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作品 - 20100917_337_4707p

  • [佳]  銀の雨 - はかいし  (2010-09)

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銀の雨

  はかいし

やかましいほどの叫びを上げて小鳥たちが飛び立つのを暑さの中で聴いた。ひとつ、ひとつと逆光の中の影が深い青さの中に飲み込まれていく。一匹の猿が毛深い木の上へ駆け登りそれを見送った。ぼくはその猿を追い掛けて木に上る。揺さ振られた枝から肥大した芋虫が落ちてくる。太い胴体には紫の環が張り巡らされ模様をつくっている。猿は近くの葉にしがみついていた芋虫を拾ってモシャモシャ食べてしまう。それに倣って芋虫を口に含む。甘さが噛むうちに酸味に変わっていく。向こうの山焼けの火から煙が立ち上っては、風に当たって何度も消えていく。突然猿はぼくの顔を見て笑い出す。ぼくはしばらく不思議に思っていたが、その猿の舌が青く光っているのを見て思わず笑う。


山焼けに驚いた鳥たちの群れが煙を避けて次々飛んでいく。猿がその群れのひとつを指差して興奮の声を上げる。青い瞳をした灰色の翼が整列してこちらに真っ直ぐ飛んでくる。ぼくはそれが何という鳥だったか思い出せない。この辺りに住むようになってから始まった物忘れは今でも続いている。頭より先に手が動く思考に、記憶は反復される機会を失った。これは、物の名前を覚えたり、誰かと会話することもなくなったせいだ。こうして木の上で暮らしていればいいのだから。そして群れはぼくらの上を通り掛かり糞の雨を降らして去っていく。ぼくも猿も体中銀色にまみれ、笑いながらお互いの体を嘗め合う。仄かに甘く水分が豊富に含まれている。そうだ、この雨林に住まう前、ぼくはあの群れを『銀の雨』と呼んでいたのだった。ぼくらはもうかなり後ろに行ってしまった『銀の雨』に向かって大きく手を振った。『銀の雨』は甲高くゲラゲラ笑いながら小さくなりやがて霧の中へと姿を消した。


猿はすっかり満腹になり太い幹にもたれ掛かり眠っている。ぼくは周りに敵がいないかどうか見張る。例えば、まだらの黒点を纏うあの獣や、大空から襲ってくる猛禽類。この辺りの森も開発の影響を受け多くの木々が伐採されているため数はそう多くはない。住家を奪われた獣たちの行き場はなく大抵はその場で死ぬ。木に跡を付けて数えていたその個体数も今ではただの引っ掻き傷にしか見えない。変化を、記憶できないのだ。動物たちの数が、減っているのか、増えているのか分からない。思い返せば、この森に入ったときに持っていた道具があった。歳月がその道具の使い方を失わせ所在は色褪せていく。名前などなかったかもしれない。その穴の空いた先端部分を向けられた相手はあっという間に血を吹いて死んでしまう。覚えているのはそれだけだ。だからぼくらはそれを持っている人間、あるいは持っている気配のする人間には決して近付かない。


不意に風圧が強くなり頭上に影が過ぎる。ぼくは猿を揺すり起こし戦闘の体勢に入る。翼の内側だけが深紅に染まった巨大な黒鳥。上空を旋回しながら隙を見て襲いかかる気だ。ぼくらは長めの枝を折りしきりに振ってこちらの警戒を示す。いつもより殺気立っており逃げようとはしない。急降下し、ぼくらの側に突っ込んでくる。木の枝と拳を振るう。素早く交わし怪鳥は鈎爪をぼくの腕に噛ませようする。猿が枝を繰り出す。怪鳥はそれでも諦めない。大声で威嚇して猿を襲う。すかさずその頭部を殴る。怪鳥は獲物を諦め飛び去っていく。ひどい空腹だったのだろうと思う。そして、今度はぼくが眠る番になる。


夢の中に飛び込む。今日浴びた銀の雨の中に沈んでいく。重たい水を掻き分けて顔を出す。水銀の海が広がり照り付ける陽射しを反射する。雲の切れ間にあの芋虫たちがへばり付く。少しずつ皮を脱いで蛹化し、食べようとするぼくの手は届かない。水位が次第に増し液が体の中に染みて身動きができなくなり溺れかけたところで目が覚める。
夜の雨林は憂鬱の景色。星たちが青白く輝きながら無数の雲の裏側を抜けていく。ぼくはかつてその名前と位置をすべて覚えていた。今はその数を数えるだけ。途中でどこまで数えたのかが分からなくなる。いつか、分からないということさえも、分からなくなるかもしれない。あるいは気付かないだけで、既にそうなっているのかもしれない。
ここでは、ただ、危険なものを避けていればいいのだ。危険なものが何なのか分からなくなるということは、それが危険である限り一生ないだろう。危険は目に見えるものであり、耳に聴こえるものだ。そうして毎晩少しずつ忘れていく。

文学極道

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