苦痛だった、いまでもそうだ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第三幕・第四場、石川重俊訳)。「幸福でないものがあるだろうか?」(ブライアン・W・オールディス『暗い光年』1、中桐雅夫訳)「たぶん、私の幸せはそこにあった、しかし」(ネルヴァル『火の娘たち』シルヴィ・十四、入沢康夫訳)、「その忘れがたいすばらしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ」(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)。「過去は忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)「人は幸せなしでもやっていけるもの。」(ジュリエット・ドゥルエの書簡、ヴィクトル・ユゴー宛、一八三三年、松本百合子訳)「けれどその花は」(ギヨーム・アポリネールの書簡、ルー宛、平岡 敦訳)。「じつを言えば、たいていなにをやっていても楽しいのだ。」(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)「その花は?」(J・T・バス『神鯨』10、日夏 響訳)「なんだかをかしい。」(川端康成『たんぽぽ』) 「上の人また叩いたわ」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)。「きみにいたずらをした男かい?」(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)「幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?」(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳) 「人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。」(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)「ひとりにしておいて欲しい?」(ノサック『弟』4、中野孝次訳)「誰がかつて花の泣くのを見たことがあるでしょうか。」(ゲオルゲ『夏の勝利』あなたはわたしといっしょに、手塚富雄訳)「花?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)「花をなぜ放っとかないんだ?」(ウィリアム・S・バロウズ『爆発した切符』おまえたちのあるべき姿を示したぞ、飯田隆昭訳)「時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)「一秒は一秒であり一秒である。」(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年四月二十八日、浅倉久志訳)「相変わらずぶんぶんうなっとるかね?」(ジョン・ウィンダム『宇宙からの来訪者』大西尹明訳)「ぶんぶんいう以外に罰当たりなことはしやしませんよ」(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月二十一日、野口幸夫訳)。「ぼくは詩が書きたかった。」(ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に薔薇を』2、大谷圭二訳)「ぼくは詩人ではない。」(E・M・フォースター『モーリス』第四部・38、片岡しのぶ訳)「もう詩を書く人間はひとりもいない。」(J・G・バラード『スターズのスタジオ5号』浅倉久志訳)「花じゃないの?」(ブライアン・W・オールディス『唾の樹』中村 融訳)「だまっててよ、ママ。」(フリッツ・ライバー『冬の蠅』大谷圭二訳)「だれにでもできるってことじゃないんだから。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』1、石井桃子訳)「枝にかへらぬ花々よ。」(金子光晴『わが生に与ふ』二)「近くに行ったら、花が自(おのずか)ら、ものを言おう。」(泉 鏡花『若菜のうち』)「花も泣くのだ」(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』60、細美遙子訳)。「子どもたちは花を持ってきてくれるだろう。」(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳)「牛など丸ごと呑みこんでしまう」(R・A・ラファティ『完全無欠な貴橄欖石』伊藤典夫訳)「百合の花だ。」(ネルヴァル『火の娘たち』アンジェリック・第十の手紙、入沢康夫訳)「ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ」(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は……)』渋沢孝輔訳)。「なにもかもがわたしに告げる」(ホルヘ・ギリェン『一足の靴の死』荒井正道訳)。「神がそこにいる。」(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)「と」(アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村 融訳)。「神だって?」(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』31、岡部宏之訳)「神を持ち出すなよ。話がこんぐらがってくる」(キース・ロバーツ『ボールダーのカナリア』中村 融訳)。「まるで金魚のようだ」(グレッグ・ベア『永劫』下・57、酒井昭伸訳)。「それ、どういう意味?」