#目次

最新情報


選出作品

作品 - 20120206_292_5859p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ドッペルゲンガー

  笹川

高速回転するドリルが、分厚い金属板に穴を穿つ。ギアとハンドルを調整しながら私は、穴から螺旋状に生まれてくる金属片を見詰めていた。工場内では、数人の工員である私が無口に自分の仕事をこなしている。中央では鉄骨を囲む三人の私が、各自右手にベビーサンダー研磨機をかざす。その回転音は波のようなうねりをおびて工場内に反響し、研磨される鉄骨からは夕陽のような色をした鮮やかな火花が迸る。片隅では、アーク溶接の激烈な閃光を受けた防護面を被った私が、幽鬼のごとき青白きシルエットを見せている。休憩を告げるベルが鳴った。ふらりと現われた、明らかにアジア系外国人と思われる私が、穴あけ作業を続けている私に声を掛けた。「ねぇ、コーヒーおごってよ」工場内は静かになり始めているので、はっきりと声がとおる。私は手足が醜く干からびていき、髪が抜け落ちる感覚に包まれた。むき出しになった歯並びの隙間から、ひゅうひゅうと吐息が漏れていく。皮膚が溶けだし、全身の肉が紫やピンクに腐り落ちて、痛烈な吐き気を催す悪臭をかいだ。それでも私は死骸のような身体で喚き散らす。「消えろ! もう、消えろ」――プーッ、ファ〜ンファ〜ンファ〜ンファ〜ン。プーッ、ファ〜ンファ〜ンファ〜ンファ〜ン――。セコムの警報がけたたましく鳴り響く。駆けつけた警備員である私が、逃げようとする私を乱暴に取り押さえた。私に詰問され、怒鳴られ、洗いざらい喋る。工場のこと、穴あけをしたこと。工員の私には、どうすることもできなかった。――ごめんよ――。トイレから、泣きながらメールを送った。もう、私が許されることはない。法律なんぞ関係ない。コーヒーをおごってしまったのだから。メールを受け取った私は血相を変えてガレージに行き、車に掛けられたカバーシートをめくる。両手の震えを止めることができない。それでもなんとか着座し、キーを回す。車検切れの黒いグロリアは頭に突き刺さるような音を上げた後、アクセルに反応して激しく吠えた。凄まじい勢いでガレージを発進した車は、運転席に少年である私を乗せ、悲鳴に似たスリップ音を掻き鳴らして郊外へ逃走した。いつの間にかバックミラーにパトカーが映るようになり、徐々にしかも確実に台数を増やしていく。赤い幾つもの回転ランプが、息の根を追い詰めるように私に付きまとう。しつこく追尾され、一般車の間を縫い、国道を逆走した。死霊の幻影のような対向車が、猛スピードで脇をかすめていく。エンジンの咆哮とサイレン音が憔悴した私を包んだ。グロリアは30分のカーチェイスの末、道路端の電柱に激突。車は滅茶苦茶に壊れた。私の全身からの出血で、車内は赤く染まっていたという。幸い命には別状なく、私は四カ月の入院の末に警察官に採用された。拳銃を素早く正確に分解するにはスライドとフレームを分けなければならない。マガジンを抜き取り、テイクダウンボタンを押したまま、テイクダウンレバーを時計方向に止まるまで回す。フレーム反対側の軸の部分を押し込みながら回すとやりやすくなる。90度回って下を向いたところでレバーは止まる。ハンマーを起こし、両手でグリップを握り、両親指でスライド後端のハンマー両脇の部分を押す。けっこう固いが、かまわずぐいっと押してやると、スライドとフレームの結合が解けて前方に動く。見慣れた教本を机においた私は留置所の鉄柵前に立ち、一頭のふたこぶラクダを見た。毛の生え換わり時期なのだろうか。長い毛が、まだら模様のようになって身体にこびり付いている。短い体毛も、すでに生え揃っていて、長い毛の束は軽く引っ張っただけでずるりと抜け落ちそうだ。ラクダは酷く興奮していた。突飛に身震いを繰り返し、三十坪ほどの檻の中を駆けずり回る。やがて目の前の鉄柵に、顔面を押し付けるようにして汚い歯を剥いた。狂気すら帯びた瞳は虚ろで、熱い吐息とともに涎が滴り落ちる。何が見えているのか。そうだ、ぼたん雪がちらちらと真っ白な空から落ちていた。踏みしめる土は、泥と呼びたいほどにぬかるんでいた。ラクダの荒い息は何を求めているのか。何が見えているのか。私が砂漠の只中にひとり、寂しそうに突っ立っていた。身には何の衣類も纏っていない。