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作品 - 20090423_145_3475p

  • [優]  No Title - 浅井康浩  (2009-04)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


No Title

  浅井康浩

初夏をどこまでも感じていたい。すぐりのはえた裏庭から、低気圧がひろがって南岸方面
の降雨の開始を早めてゆくのも、おでかけをするうえでのたのしみにしたい。ふわっとし
た雨のにおいを待ちながら、海岸をてくてくあるいて、フランボワーズだってつまんでみ
たい。そうやって過ごしながら、てのひらにつつまれたような、発酵したパン生地のよう
な匂いに、ふわっとからだをすくわれてみたい。気がついたころにはもう、雨の匂いにつ
つまれていて、ひとあしとびに、食卓へと歩をすすめている。あしどりはあかるく、あた
たかな雨域をやさしくよければ、生クリームとさっくり混ぜるころあいのような、そんな
感じで木イスにすわってひといきをつく。そのようにして、誰からもわすれられていたよ
うなオーブンの水跡のように、しずけさを添えてたたずんでゆきたい。



プレパラートはすぐに割れるだろう。ピントをあわすまえからの決まりごとだというのに、
ふわっとした水の粒子はいくつもの層を織りなしては消える。10倍×10倍程度での観
察ならカバーガラスをかけることもあるまい。グラニュー糖や水をはかったりしないで、
あっさりとかろやかに焼きあげるあなたのクラストをおもいながら、レボルバーを回転さ
せ高倍率レンズへかえてゆく。倍率を高くする前に,視野の中心に試料を動かし,ピント
をきちんと合わせることをわすれるのはいつものことだけれど、発芽するものたちの息づ
かいに耳をすませるものにとって、わすれてはいけないことなんてなにもないのだと、い
つだってそうおもっている。



写す、という気持ちをずっとわすれてしまっていた。かたちにはならないくらいの、かす
かな、あたたかなそれが、ただの一度だけ、わたしにはわからないくらいのゆるやかさで、
とおくにながれはじめるのをじっと見送ったまま、今日という日になった気もする。晴れ
た日の午後は、みずからの足跡をつけないように、そっと、あるく。シロツメクサを摘む
あなたを追いかけて、背中ごしにピントを合わせる。そうやって、あなたが見ているもの
とわたしが見ていないものが陽だまりのなかでまじわりつづけられるように、さらさらと
ながれる一日のなかに、これからの行き先をとじこめるために。



空気がそよぐように設計されたこの歩道の先につづいてゆくものが、どのような庭園術に
つながっていくのか、そのことを意識しない日はなかった。樹林にかこまれていることの、
そしてそのことによってうまれる直線へのささやかなしたしさを、環状へとつづく道筋や
写実的ともとれる水の流れでせきとめようとするたびに、庭園の空気には植物そのものが
ふくまれていことを知ってしまうから、しばらくは、この庭園の入口に視線をやって、息
をととのえなおしたりすることもあった。そうしておもうことは、a scene,a scene,a scene
それだけをたよりにここまでやってきたのだと。



ペーパーフィルターのミシン目にあわせて、かすかに底の角をなぞるように折ってゆけば、
あたたかな雨の湿り気がゆびさきへとつたわってくるようです。あまだれのようにおちて
ゆく82℃になるまでのしずけさは、缶の底にのこされたマンデリンの手触りをおもいう
かべるはじまりとなりますから、わたしの内側へと、耳をすませるように、かすかな弱音
としてさわやかな苦さがひろがってゆくことがわかります。もう知ることのできなくなっ
たあなたという人のひとときのすごしかたが、ドリップを通じてしずくとなってさみしい
響きをたててあらわれるなんて、そんなふしぎをあらためておもってしまうよゆうも、い
まのわたしにはあります。だから、もうあんしんしてください。そっと、ひとりぶんのソ
ーサーをよういして、ふちをつまむ。そうやって、いろんなものがすぎてゆきます。いつ
の日かこの珈琲がさらさらとこのからだを流れすぎてゆくことがあっても、それはささや
かないのちのひとしずくとなっているはずですから

文学極道

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