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作品 - 20091031_870_3902p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


この場所で

  浅井康浩

もしもこの場所で語りつづけることがゆるされるのなら、まずはじめに音楽のことを。チ
ェロによる八小節のあとにひびいてくるオーボエのゆたかさをはなそう。誰にとっても静
けさというものがそうであるように、あるときにふと、音ともいえないかすかなゆらめき
がこめかみをかすめることがあるのだろう。どこからともなく洩れてくるその音が、ピス
トルが世界から消えてゆくあかるさであるよりも、だれかのメヌエットであることが望ま
しいひとたちへ、フィレンツェの春のすべてを持ち寄って、a・d・e・aの和音を鳴らそう




このままねむってしまうのなら、みずからの呼吸、そのまばたきやふるえとかそういった
すべてをわすれて、ただ耳をすましていたい。あなたの吐き出す息の、ただ意味もなくう
つくしい、ということ。いままできいてきた言葉の、そのどれもがよくわからなかったと、
今になっておもうこと。あしたになればまた、あらゆる人々とかかわりをもってしまって
ゆく。そんなくりかえしも夜になれば消えてしまって、ニワトリみたいに忘れさってしま
う。しんしんとしずまってゆくこの場所で、コクリと喉が鳴ったなら、あしたのそらは明
るいのだろう



また、くさむらにねころがってるあいだに君がきていた。なにを言っているのかはわから
なかったけれど、とてもやさしいまなざしをしていたので、たしかに何かがしずかに終わ
ったのだとわかってしまった。あたりには、昨日までは気づかなかった香りが空気にとけ
こんでいて、終わることのない陽射しの、とてもわかりやすい明るさにうながされて、世
界は音律をふくみはじめていた。まばたきの音がして、ハリビユのみどりがはじけて、い
くつかの小さな出来事なら忘れられそうな、とてもいい匂いがした。言い添えるよ、この
場所で。ねぇ、あかるいはなしをしよう。たとえばくさむらのみどりの。つゆくさのみど
りの。

文学極道

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