(J・G・バラード『逃がしどめ』永井 淳訳)「意味がなければいけないんですか?」(キャロル『鏡の国のアリス』6、高杉一郎訳)「馬鹿の非難も聞いてみると堂々たるものである。」(ブレイク『天国と地獄との結婚』地獄の格言、土居光知訳)「ぼくが裏切るだろうと期待してはいけない。」(コクトー『阿片』堀口大學訳)「精神はその範囲外にあるものは考えることができない。」(バルザック『セラフィタ』四、蛯原〓夫訳)「だが、考えることをやめてはいけない。」(ポール・アンダースン『脳波』3、林 克己訳)「だから、こんどはなにをする?」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』8、石井桃子訳)「敵打(かたきうち)がしたいのでっしゅ。」(泉 鏡花『貝の穴に河童のいる事』)「してはいけない。」(ジュール・ヴェルヌ『カルパチアの城』5、安東次男訳)「だれもこのことは知っちゃおらんぞ。不意(ふい)うちじゃ。」(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』10、石井桃子訳)「夜は、もはやない。」(ヨハネの黙示録二二・五)「だれかが、ぬすんだんじゃよ。」(A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)。食器棚からコーヒーカップを二つ取り出して振り向くと、カシャ、カシャ、カシャ、連続写真、猿が猿の仔を岩に叩きつけている。頭のつぶれる音が、グシャ、グシャ、グシャ。両手に持ったコーヒーカップに目を落とすと、高速度連続写真、トランプ・カードで、指がポロポロと、ポロポロと落ちていく。まるで熱いアイロンの下の、ミミズと蝙蝠の幸福な出会いのように美しい。おまえたちは取税人である。東に税を払わぬ者がおれば、その者たちの親の首を刎ねよ! 西に税を払わぬ者がおれば、その者たちの子の首を刎ねよ! さらし首よ! 笑い者どもよ! 川はさまざまなものを引き裂き、相結ばせる。吉田くんの家では、ガッチャマンと家庭崩壊が結びつき、劇場映画館では、エイリアンとゾンビたちが手をつなぎ合ってスクリーンに見入っている。伊藤くんちの食卓では、ただパパとママの首が入れ換わっているだけだけど。笑。人間は、生きているうちに、天国にも地獄にも行くのだ。人生のことを知るためには、何度も何度も天国と地獄の間を往復しなければならないのだ。「私たちは離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「離れ離れに投げ出され」(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)、「一つに集められ」(アウグスティヌス『告白』第十巻・第四十章・六五、山田 晶訳)、「瞬間は永遠に繰り返す。」(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)「われわれは存在すると共に、また存在しないのである。」(ヘラクレイトス『ヘラクレイトスの言葉』四九、田中美知太郎訳)「わかるかしら?」(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)「ぷっ!」(ジャック・ヴァンス『竜を駆る種族』9、浅倉久志訳)「じゃないかと思ってたの。」(マイケル・コニイ『ハローサマー・グッドバイ』14、千葉 薫訳)「それより」(ヘミングウェイ『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』大久保康雄訳)、「コーヒーのお代りは?」(ロジャー・ゼズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)「コーヒー?」(ロバート・B・パーカー『約束の地』12、菊池 光訳)。我もまた、ヘラクレイトスに倣いて歌う、万(よろず)の川より一つの川へ、一つの川より万(よろず)の川へと。行く川のほとりはミシシッピー。マーク・トウェインが息子の女装を解除する朝、バーガーショップの見習い店長がピピリンポロンとチャイムを押すと、テーブルの上ではウェイトレスが流れ、鉄板の上では手のひらが叫び、閉所恐怖症の客たちが、躍り上がってコップに落ちる。現実と現実が出合い、一つの非現実となる。虚無と虚無が出合い、一つの存在となる。では、小さな人よ、戦争と戦争が出合って、一つの平和となるのか? 擬態し、擬装する川たち。賀茂川はセーヌに擬態し、セリーヌは鷗外に擬装する。「蜂だ!」(アルフレッド・ベスター『昔を今になすよしもがな』中村 融訳)「もうきたかい?」(スタニスラフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第十四回の旅、袋 一平訳)「蜂の巣のなかの完全共同作業。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)「なぜ蜜蜂は、女王、雄、働き手と分かれていながら、なおかつひとつの大きな家族として生きているのだろう? なぜなら、かれらにとってはそれがうまくいくからだ。」(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』1、矢野 徹訳)。一寸法師は流れ、どんぶりは流れ、桃太郎は流れ、朔太郎は流れ、乙姫は流れ、おじいさんは流れ、おばあさんは流れ、風評は流れ、そうめんは流れ、立て看板は流れ、キャンパスは流れ、大学は流れ、ピンキーとキラーズは流れ、百万のさじは投げられ、太宰は流れ、死のフーガは流れ、ゲロチョンは流れ、ケロヨンは流れる。クック、クック、クッ。川のなかから、受話器を持つ手が現われた。「神聖な牛よ(こいつは、おどろいた)!」(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下・25、矢野 徹訳)「うるわしい雌牛たちよ!」