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作品 - 20120213_390_5871p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


経血を、しのばせる

  浅井康浩

見知らぬ人から、虚構の物語は忘れろと言われ、きみはそれを手放す。ほんの3,4世紀以前の、まざまな年代記や聖人の覚書が忘れられることになるだろう。受難伝、聖人伝、そして教会史。活版印刷術の揺籃期におけるさまざまな挿絵もそこにふくめなければならないだろう。きみに伝えられた記憶は、時間の波にさらされ、いささか伝説めいた言葉で、過去の出来事を飾ろうとしているだろう。水溶性鉱物によってつくられるインクは、羊皮紙に刻まれた瞬間の淡緑色をとどめてはいないだろう。野蛮なルーン文字はトネリコの薄い板に書かれ、ゴティック・アルファベットに喩えられるだろう。だからこそ、オーレ・ウォルムは、畦<Rynner>を起源とする文字をもって反駁したのではなかったか。あるいは垂直軸,輪状部,水平軸のすべてを2本の罫線内に収めた大文字体の衰退について、きみは、速記によりうしなわれる文字の明瞭さと引き換えに、前後の文字のなめらかな接続によって特徴づけられる小文字体の書き手である写字生たちの手付きを、けっしてうらやみはしなかっただろう。だが、きみが犯すこととなる誤写―≪ad basilica≫を≪Abbas Ileca≫―は原本と異なるテクストの出現となって、さまざまな解釈をひきだすだろう。あるいは、そうならなくても構わない。徴税官、そして尚書官が残す手写本の権利証書が、小作人の訴訟、開墾の方法、課せられた領主権のかずかずを書きとどめていれば、それでいい。そうすれば、ゆるやかにたちのぼってくるだろう。万聖節の施与にパンがふるまわれる、刺繍屋にハリネズミの看板が掲げられた、媚薬として初潮の経血をしのばせていた娘のいるきみの村が。あるいは虚構の物語となるための出来事が。

文学極道

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