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作品 - 20120430_539_6065p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


私はトカゲ

  右肩

 三錠分の言葉を呑み込もうとしていた。言葉の内実がそっくりえぐり取られて、喉を下っていく気配がある。言葉の内実をそっくりえぐり取って、喉を下していったので。
 まず一錠、のど仏のあたりがコクン。
 食道を下るものの、食道を下る様子をよく見ようとしたら、山崎さんの手を握ったまま、私の視界は内側へ反転し、山崎さんに、
「あら、三白眼。ん?白目。白目剥いてるよ、八重ちゃん面白い」と笑われてしまった。
 二錠め。三錠め。
 そんなことを言われたって、山崎さん、山崎理恵さん、あなたの内側だって、わたしが見ているものとおんなじ。こんなふうにピンクでねとねとして、うんと不愉快にしめってる。
 わかる?
 何かが身体に入る、それは頭を貫通する銃弾のようにはスマートに入り込まない。ダン、パパッ、プシューッとはいかないの。

 三白眼をくいっと渋谷の白昼に戻す。
 視界を取り戻すと物や現象を束ねる意識の箍が緩む。緩んで動く。
 くいくい。くくいくい。
 つまり、巨大な掌で揺すられるような感じで、街の構図も比喩的に振動したってわけ。うん。
 だからね、私ね、山崎さん、あなたに縋り付くようにしてずるずる崩れ落ちてるでしょ。いやん。何か色っぽい。あなたの柔らかいお腹に顔を押し当てて、下腹に向かってずるずるっといくと、股間から微かにあなたの尿の匂いもして。私は気持ちよくきもちよく内と外の刺激を反転し、やや攻撃的にそれを受容して山崎さん、あなたとあなたの渋谷を、ピンクでねとねとして生暖かい暗闇へ力任せに突っ込んだんだ。と。ゴトン。アスファルトに頭が落ちました。柔らかくありません。あいたた。
 とても赤みがかって、そして真っ暗。
「八重ちゃん、ヒトしてないよ。ヒトと言えないぞ、今。あの、もしもし。死ぬの?あなた死ぬことにしたの?」
 違うな、山崎さん。主観に死はありません。自分自身の死は神話的に創作されたもので、個人の中で不断に再創造されなきゃなんないから、つまり概念として存在するにすぎないんだ。知らないでしょ?理恵さん。
 死なないよ、私。死ぬつもりありませんから。

 身体を置いたまま、理恵さん、山崎理恵さん。あなたを残して私は渋谷の匂いを歩いてます。
 カレーの匂い、鶏肉を焼く匂い。それから麺を茹でるふわっとした湯気、その匂い。まだある。牛革のバッグの皺の寄った匂い。真っ新な衣服の匂い。もちろん人間やそうでない生き物の皮膚と様々な分泌物、排泄物の匂いも濃厚だ。都市の下水網、そのさらに地下にある水脈、地殻の下にもやもやと予感されるマントルの灼熱も。みな匂う。
 それらがまるで水彩の染みのように滲んで入り混じっている。聴覚もない視覚もない、肌触りすらない世界だけれど、私は確かに地表にいるし、私は確かに数万メートルの気圏の果てにいる。わかった。広大な出来事の総体が私でありました。
 改めまして、こんにちは。みなさん。

 私はトカゲです。目を閉じたトカゲ。目を閉じたトカゲの魂。目を閉じたトカゲの魂の、そのしっぽにあたる部分。
 私はこんなにわかりやすい神話として生まれたんだ。
 イザナギは今、天の御柱にじょうろで水をやっています。はしけやしまだきも小さき御柱に雨は降りつぎ風やまず陽はそそぎつつかげりつつ春の真ひるとなりにけるかも。
 空の高みまで湧き上がった砂塵。砂粒が水蒸気の凝結を身に纏い、地へ向かって鎮められていく。鎮まっていく。時間はトカゲの背に乗って、無明の湿地を進んでいます。
 泥の中に浅く浸るしっぽ。S字形に曲がったしっぽ。振り上げられてすぐ落ちてちゃぽといいしなまた動く。
 私の性欲は造山活動で隆起し、低粘度の熔岩を吹き上げながら愛している愛していますと泣いています。山崎理恵さん、あなたを。あなたのことを。
 愛していると。
「八重ちゃん、八重ちゃん。あなたここにいるじゃない。よかった。よかったよ。八重ちゃん、もうここにいないかと思ったよ」
 山崎さんは泣いている。
 私の頭を膝にのせて、体を深く折り曲げている。幾筋もの長い髪の毛が夜の扇状地に広がり、鼻をすするあなたの表情は歴史の彼方、朧に紛れて見えない。
 いいんだよ、泣かなくて。

 でも私はトカゲのしっぽ。
 渋谷は緩やかな谷間に身を潜めた極ささやかな建築物の時間的不連続帯でしかありません。
 理恵さん。あなたも私も。

文学極道

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