猫のにゃん太郎は鳴いた。不愉快である、と。ひっきりなしにベランダに降りこむ雨に、
ではない。彼は、ひなたぼっこなどというお遊戯に興味がない。彼のもっぱらの楽しみは
のぞきである。向かいのアパートでは、最近越してきたばかりの若い男が一心不乱にポエ
ムを書いていて、それがまったく気に入らないのだった。前に住んでいた女はよかった。
昼間は仕事でほとんどいなかったが、夜は一人暮らしの孤独を慰めようと必死になって、
安いワインに溺れてみたり、だれかれ構わず電話をかけてみたり、時には名前も知らない
男を引きずりこんでみたり、あげくの果てには風呂場で手首を切ってみたり。それでも、
次の朝になれば平気な顔で仕事に出かけた。のぞく楽しみに満ちあふれていた。ところが
今のヤツときたらどうしようもない。邪魔っけだったレースのカーテンがなくなったのは
いいが、何の起伏もなく馬鹿みたいなスピードでポエムを書き続けている。ただそれだけ
である。いや、ポエムかどうかはわからないが、どうせ気づかれまいと、いちど近くまで
忍びよってみたら、でたらめを書きつけているだけだったので、こんなものはおそらくポ
エムに違いないと判断したのだった。しかしこの男、飯も食わずに眠りもせず、トイレに
立つことさえせずに、朝から晩までもう3日間こんな生活を続けている。不思議と言えば
不思議だ。こっちだって限界すれすれまで生理的欲求を抑制して、ほとんど看守のような
気分で見張っているし、まさかそれに気づいてこっそり済ますことなどできるはずがない。
そこまで考えて、彼ははたと気づいた。そして顔をゆがめ、鳴いた。不愉快である、と。
途端に降りしきる雨が雨でなくなり、みにくい文字列となって、次第に消滅していった。
あわてて彼がベランダから跳躍すると、間一髪でベランダがラベンダーにならび変わり、
落ちついた芳香を漂わせながら消滅していった。空中を落下しながら、彼は鳴いていた。
私はにゃん太郎である。どうかイメージして欲しい。一点の曇りもないつややかな黒毛、
サファイアのように冷徹に透きとおる青い瞳、かたくぴんと尖った元気いっぱいの短い耳、
それと対照をなす、やわらかく気品のある長い尻尾。こんなでたらめは許せない。にゃあ。
男はポエムを書き終えた。息を詰まらせながら伸びをすれば、もう3日くらい書き続けて
いたような気がした。無精ひげをさする手のひらが心地いい。いつの間にか雨はすっかり
止んでおり、今年の梅雨はもう明けてしまったかねえ、などと凡庸な感慨をつぶやきつつ
窓を開けると、猫が飛びこんできた。うわあ、なんだ、かわいい黒猫じゃないか。よし、
お前は今日からにゃん太郎だ。にゃん太郎、何か食べるか。愉快きわまりないという顔で、
男は笑った。にゃん太郎と名付けられた黒猫は、目を細め、ごろごろとのどを鳴らした。
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選出作品
作品 - 20110910_571_5526p
- [優] でたらめ - 泉ムジ (2011-09)
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