台所で卵を洗っているところ
茹でて殻もまるごと食べられるように
マヨネーズの用意もできてるよ
あなたはトイレのなかに映った自分の顔が
血の気がなくてとても歳をとっているようだと
ひどくおびえているけれど
その必要はないとわたしは思うんだ
だってわたしから見ればあなたは十分若いし
好きな子を自分のものにできる美貌ももっているじゃない
鉄筋コンクリートの壁に熱をあずけて
もういちど一緒に1から数え直しましょう
眠りの先には目覚めがあると決まっているんだから
卵なんて、あんな過去のもの、もう忘れて
ほら、過去のものはこうやって踏み潰すのよ
固い殻の中のやわらかいところ一緒に潰して
お腹がすいてるなら冷蔵庫にヨーグルトがあるよ
冷蔵庫が空っぽなら
スーパーマーケットになんだって売ってるんだから
そんな心配そうな顔をするのはやめて
あなたのその顔、見てるとイラつくわ
ともだちが新人賞を受賞した?
知ったこっちゃないわよそんなこと
それよりあなたの背中、ずいぶん曲がってない?
*
ばあさんはよく死んだふりをする
息子夫婦がお見舞いにやって来たときも
目を閉じて死んだふりをしていた
お母さん何か足りないものはない?
そんなものはなかった
ただ、夜になって院内の電気がすべて消されると
宇宙にほうり出されたように寂しかった
木星にほうり出されたこともあったから
だからばあさんは無線機が欲しかった
それとメンソールの煙草
だけど
何も言わずに死んだふりをきめこんだ
ばあさんは夜になると
無線機のかわりにナースコールを握る
そんなばあさんに孫のイチタが
誰にも繋がらないおもちゃの携帯電話を持たせた
ばあさんは1から0まですべてのボタンを押してから
ありがとね、帰りに中庭に寄っていくといい
ゼラニウムがとてもきれいだって
看護師さんが言ってたから
そう言ってイチタを帰した
*
おかえりなさい、わたし考えたんだけど
わたしの誕生日にはビャクダンの香りを贈って
あら、あなたすごく疲れてるみたい
おばあさんが亡くなったの、そう
でも昔からおばあさんて生き物はすぐ死ぬものよ
それにわたしたちだって
ねえ、顔色がとても悪いわ、ベッドで横になりなさい
いやだ、泣いてるの?
だいじょうぶ、あなたのおばあさんは
あなたがおもちゃの携帯電話をほんものだと言ったこと
これっぽっちも気にしてないわよ
だっておばあさんは機械音痴なんだもの
そんなことより、おねがいね
わたしが生まれた日にはビャクダンの香りを贈って
死んだ日よりもわたしが生まれた日のほうを
あなたには知ってほしいのよ
それから今すぐにでも猫背はなおしたほうがいいわね
選出作品
作品 - 20120924_321_6362p
- [優] 白檀の香り - 深街ゆか (2012-09)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
白檀の香り
深街ゆか