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作品 - 20091021_668_3884p

  • [佳]  notitle - いかいか  (2009-10)

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notitle

  いかいか

2009-10-20

ひとつ、ふたつ、みっつ、と転がるようにして指折り数える。何を数えているかは誰にもわからない事。指折り数えながら、折れていったことの多くが、よみがえって挨拶をするかのようのして、今は去っていく。その事は悲しくもなければ、嬉しいことでもないが、何故か清々しい。昨日、山道を抜けて神社にいった。といっても、この山道を知っている者はほとんど誰もいない。この道は役目を終えてしまっているのが分かる。木々が倒れ、道は途中から分からなくなっている。それでも、出口に近づけば、一応の道はあって、なぜ、そこだけ残されているのか、もしくは、今後もずっと残っていくためにそうあるのかもしれない。境内は、秋祭りも終わり、しまいこまれた神輿の蔵に、本殿。出張神主が時々やってきていろいろしている。古い人々の名前が刻まれ、再建もしくは、補修のために寄付をした人々の名前がある。埃だらけの名前の中に、聞いたことあるような、無いような名前がいくつか。石を手に取る。放り投げる。落下して音を立てる。また、知らないことが増え、知っていたことを忘れる。石段を降りるとき、村が一望できる。家々には、家々の、そして、道々には道々の、と、くだらないことを考え始めるが、それらすべてが何の意味も持たないことを確認してから、下る。

2009-09-29

 白さが駆け足で巡る。女たちの戦いばかりか、そこには何の香りもしない空間がありそれを引き裂くための奇声も喜びもない。集いあった患者の親族たちが談話室で話を待っている。僕も祖母の白内障の手術の終わりを待って談話室に居座っている。片手にはボルヘス。暇つぶしに読んでいたが、三十分程度で手術が終わり、大きな眼帯をした祖母が奥の手術室と病棟を隔離した扉から出てくる。祖母の瞳は回復して昔と同じような光を反射させて世界を見るだろうが、ボルヘスは暗闇へ降りていった作家だった。ボルヘスに与えられた暗闇は、膨大な書物に覆われた暗闇。祖母はすぐさま病室に帰ると寝てしまったので、私もそれに応じて帰宅した。帰宅途中、何気なく車を運転しながら思い浮かんだ物語を書こうとするが嫌になる。更級日記を読みたくなるが読み始めると止まらなくなりそうなので無理やり抑える。それにしても、病院ってやつは、ああも無駄に清潔感を出そうとしてことごとく失敗しているのだろうか。そもそも、なぜ、白が基調なのか理解できない。ナース服の女性はそらいいものですけど、なぜに白なんだ。真っ赤を基調とした病棟とナース服の看護士達が点滴するような、そういう今までにないボケ老人に色で刺激を的な病院希望です。

2009-09-09

秋月を喜ぶ。甘露を受ける杯はないが、散歩する足並みはいつにもまして軽やかだ。まるで夢の世界を闊歩するかのようにして、町並みを朝へと見送る間だけの心踊る時間。懐かしい感じがするが、これはきっと何かの錯覚だろうというのは分かっている。昼間の戯言を洗い流すかのようにして、影ばかりがこの土地を支配していることが心地よくどこまでもいける気がする。裸足の辱め、を都市では受けるが、真夜中の田舎は誰も人がおらず、裸足で歩いてもすれ違う人々の顔が気にならない。

 都市構造を分断する―秋月の沈む海原を想起し、いろいろと考え込むが思考はすでに言葉になることをやめて夜の明るい風景を楽しんでいる―幽霊の歩幅。歩くたびにスニーカーがずれ、ハイヒールがずれ、服もずれ、薄らぼんやりと立ち尽くす若い女や男の幽霊。けばけばしい化粧が必死で人間であることを訴えようとして失敗しているような、そんな陽気な夜を考える。また、躯の多くから光が漏れ、幼い子供たちが、その光を採取し、小さく歓喜し、人の死を、血の、肉の腐敗からは遠い場所で楽しむかのような。墓場は寝室と同じで、朝になればハムエッグを焼いて、フライパンを叩き鳴らす神々によって幽霊たちは起こされ、一日の始まりだと言わんばかりに瞼をこすりながら、幼い子供が学校に行くのを嫌がるようにして、だらだらと列を作り食卓に着くような。

 怪奇を反転させる。躯から漏れる光―そこには血もなく、腐敗した肉も、死臭もなく、この世界の生物学的、微生物学的、時間的な、ものとは違う世界を想定して―を採取し、観測する子供の情景をよく考える。彼らはこの世界とは違う世界で、その世界には死の醜さはなく、ただただ、満月の夜に珊瑚礁が一斉に卵を産卵するような一種の神秘的な光景として。採取された光は決して魂でもなく、死者の遺産でもなく、単に蛍が光りそれを見て今僕らが喜ぶような者として。死後、発光する何かを生み出す死者の世界。これは僕が考えた空想でもあり、現実の死からの逃避であるとか、腐敗や醜さを伴っていない死は存在しないのだからそういう風に描くのはだめだ、という批判であるとか、そういったこともどうでもいい。

