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作品 - 20100609_234_4457p

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THE GATES OF DELIRIUM。

  田中宏輔



 そこに行けば、また詩人に会えるだろう。そう思って、葵公園に向かった。魂にとって真実なものは、滅びることがない。葵公園は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるところに、その河原の河川敷から幅の狭い細長い道路を一つ挟んであった。下鴨本通りと北大路通りの交差点近くにあるぼくの部屋から、その公園に行くには、二通りの行き方があった。北大路通りを西に向かって上賀茂橋まで行き、そこから川沿いに河川敷の砂利道を下って行く行き方と、下鴨本通りを南に向かって普通の歩道を歩いて行く行き方である。
 途中、下鴨本通りにあるコンビニに寄って、マールボロのメンソール・ボックス一箱と、コーヒー缶を一つ買った。公園に着いたときにも、陽はまだ落ち切ってはいなかった。しかし、公衆便所の輪郭や、潅木の茂みの形は、すでにぼんやりとしたものになっていた。飲み終わったコーヒー缶をクズかごに入れ、便所の前にあるベンチに腰かけると、タバコに火をつけて、ひとが来るのを待った。詩人を待っているのではなかった。詩人が現われるとしても、それはすっかり夜になってしまってからであった。タバコをつづけて喫っているうちに、便所に明かりが灯った。時間がくると、自動的に電灯がつくのであった。だれも来なかった。
 詩人がいつもいたところに行くことにした。詩人はよく、少し上手の河川敷に並べられたベンチの一つに坐っていた。ぼくは、道路を渡って河川敷に向かって下りていった。潅木の生い茂る狭い道を通って石段を下りると、茂った枝葉を覆うようにして張られていた蜘蛛の巣が、顔や腕にくっついた。手でとってこすり合わせ、小さなかたまりにして、横に投げ捨てた。砂利道に下りると、ちらほらと人影があった。腰をおろして川のほうを向いているひとが一人。ぼくより、十歩ほど先にいる、ぼくと同じように、川下から川上に向かって歩いているひとが一人。ぼくとは反対に、川上から川下に向かって歩いてくるひとが一人。その一人の男と目が合った。ぼくたちは値踏みし合った。彼は、ぼくのタイプじゃなかったし、ぼくも、彼のタイプじゃなかった。彼がまだ視界のなかにいるときに、ぼくは視線を、彼のいないところに向けた。彼の方は、すれ違いざまに、ぼくから顔を背けた。ぼくは、目の端にそれを捉えて、あらためて、ぼくたちのことを考えた。ぼくたちは、ただ本能のままに自分たちの愛する対象を選んでいるだけなのだと。ウミガメの子どもたち。つぎつぎと砂のなかから這い出てくる。ウミガメの子どもたち。目も見えないのに、海を目指して。ウミガメの子どもたち。おもちゃのようにかわいらしい、ぎこちない動き方をして。ウミガメの子どもたち。なぜ、卵から孵るのだろう。そのまま生まれてこなければいいのに。ウミガメの子どもたち。詩人の詩に、ウミガメが出てくるものがいくつかあった。以前に、ウミガメが産卵するシーンをテレビで見たことがあって、それを詩人に話したら、詩人がウミガメをモチーフにしたものをいくつか書いたのであった。河川敷に敷かれた丸い石の影が、砂利道の上にポコポコと浮かび出た無数の丸い石の影が、ぼくにウミガメの子どもたちの姿を思い起こさせたのだろう。そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に、詩人がいつも坐っていたベンチのところに辿り着いた。ベンチは、少し離れたところに、もう一つあったのだが、そちらのベンチの方には、だれも坐らなかった。坐った瞬間、ひとが消えるという話だった。じっさい、何人か試してみて、すっと消え去るのを目撃されているのだという。川辺の風景が、流れる川の水の上に映っている。流れる川の水が、川辺の風景の上に映っている。もしかすると、流れる川の水の上の風景の方が実在で、川辺の風景の方が幻かもしれなかった。
