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作品 - 20091009_388_3854p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Adieu Tristesse

  ともの

一筆書きにした昨日に雨粒が積もり滲んだインクが進路を変えた。念入りに摺った墨で今朝を描いたのに雨が側溝に流してなくなった。
カットしすぎた眉毛をペンシルで増やし、目の輪郭をアイライナーで縁取る7時、衛星放送の足の裏、ロンドンの日本人が渋谷の今朝の様子をうかがう。大きな風は自転車少年よりもゆっくりとしか進めないと、道路交通情報センターの藤田さんが教えてくれる。首都圏のJRとそのほかの主な鉄道各線はほぼ平常どおり動いているけれど、確実に2分遅れている大雨の朝。
ランチパックをくわえたままでピアスをはめる。1個、2個、3個、4個。「新潟県の良寛牛乳」を使用したクリームのフィリング。パサつくパン生地をゆるくするミネラルウォーター。
今日を悲しまないことが悲しみなのだという禅問答、おやすみを欠かさないのに君におはようを言わない。
平坦な道を歩けることは幸い、抑揚のないことの不幸、さちあれかしと祈らない自分の人生に。
手のひらをかざせば寝息のあたる夜の闇よりも、隠匿の使命を帯びた雨雲の朝の闇が怖い顔をしている理由を探しながら進む朝の商店街で前を行く女の太すぎる脚を見た。レギンスのふくらはぎ。きれいなからだをつくる努力をするまえにきれいなこころを作りなさいという人とは、絶対的に相違しているはずの価値観、古賀政男が日本の音楽を潰えさせ、ユニクロは日本をファッション後進国へと変えてゆく。
乾燥した秋冬物の指、滑り落ちそうになる指輪を根元まで差し込んで、パスモを改札に押し当てて、
雨のホームでi-podの電源を入れる。

書き順を間違えた線路が電車を迷わせる。揺らいで揺らいで酔うように。窓に無数の水滴、「猛烈な」台風がそこまで来てると平井さんが言った。何年か前「史上最大の台風が近づいています」と言っていた平井さんが。史上最大の台風は来なかった。だから猛烈な台風もきっと来ない。
わたしは習ったとおりに鋒先をまっすぐにし、ビルの壁に向かって思い切り、下手くそな楷書を書いて逮捕される。
落ちたi-podからTRFが流れていたら、誰かはきっと嗤う。
落ちたパスモが無記名なら、誰かはきっと使う。


寒い夜は熱いお風呂に入る
髪の毛を乾かしているうちにお湯の熱さを忘れる
日々の段差は中厚の紙1枚分くらいしかなく
喜びも悲しみも幾年月もは続かない


もしも覚えているなら
殺すしかない煮こごり
忘れかけているから
死んだらいいのにねっていうだけで
とどまっている峰打ち


史上最強の台風が来なかったのでわたしたちは煮こごりにすぎない鱶鰭を食べ熱すぎるお風呂に入った。秋の夜は一筆書きのように無理やりな潔さを誇っていた。

文学極道

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