2009-09-08

また、公民館に夜通し火がともっている。誰か死んだということだ。人々が集まり、告別式の間読経が聞こえてくる。寝ぼけた感じで聞いている。ちょうど、『ソラリスの陽のもとに』を読み終えたところに。車のサイレンとともに、死者が連れ去られる。今日、夜の散歩の途中に墓場に行った。静まり返っている墓場の中に新しいものが入る、と、思いながら墓石を眺めるが何も応答はない。先祖の墓に前でタバコをプカプカしているが何も起こらないばかりが、起こらないことが当たり前のようにして徹底されたこの空間で、人々は埋葬された後の生を生きていく。墓場の前に広がる田畑では稲刈りが始まり、騒々しさが戻ってきているというのに、相変わらずここは何も語らないための空間として口を閉ざしたまま暗闇の中にある。
 人知れず、夜出歩く時、月明かりばかりが地表を照らし、何もかもがうすらぼんやりと見える。だから秋月の散歩は楽しい。影から影へ比喩や隠喩が飛ばない。この風景を見ているだけで感動できる。この感動を決して言葉にしないための言葉を用いて表現するそれが「感動する」であったり。

2009-08-19

昨日の夕方から公民館では、葬式の準備が行われ、いつものように儀式がはじまり。夜通し、公民館に明かりがともる。親族の誰かが、死者と共に一夜を過ごす。公民館の目の前にある我が家。我が家の私の部屋も明かりが消えることはなく、夜通しオーウェルの『1984』を読む。死者と競うようにして、明かりを消さないこと、なんて、くだらないルールを自分に設けてよむ。朝早く、父がおき、朝ごはんと犬の散歩にいくので、それよりも早く家を出て散歩。

2009-08-16

 今日も、いつもの散歩。外に出ると、祭囃子が聞こえる。あぁそういえば、盆踊りか、と、それでは、と思い。一人墓地に向かって歩く。家々に帰る多くの祖霊達の騒ぎ声や足音が聞こえそうになるがすべて、祭囃子にかき消されていってしまう。生きている人々は、寺の境内に集まり、死んだものたちは家々に帰り、墓地には今この時期、一体何が残っているのだろうか。この張り詰めた死者達の共同体、疎外された一つの記憶。墓石を一つ一つ見ながら墓地の中を歩く。時折、電灯の明かりを受けて、輝くものから、ずっと暗い影の中でじっとしているものまでのすべてが規格化されたモノとして直立している。墓場の墓石を一つの社会と考えれば、まさに、モダン建築さながらの機密性と厳格なプライバシーに貫かれていて、一切の他のものをその内に引き入れまいと強固に閉じられた石の扉。この扉を開くためには、墓石に名前を刻まなければならないが、それは、常に他者―未だこの世に残った者たち―の仕事で、死者自らは開くことができない。まるで、丁寧に手紙を折りたたむようにして、私たちは死者を規格化された家が立ち並ぶ疎外された共同体へ追いやる、または、そこで意味を与える。新しい村の始まりを告げなければならない、と、多くの人は黒い服を着て集い、このふるい共同体で積み上げられた彼ら彼女らの記憶から昼を抜き取るようにして夜の体に備えるために洗い流す。

2009-08-15

 うつらうつら、と夜の散歩。右足を出せば、勝手に左足がついてくるものだから、この不都合な動作にうんざりしつつ、煙草を意味もなく吸っている。吐く息も白くならない季節なもので、調子に乗り友人に電話などしてみるが、話の内容は相変わらずだ。蛇が目の前を横切ろうとしている。とりあえず、踏んでみるか、と思い、思いっきり踏んでみる。足をかまれそうなるが、このままかませてしまおうかと思い、蛇をじっと見つめている。どうせ毒蛇の類ではないのだから、せいぜい歯型の一つでももらっておけば明日の話のねたにはなるんじゃないかと、くだらないことを考えるが、そこまでしてねたがほしいかと思い、しかたなく、蛇の首裏をつかんで、田んぼに放りなげる。蛇の夜間飛行なんて、ちっとも面白くないなと、イブをそそのかしたように、俺もそそのかしてくれることを少しは期待したい。その期待は、蛇の放物線と一緒に田んぼに落下して、どうせ実らないままなんだろうぬぁ、と、くだらないことを考えて散歩を続ける。

文学極道

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