 月の夜だった。満月のきらめきが、川面の流れる水の上で揺らめいている。よく見ると、水鳥が一羽、目の前の川の真ん中辺りの、堆積した土砂とそこに生えた水草のそばで、川面に映った月の光や星の光をくちばしの先でつついていた。その水鳥のそばの水草の間から、もう一羽、水鳥がくちばしをつつきながら姿を現わした。二羽の水鳥は、寄り添いながら川面に映った光をつついていた。しかし、水鳥たちは知っている。ぼくたちと同じだ。いくら孤独が孤独と身をすり寄せ合っても、孤独でなくなるわけではないということを。どれほど孤独と孤独がいっしょにいても、ただ同じ孤独を共有し、交換し合うだけなのだと。どれだけ孤独が集まっても孤独でなくなるわけではないということを。ゼロがどれだけ集まってもゼロであるように。
 水鳥が川面のきらめきに何を語っているのか知っているのは、ぼくだけだ。水鳥は、川面に反射する月のきらめきや星のきらめきに向かって、人間の歴史や人間の秘密を語っているのだった。それにしても、繰り返しはげしくくちばしを突き入れている水鳥たち。まるで月の輝きと星の輝きを集めて、早く朝を来させるために太陽をつくりだそうとしているかのようだ。たしかに、そうだ。川面に反射した月明かりや星明りが集まって、一つの太陽となるのだ。あの便所の光や、ぼくのタバコの先の火の色や、川面に反射した、川沿いの家々の軒明かりや、窓々から漏れ出る電灯の光が集まって、一つの太陽となるのだ。しかし、それは別の話。人間のことはすべて知っているのに、ぼくのことだけは知らない水鳥たちが、川の水を曲げている。ぼくのなかに曲がった水が満ちていく。夜はさまざまなものをつくりだす。もともと、すべてのものが夜からつくられたものだった。
 事物から事物へと目を移すたびに、魂は事物の持つ特性に彩られる。事物自体も他の事物の特性に彩られながら、ぼくの魂のなかに永遠に存在しようとして侵入してくる。一人の人間、一つの事物、一つの出来事、一つの言葉そのものが、一つの深淵である。そして、ぼくの承認を待つまでもなく、それらの人間や事物たちは、やすやすと、ぼくの魂のなかに侵入し、ぼくの魂のなかで、たしかな存在となる。ときどき、それらの存在こそがたしかなもので、自分などどこにも存在していないのではないか、などと思ってしまう。薬のせいだろうか。いや、違う。ぼくが錯乱しているのではない。現実の方が錯乱しているのだ。どうやら、ぼくの思いつくことや、思い描いたりすることが、詩人の書いた詩やメモに、かなり影響されてきたようだ。詩人がこの世界から姿を消す前に、ぼくの名前で発表させていたいくつもの詩が、ぼくを縛りつけている。詩人と会ってしばらくしてからのことだ。いつものように、ぼくの体験したことや、思いついたことを詩人に話していると、詩人が、ぼくのことを詩にしようと言い出したのである。それが「陽の埋葬」だった。それは、ぼくの体験をもとに、詩人がつくり上げたものだった。ぼくはけっして、ぼく自身になったことがなかった。ぼくはいつも他人になってばかりいた。詩人はそれを見通して、ぼくに対して、もうひとりのわたしよ、と呼びかけていたのだろう。詩人も、ぼくと同じ体質であった。ぼくと詩人が出会ったのは偶然の出来事だったのだろうか。おそらく、偶然の出来事だったのだろう。あらゆることが人を変える。あらゆることが意味を変える。その変化からまぬがれることはできない。出来事がぼくを変える。出来事がぼくをつくる。ぼくというのも、一つの出来事だ。ぼくが偶然を避けても、偶然は、ぼくのことを避けてはくれない。
 一つの偶然が、川下からこちらに向かってやってきた。

文学極道

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