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作品 - 20120901_842_6308p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


petit motet

  浅井康浩

蛮族の世紀から、幾世紀か離れてみる。物語りたいのは、定期市の話にすぎない。ささや
かな。期間にすると、沈黙の交易の世紀から接触の交易の世紀へと移行したあとの幾世期
か。だけれども、忘れてはいけない。これは定期市の物語で、それはつまり人々の交流の
物語でもある。だから、圧政や、戦争や略奪の世紀から離れ、平穏な場所で、平穏な時間
に起こる物語にすぎない。だから、何も物語ることのない、記録にさえ残らない世紀の、
残っていたとしても、その土地のわずかな年貢の帳簿に記された数字だけかもしれない。
そう、平和は交易が盛んにおこなわれるための必須の条件だからだ。蛮族の世紀から、ほ
んの2世紀か3世紀。そうすればもう、ヨーロッパ各地から商人が集まってきて定期市が
開かれる世紀に入る。平和が、交通の安全が確保し、それにともなって陸路で商品を運ぶ
ための施設が整備される。いくつもの条件と偶然が重なり、シャンパーニュでそれは起こ
る。そして、世紀の経済はシャンパーニュを中心に位置付ける。それから幾世紀か飛ぶ。
すると、経済の中心は動いている。どこへ。ブリュージュ、ヴェネツィア、ジェノヴァへ。
これらが港の、つまり貿易を巡ってヨーロッパが足場を固めてゆく世紀の、いくらか前に
位置する定期市の移り変わりを示すことになる



あなたは凌辱されるに違いない。だってあの街の女は、市の期間は洗濯女であれ召使であ
れ娼婦となるのだから。そして、押し寄せる商人の数に見合うだけの女の数は、洗濯女や
召使の女だけでは足りないのだから。女はあなたに近づく。サラダを盛り付けるときの、
玉ねぎやスミレをちぎる手付きを隠したままで。自分が値踏みされる恐れのない無知な男
だという匂いを嗅ぎわけて。だが、安心していい。なぜなら、あなたがこの大市で取引す
る羊毛や香辛料、黒壇の価格や規模を、女たちは想像すらできないのだから。金銭的な痛
手を負う事はない。銀貨という価値を、アナウサギに付けられた5ドゥニエや、野兎に付
けられた12ドゥニエというスケールでしか計ることができない女たちに囲まれて、あなた
は癒しがたい不健康な間違いを犯す。あるいは、そうなるよう願う



定期市が発生する。そこで交わるのは商品だけでない。言語もそのひとつとなる。シャン
パーニュが、11世紀以降フランドルとロンバルディアを陸路で結び、北と南の貿易軸上の
交錯点に位置している、という地理上の大きな括りが、まずある。そこではほとんどすべ
ての商人がフランス語で用を済ませる。ついで、規模が大きくなるにつれて、無数の小さ
な交錯点が発生する。つまり東方との交易が。もちろん、シャンパーニュでの出会いでは
なく、前段階での。ヴェネツィア商人とアラビア商人の交錯は、北緯41度線、東経28度
線の交差する都市で起こる。すると、ヴェネツィア商人の符牒に、新たな単語が生まれる。
砂糖、シナモン、香辛料。見たことのないそれらを名指すための単語が。ヴェネツィア商
人は、それらに高値を付け、そしてすぐにもうひとつの「交易地」をめざし、北上する。
移動が、ナツメグに似た香辛料メ―ス450gの価値を羊3頭分へと高騰させる。それととも
に名指された単語が流入する。イタリアがアラビアとの交易によって吸収した東方の言葉
たちが。douane関税、gabelle間接税、recif暗礁。新しいフランスの言葉が生まれる



オイルランプの燃える音、羽ペンの摩擦音、鐘の音。同室で眠ることとなる男は、勧める
だろう。あなたに眠ることを。せめて明け方のキリエ・エレイソンの祈りが聴こえるまで
は、と。消え入りそうな声で。取引に支障がでてはかなわないから、と申し訳なさそうに。
だがあなたは、筆写しつづけることを選ぶほかない。暗黙の、徒弟としての数々の規則が
あなたを縛りつけ、それは幾世代かあとに反故にされるのだが、いまのところ時代がそれ
を許すことはない。セーヌ川をルーアンまで下り、船底が浅い舟に乗り換え、7月の第一週
までに内陸へと到達する。そのために必要となる荷物を運ぶ家畜が集まらないなかで、あ
なたは羊皮紙を刻みつけるほかない。いままでの経過、そして損失の額。やがてリボンを
挟み、蝋で封印することになる手紙は、アレルヤ唱に至っても中断されることはなく



