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作品 - 20120131_142_5840p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


安らかな生活

  泉ムジ

 首尾よく忘れてきた、普通の一日たちを、思い出そうとすることは、何より苦痛ではないだろうか。めずらしくもない電信柱の根元に、くくり置かれた、古い雑誌の束、その何頁めかに、私と、私の女が、安らかに挟まれている。

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 寝る、と宣言して、女は二度と起きなかった。理屈を好まぬ女に、わけを尋ねることもせず、私はつかの間、片手でくるくると団扇をまわした。それから、女の足首をさすり、時に強く、握りしめてみた。
 薄い胸をかすかに上下し、すっかり縁がほつれてしまったお気に入りのタオルを、かよわい腕に抱き、女は寝息をたてている。肘をつき、横たわった私は、片手に持った団扇で蚊を追い払いながら、目を瞑った女の横顔に、しあわせを感じていた。

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 木々が途切れると、乗客たちは顔を上げ、朝の海の眩しさに自ら射抜かれようとする。バスが国道をすべり、ふたたび車窓が木々に覆われると、正気を取り戻した順に、乗客たちは俯いてゆく。
 私は未だ、窓を眺めている。あの入江には、イルカが泳ぐのだと、女が言ったことがあった。続けて、イルカは脳を半分ずつ眠らせるのよ、と。
 車内をうつす窓の、手が届かぬ向こうで、得意な顔の女が笑う。慌ててその顔を寝顔と差し替えようと試みるが、女は一段と目を開き、口を歪め、愉快極まりないという表情で、私のしあわせを脅かす。
 次の停留所でバスを降り、職場に、気分がすぐれないために休ませていただきます、と連絡を入れる。このようなことが度々あり、やがて私は職を失った。

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 眠る女を観察し、少しも飽きない。豪快な寝返りで壁を蹴飛ばしたすぐ後に、ちいさく縮こまり、お気に入りのタオルをおちょぼ口で吸ったり。愛らしい寝顔は、私を魅了して止まなかった。
 女が眠ってから、私は一睡もしていない。夜中ずっと団扇を弄び、寝息に耳を澄ませる。私と女が、あわせて一頭のイルカであるなら、そのうち、交代に私が眠り続ける、そのようなことがあるかもしれない。しかし女が、私と同じようにしあわせを感じるかどうか、私には解らない。

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 職を辞す、最後のあいさつを終え、私は海にいた。波うち際には、アルファベットの名称の、用途不明な溶剤の空きボトルたちが、私が生まれるはるか前からたゆたい、そのラベルを泡が曖昧に見せてゆく。
 日暮れを迎え、浅瀬に泳ぐ魚は、近すぎる岩肌に身を裂かれ続けるのだ、と、思う。こんなに狭い入江に、イルカが訪れるはずがなかった。私は急ぎ、帰宅した。

文学極道

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