(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)「神さまは美しい物を、何てたくさんお造りになったのかしら」(プイグ『赤い唇』第二部・第十五回、野谷文昭訳)。「気にいったかい?」(R・M・ラミング『神聖』内田昌之訳)。川よ、瞬時に凍れ! 凍らば、直立せよ! ってか。むかし、3高と3Kって、同じことをさして言ってる言葉だと思ってた。3高ね、3高。「そうね、結婚するんだったら、ぜったい3高よね。高学歴・高収入・高身長の人よね。そのために、バッチシ整形もしたんだからさあ。」「あ〜ら、あたしの彼も3高よ! 高年齢・高血圧・高コレステロールなのよ。そのため、毎日、病院通いなのよ。」ふふん、な〜るほどね。はやく死んでくれってか。笑。産みなおしたろか、おまえらも。「愛の訪れは、こうまで長い年月を待たねばならぬものか。」(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』II・1、宇野利泰訳)「すべては失われたものの中にある。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「すべてが記憶されていたのか?」(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)「記憶はあらゆる場所にある。」(ウィリアム・ギブスン原案・テリー・ビッスン作『J・M』8、嶋田洋一訳)「時と場所も、失われたもののひとつだ。」(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)「思い出された事実には重要なことなど何もない、大切なのは思い出すという行為それ自体なのだ。」(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)。物質の構成。吉田くんは、山本くんと斉藤さんと水田くんからできている。あの人の鼻水。でも、森本くんと清水くんとの共有結合は、寺田さんと馬場くんとの共有結合よりエネルギーが大きい。あの人の鼻水。ページをめくると、血が出ませんか? 汗にまみれた脇の下では、蟻の塊がうごめいている。脇の下のそのやわらかい皮膚につぎつぎと咬みついていく。わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。わたしのなかに曲がった水が満ちていく。「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。「きみが求めている真実がないってことかな?」と、シンちゃん。出かかった言葉が、ぼくを詰まらせた。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクをなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。遠足の日に履いて行った、まっさらの白い運動靴が、わざと踏まれて汚された。いくら洗っても、汚れは落ちなかった。ページをめくると、パチクリ、パチクリ、ウィンクされた。川と川面に映った風景が入れ換わる。そういえば、アドルフ・ヒトラーも、わたしのように、夕闇に浮かび漂う蛍の尻の光に目をとめたことがなかったであろうか? 「まもなくイエスが現われる頃だ。」(ジョン・ヴァーリイ『へびつかい座ホットライン』16、浅倉久志訳)「これから何をするかは、わかっている。」(ウォルター・テヴィス『運がない』黒丸 尚訳)「なぶり殺して楽しむのだ。」(エルヴェ・ギベール『楽園』野崎 歓訳)「知ってるさ。いちどやったことは、またやれる」(ブライアン・W・オールディス『橋の上の男』井上一夫訳)。「だったら、ぐずぐずしてられない」(ジョン・クリストファー『トリポッド 2 脱出』9、中原尚哉訳)。「ついてこい!」(A&B・ストルガツキー『蟻塚の中のかぶと虫』七八年六月四日/地球外文化博物館。夜、深見 弾訳)「楽しもうぜ!」(ピエール・クリスタン『着飾った捕食家たち』そして円(まど)かなる一家団欒の夕餉(ゆうげ)に……、田村源二訳)。







追記

 昨年の四月のことだったでしょうか、四国のとあるところで和尚をしている一人の坊主と知り合いまして、しばらくの間、付き合っていたのですが、月に一、二度、京都に来なければならない用事があるとかで、わたしとはじめて会った日も、その用事を済ませた帰りだったそうです。日の暮れ時に、葵橋の袂にあります葵公園で出会いました。車で来ていた彼は、よくわたしをドライブに連れて行ってくれました。鴨川の源流の一つであります岩屋谷の志明院にも、昨年の五月にたずねたことがありました。五月といいますのに、雲ケ畑の山道には、溶け切らなかった雪が、あちらこちらに点在しておりました。高野川のほうではなく、賀茂川のほうを遡っていったのですね。車で行けるところまで行き、残りの道は歩いて登りました。ふだんあまり汗をかくことをしないわたしのほてった身体を、澄んだ冷たい空気がたちまちさましてくれました。石段を登って境内に入りますと、よりいっそう澄んだ空気が肺に満ちていくような気がいたしました。さらに登って、院のご不動さんが祀られてある洞窟にまいりますと、小さなフンが、あちらこちらに点在しておりました。たぬきとか、いたちとかいったもののフンだったのでしょうか? じっさい、たぬきのフンも、いたちのフンも見たことはないのですが……。あとで、鴨川の源流の一つであります、「飛龍の滝」と呼ばれる、細長い直方体の樋の先から滴り落ちる水を目にしたのですが、まるで山の神がする小便のような印象を受けました。

文学極道

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