強い陽射しが砂に降りそそぎ、影が濃く映る。地平線に浮かんだ陽炎から、長い時間を掛けてラクダはやってきた。私に触れるまで近づくと、唇を震わせて臭い息をぷーっと吹きかけ、私の顔をべろりと舐める。私は涎まみれになった顔をぶるぶると左右に振った。滴が辺りに飛び散る。その様子を気にも掛けず、不意に背を向けたラクダは、何もなかったかのようにゆっくりと砂の曲線の果てに消え去った。やがて砂漠の世界は小さく縮んでいき、鉄柵に顔の左側を押し付けているラクダの大きな瞳だけが意識の暗闇に残る。私の横にいた警官である私の頭が吹っ飛んだ。私が柱の陰からマグナム弾を発射したからだ。飛び跳ねるように倒れたこの男の頭蓋骨は、下顎のみを残して消え去っている。私の頬には私の肉片がこびり付いていた。「ひぃーっ」「おい、逃げるなよ」私が声を掛けた。その言葉を無視して私は駆けだす。――ガッ、タ、タン、タ、タ、タン――。ロビーへの通路出入り口付近にいた私が小銃を掃射した。蹴つまずいたように倒れた私の腹に、命中した痕が赤い染みをつくっている。私は至近距離まで歩み寄ると、無言のまま、こいつの頭に向けてマグナム弾を発射した。さらに、ベルト周りにくくり付けて用意していた手榴弾四個のピンを両手で次々と抜き、署長室前に向かって転がし気味に投げつける。私の群れが動かす足元の只中に、それは消えた。素早く階段まで逃げ込む。私はすでに避難していた。私はすぐさまハードケースを開け、M16自動小銃を取り出す。目の前に立つフリーライター風の私がそれを見ているが、唖然として何の言葉もない。三秒後に爆音と空気振動がきた。私は周囲と同様によろめきながらも立ち直し、冷静に、残酷に、掃射を始める。服を纏った肉体たちに穴をあけていくのは、なかなかの快感かも知れない。――ガッ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――。全弾三十発を撃ち尽くした後、マガジンを変え、階下から来る私をも狙い撃つ。私は切迫感だけに包まれていた。声もださずに倒れていく相手は、標的以外の何物でもない。私は銃を手にしたまま、立ちすくんでいる。数回も飛び跳ねるように悶絶し、床に崩れた私が、私の目にはわざとらしく映った。「カンフー映画の下っ端か、お前は」と、呟く。太腿に装着したベレッタの扱いは警察学校での訓練ですっかり手に馴染んでいる。正確に素早く組み立てる為には、まずハンマーを起こしておく。そして、フレーム後端のレールに、スライドを前から斜めにはめる。そのままでは、スライド先端が浮いたままになって、フレームと平行にならない。バレル先端の銃口部分を少し押しこんでやると、スライド全体がフレームにカパッとはまる。制帽を廊下の隅に放り捨てた。飲食店が多く入る本庁ビルの7F。メイプル材でこしらえたような、艶やかなドアを開けると、薄暗い店内を天井から蝋燭色に照らすアールデコ風のシンデリアが目に入った。壁にはいくつもの百合の形をした照明が付けられ、ボックス席の照度をおもわくどおりに調整していた。壁には翡翠色で草花模様がデザインされている。二十坪以上ありそうな広い店内。バーカウンター内に栗毛色の髪をアップにした四十女の私が立っていて、私の方を向き、愛想のいい声で「いらっしゃい」と言った。フロアーの真ん中付近に置かれた黒いグランドピアノには、スタインウェイの金文字が刻まれている。挨拶にこたえた私は鍵盤の数カ所を押すようにして、調律が合っているかを確認した。どうやら完璧のようだ。ショパンの『英雄ポロネーズ』を弾き始める。多くの批評家がこの曲を絶賛し、多く演奏家がこの曲は冒険だと言う。変イ長調の調の中にナチュラルやシャープが連発される鬼のような楽譜なので、それを見ながらではとても演奏スピードを確保できない曲だ。澄みわたる大空へ向けて、偉大な栄光を誇るような歓喜に満ちた主題が、聴く者のこころを高揚させる。演奏は軽快な指使いで、繊細に始められた。手を鍵盤から離して、腕全体を使って指を自由に動かす。本能的で、純粋に感情的なようだが、実際には、右手が少しの乱れもなくメロディをかなでているとき、左手の伴奏部は常に確実なテンポをきざんでいた。私は実に堅実なピアニストなのだ。数カ月のブランクはあるが、幼い頃から培った感性や、訓練されつくした技術は鈍ってなどいない。