定期市は衰退する。衰退?時系列の歴史にまとめようとすれば確かに。13世紀の終わりに
徴候が現われる。だが、シャンパーニュの金融システムは衰退の予兆さえ示さない。なぜ
なら、簿記、為替、そして両替によって生み出される利潤が一方的に増殖を続けているの
だから。ここでは、さらなる発展の確信を抱くしかない。衰退があるとすれば、その金融
システムの発展がまねく事態。たとえば、誰もが市へ集まる徒歩の時代が終わり、周辺の
都市に代理人だけが駐在する、そのような自らの首を絞めた形。あるいは14世紀初頭、ヴ
ェネツィアが英仏海峡経由でブリュージュに行くルートを開拓し、陸路交易そのものの衰
退が決定的となるのだが、13世紀の人間は誰一人、衰退の予兆すら抱くことはない



あなたが苦しんでいるのを見つめる。商品の欠陥を目ざとく指摘されて。織物の染料が摩
擦によって色移りしていること。緯糸が、経糸に対して垂直でなく斜行をおこしているこ
と。あるいは、色の境目において濃色部分の染料が淡色部分に滲み出していること。誠実
なあなたは、聖女リディアを引き合いにだす言いがかりともいえる少額の取引にも、根気
強い説明を続ける。どの街も、この大市での信頼を守るために厳しい検査を経て運ばれて
いることを。あるいは、ハンザ17都市から運ばれてきたことを。説明するあなたの額に、
汗が滲みはじめて、わたしは悦びを隠しきれなくなる。わたしはのぞきみる。ブルゴーニ
ュ、ロンバルディア、シシリア。さまざまな言語が飛びかう中で定められた共通語―フラ
ンス語―が拙いために、とぎれとぎれに痙攣するあなたのくちびるを。わたしは想像する。
夜になれば葡萄酒を含んで、そのくちびるからあらゆる卑猥な悪態がとめどなく吐きださ
れることを。罵り声がわたしへと向けられ、昼間、織物を扱っていたあなたの手が唐突に、
わたしの頬をぶつ手に反転することを望みさえする



ナポリ、ジェノヴァ、ブリュージュ。そのいずれの港湾都市も経済の核となることがあっ
ても、定期市の中心となることはない。けっしてなめらかに流れようとしない気まぐれな
うず潮のように、ときにシリアのジュバイルの海洋都市に、ときになにもない空間―ダマ
スカス砂漠の真ん中に、キャラバンが集い、隊商宿がたち、ラバの通り道が地図の上に記
されてゆく。無数の生糸やチーズ、豚の脂身や出来のわるいワインが飛び交う交易をつく
りだしては消えてゆく。正規の商業ルートをはずれたささやかな交易の境界に都市が手を
伸ばすのは自然なことだ。だが、摘みとれば摘み取るほど、ひもとかれてゆくように、と
きの震えよりも淡い、流星のような交流が各地にばらまかれてゆくことになる



わたしは想像する。あなたがゆっくりと言葉を書きはじめることを。その手紙が、幼少期
に村を離れた理由―例年より早く訪れた冬がひきおこす食料の不足―から感傷的に書きだ
されることを、わたしは望まない。僕は汚れてしまいました。そうはじめに綴られること
になる手紙。それぞれの土地に聖女の名が与えられ記憶されるように、みずからの身体に
罪深い女の記憶が残り続けるような、そのような慰めのない余生はまっとうできませんと
でもいうような調子での。そのように書けばいい。文章から意味が失われていくように、
この平原の中央に位置する、キャラバンであふれた、ちいさな橋のかけられた、わたした
ちの街よりも夏のながい、降り注ぐ太陽の光が繊維を柔らかくみせる街での出来事の意味
も、感じなくなるだろう。明日の朝、食卓に供されるパンの味や、澄んだ空気の匂いから
も、よろこびを感じなくなるだろう。わたしの口から吐きだす気遣いに、いつものあたた
かみを感じることができず、その感じなさにたいする自身への痛みもなくなってしまうこ
ろ、わたしはひとり、小さな嗚咽を、とめどなく漏らしはじめるだろう

文学極道

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