ベッドルームには青い嘔気が満ちている。僕は靴下を取り違える。中にはまるで
役に立ちそうにないものもある。どこにでも行けそうで、どこにも行けない。裸
足の指はカーペットの毛並みに逆らいながら這っている。サイドテーブルの上、
昨夜から置きっぱなしのハムサンドに手を伸ばす。乾いた噛み跡にかじりつくと、
嘔気は弾け、ベランダから落下した。
蛇口を締める高い音。部屋の壁に跳ね返り、白になびいてなおも充溢する光。壁
の時計に目をやると、案の定正午を過ぎている。明日は午後から偏頭痛だろう。
ベッドに身を預け、仰向けのまま、枕元の文庫本を手に取る。夕べどこまで読み
進めたか、まるで思い出せない。確か、ボストンで、22歳の女性と、西ベンガル
出身のリッチな妻子持ちとが偶然出会って、そんな話だった気がする。しかし、
記憶を辿ってみても、栞は見つからない。持ち上げたままの右腕がだるくなり、
身体を右に傾ける。そのはずみに左足のかかとと右足のくるぶしの辺りがこすれ
合い、僕は今、文庫の丁度真ん中辺りを開いている。
長針と短針が重なり合い、やがて離れていく。壁の時計は鳴らない。まだ子供が
小さいんだし、と言われたから。もう子供は大きくなった。それでも、やはり壁
の時計は鳴らない。また鳴らせるはずだが、このままでいいようにも思う。下の
通りが少し騒々しい。左腕をいっぱいに伸ばしてカーテンを閉じると、時計の針
は薄暗がりに沈んでいった。遠くから微かな、サイレンの音。
ベッドに寝転んでハムサンドをかじりながら文庫をめくるのは、マスタードで指
を汚さずに1.5人分のチーズ・ワッパーを食べるよりかは簡単なことだ。通り
雨に降られずに済む程度の幸運を享受したままでいられたらと思う。もちろん、
青い嘔気にあてられて、心肺蘇生を受けるような状況から自由でいられたらなお
いい。
身体を起こし、タイトルさえも記憶しないまま、文庫を投げ捨てる。それはベッ
ドの縁を越え、視界から消え、雑味のない落下音をたてる。不思議なもので、些
末なこと程よく覚えている。あの時、僕は助手席でウィルキンソンのジンジャー
・エールを飲み干し、運転席の君の両手には、ジャワティ・ストレートのペット
ボトルがぬくめられていた。そして、伸ばした足の先、ベッドの下に恐らく閉じ
た状態で転がっている文庫の、こんな一文も覚えている。
「知らない人を好きになること」
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作品 - 20111025_125_5643p
- [優] セクシー - 宮下倉庫 (2011-10)
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セクシー
宮下倉庫