ショパンの祖国ポーランドを独立へと導いた、英雄ナポレオンの勇士が目に浮かぶようなエモーションだ。四十女の私は少し離れた席で目を閉じて聴いた。私が演奏を終えた時、四十女の私の顔は輝いていた。きっとロマンチックなドラマがイメージできたのらしい。抱きしめたいような風で大げさに拍手を送る。そうだ、嘆きなど、とるに足りない。私の言いたいことなども虚しい。皆、何を見ているのだ。滑稽な、寄り添って励まし合う私たち。それぞれの小屋に響く舞曲か。ちんちくりんの世界よ。幼稚な夢よ。ムエタイで45戦、プロボクシングでも14戦無敗の私は、カウント7で立ちあがってきた。燃えるような目をしている。その迫力は私にとって、まるで獣と対峙しているかのようだった。――何だ、この野郎――。チャンスをむざむざと見過ごすほど私はまぬけではない。飛び出すように間合いを詰めて、左からのワン、ツーに右のダブルフックを放つ。ダブルはボディーに命中してからガードされている側頭部にヒットした。確実にダメージを与えているだろう。相手の私の脚がとまり、苦悶の表情を浮かべるのを見た。歓声に私の身体は踊り、己の呼吸リズムで攻撃を勢いづける。一気にロープ際まで追い詰めて連打し、右テンプルに手ごたえのあるパンチを喰らわす。私の瞳から光が消えているのを見る。それでも反撃の強いパンチが私を襲う。目の前に迫った大きな青い拳の影に肝を冷やした。ボクサーはマシーンだ。プロならば、たとえ意識が朦朧としても身体が勝手に反応する。ガードの上から滅多打ちにしようとするが、私はパンチを喰らいながらも、頭を後ろにそらすスウェィバックやウィービングなどでしぶとく逃れきった。私は、相手が目の焦点も虚ろなのに倒せないでいる。自分がステップを踏む、キュッキュッという音が私の耳に残った。この私が今までにくぐった修羅場とは、それほどにも過酷だったのか。焦りからでた大振りのパンチをかわされた後、うまくクリンチされてしまう。抱き合う体勢になるのは屈辱だ。ゴングが鳴らされ、まんまと逃げられた。――くそったれ、倒せないはずはないだろ――。それでもダウンを奪って優位なのには変わらないが、私のその勝利への気負いが、オーバーペースの裏目にでた。息が上がり、私の俊敏だった動きが雑に変わっていく。機を逃さず、老練な私が反撃を開始した。執拗に、意識的に、左右足の付け根、腰骨のすぐ下を打つ。ローブローの反則で二度も減点されたのに、いっこうにやめようとしない。ポイントで負けているのだから、このタイで生まれた戦士の私に判定勝ちはないのだ。ムエタイでは、足の付け根が動きをとめる為の急所だった。4ラウンドぐらいから出始めた、ひりひりとした痺れみたいな感覚は、6ラウンドが始まるときにはコーナーの椅子から立つのに苦心するほどの痛みとなる。私のパンチは確実に挑戦者の顔面をとらえ始め、6、7ラウンドと続けて双方が接戦の打ちあいとなった。私は右瞼を切る。「オォーッ!」7ラウンド終了の鐘を聞き、赤コーナーに戻る私が突如として吼えた。――ぶっ倒す、ぶっ倒す、ぶっ倒す、ぶっ倒す、この野郎――。1分間のインターバル。激しい動悸を収める為に、水を入れたビール瓶をラッパ飲みし、直後に嘔吐する。誰が両肩を揉んでいるんだろうと私は思う。トレーナーの飛ばす檄にエコーが掛かって聞こえる。再開のゴングが鳴らされた。――ちょろちょろと動くんじゃねえぞ、ぼけが――。必死の私は、私の右ストレートをかわすタイミングで、派手な頭突きを喰らわせた。相手の私は顔をおさえ、悶絶してひっくり返ったが、数秒後、またもや立ち上がった。レフリーは激昂し、私にバッティングの反則を言い渡す。私の左瞼はぱっくりと切れてしまい、おびただしい出血が痛ましい。顔の半分ほどが血にまみれた。両者ともワセリンを厚塗りして出血をごまかす。死闘となった8ラウンド。打ちあいのさなかに私の意識がすーっと抜けた。唐突にスイッチは切れたのだ。まるで遭難者が気持ちのよい眠りを受け入れたかのように。間髪いれず私は、燃え尽きそうな身体に残る渾身の力を振り絞ってパンチを放った。「ゴスッ」左フックをまともに顎に食らった時、私はその音を聞いた。ロープに腰を落とすようにして倒れる。仰向けの、ぶざまな大の字となってリングに横たわった。歓声のざわめきが遠く聞こえた。

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.