波頭に幽霊が踊っていた。報告したいとは大仰で、ほんの世間話を求めたが、見回しても堤防に立つのは私ひとり。ねえ、あそこに何か見えますね。だらしなく寝そべって、私の影は返事をしない。どうも幽霊じゃないかと思うんですが、私は構わずに続けてみる。彼は折り畳んだ腕を枕に、黙ってこちらを見上げている。あるいは顔を背けている。前後を判別するしるしでもあればよいのだが。彼の、幾分長めの胴体は、寝そべっていても支えるのに苦労しそうだった。どうもお疲れのようですね。実らない話を打ち切り、私は波頭の幽霊に向かって携帯電話を構えた。写真が残れば、後に誰かと話せるだろう。実は先日幽霊を見ましてね、いやいや冗談じゃなくって、証拠の写真だってあるんですよ。そんな具合に、話の種にうってつけだ。レンズ越しに見ると、夕陽に透けたシーツのような幽霊は、手のひらサイズの液晶画面の中で覚束ない。しかし拡大してみれば、波から波へと細かく跳躍し、フレームにひと時もおさまらない。ともかくシャッターを切ってみたが、波頭の水飛沫が手ぶれでかすれた写真としか見えなかった。どうにも信憑性にかけるね、君の見間違いでは? 課長のカゲヤマがにこりともせずに言う。いい眼医者を紹介しましょうか。愛想笑いを浮かべたカゲヌマが、いつものお調子者ぶりを発揮する。陰でダブルハゲとあだ名されているのを、彼らは知っているのだろうか。鬱ハゲと躁ハゲ、と。私にはどういう蔑称があるのか。どう思います? ふり向きながら尋ねると、さらに胴体が伸びた影の、首から先が堤防から落ちていた。大丈夫ですか。慌てて私が近寄ると、ずるずると彼の胴体が落ちていった。ああ、いけない、彼の頭がテトラポッドの角でくの字に折れている。急いで引き上げなくては。私は屈み、ぐったりした彼の足首を掴んで後退りするが、どこまでも長い胴体が繰り出されるばかりで、いっこうに頭が見えてこない。どうしよう、このままでは私が堤防の反対側に落ちてしまう。おい、助けてくれ。波頭で踊る幽霊に声をかける。おい、幽霊、手を貸してくれ。叫ぶと、携帯電話にメールが届いた、未登録のアドレスから。幽霊はお前だろ。彼の足首がなくなっていた。ただ胴体だけが限りなく拡大して、堤防どころか海ごと覆い尽くしていた。私の表面すべても彼の一部に過ぎなかったし、内側はもともと彼の一部だったことに気づいた。それに抗えたのは携帯電話の液晶画面だけだった。お調子者のカゲヌマから、一斉送信メール。ユーレイ今日いなかったじゃん。課長に聞いたんだけどあいつ辞めたってさ。ま、いてもいなくても一緒だけどね。一斉送信のグループに、私のアドレスが含まれていることさえ忘れられていた。この先二度と会わないのだから、たいした失敗ではないよ。そうカゲヌマを慰めてやりたかった。むしろグループに登録してくれてありがとう、そんな気持ちだった。私は少し悩んで、マヌケ、とだけ書いたメールをカゲヌマに送信し、携帯電話を海に捨てた。落ち着いて見渡せば、世界をすっぽり覆ったはずの影は、星や月や人間がつくる大小さまざまな光で虫食いだらけだった。それに、ブラジルあたりではまっ昼間なんでしょう、私は巨大な彼に言ったが、耳まで届いたかどうか。波頭には、どこから湧いたのかたくさんの幽霊たちが楽しげに踊っている。だって夜は私たちの時間だ。うまく眠れなければ、そっと暗幕をめくってごらん。私たちの中には、怖がらせたがりもいるし、怖がりもいる。私みたいに世間話に餓えたのもいるんだよ。
最新情報
選出作品
作品 - 20120224_627_5891p
- [優] 幽霊たちの舞踏と堤防の会話/2012.02.24. - 泉ムジ (2012-02)
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