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作品 - 20090316_579_3395p

  • [優]   - 鈴屋  (2009-03)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  鈴屋

 郊外へ向かう電車に乗っている。街が河のように流れていく。どこへいくのかは考えていない。仕事は休んだ。朝、始業前に会社に電話を入れると、林崎久仁子が出た。「風邪だと思う、熱がひかない」と理由を告げてから同僚への連絡事項をたのんだ。「お大事にいぃ〜」と語尾を流しながら切られた。
 川を渡る。車輌の床を鉄橋の柱の影がジグザグによぎる。川面で無数の光の粒が踊っているのが見える。やがて人家がまばらになり畑や森が目立ってくる。風邪などひいていないが、座席に深く座り襟を立て、風邪ひきの気分にひたってみる。 
 
 田園地帯が続いている。停車するたびに靴がぱらぱらと舗石の上に降りていく。もう昼を回った頃か?昼食後の林崎は工場の裏手の日溜りでメンソールタバコを喫っていることだろう。林崎か、人の視線を無視する女だ。丘陵の連なりが見えてくる。狐の嫁入りだ、日差しの中に雨が混じる。野山の緑がゴムびきのようにぬらぬら光っている。遠くの尾根にぽつんと立っている送電塔がけぶっている。いったいこの電車はどこまで行くのだろう、かまいはしないが・・・。
 
 *

 プラットホームに降り立ち自販機で桃のネクターを買って飲む。雨はやんでいる。缶に口をつけたまま空を仰ぐ。日はどの辺にあるのか、雲の隙間の明るみがあちこちで蠢いている。私が乗ってきたエンジ色の電車がプンッと警笛をならし、私を残して出発してしまった。テールランプが左にカーブして見えなくなった。ひとつ隔てたホームに停まっていたカラシ色の電車が動き出し、アーチの橋を渡り草ぼうぼうの丘のむこうへのめりこむように消えていった。頭上では高架線が斜めに交差している。そこを突然明るいクリーム色の特急列車が流れる帯のように通過して、すぐトンネルに吸い込まれる。隣のトンネルから同じクリーム色の特急列車が飛び出してきて反対方向へ通過していく。プラットホームや駅舎は四角い筒型の跨線橋や通路で連絡され、斜めだったり水平だったり捩れていたり、いったいどこをどう行けばいいのか複雑に絡み合っている。エンジ色とカラシ色とクリーム色の電車が激しく行ったり来たりしている。
 
 ホームのふちまで歩を進めて下を窺うと、線路の向こうは眩暈がしそうな深い峡谷だ。白い糸くずのような谷川が見える。山の中腹から山肌に沿って二本の太い管が谷川の四角い箱型の施設まで下っている。水力発電所だ。眼下で一羽、茶褐色の鳥が翼を張ったままゆっくり旋回している。足許を冷たい風がすくう。ようやく私は踵を返す。
 峡谷の反対側は二つ向こうのプラットホームからいきなり険しい断崖が聳えている。その崖の上、暗い雲におおわれた空を背景に一軒屋が建っている。そのひとつの窓に私が住んでいるのが見えた。
 
 *

 はじめ私はここに一人で住んでいるのだとばかり思っていた。襖を足先で開けて、缶ビールを両手に林崎久仁子が入ってきたとき「ああ、そう、そうだったんだ、私たちはここで暮らしていたんだ」と納得し、それはすぐ普通になった。
 私たちは缶ビールを片手に窓際に座り、ゆっくりと変化していく雲や向かいの山岳や眼下の駅を眺めた。もう夕方と呼ぶべき時刻なのか、雲のふちが黄ばんでいた。身を乗り出して真下の崖を覗くとざわざわと蠢くものがある。蔦が生長しているのだった。あちこちで赤っぽい芽が上へ上へと虚空をまさぐり揺れている。それに連れて夥しい数の葉が星を半分に割ったような形ににらにらと開き、壁面を隙間なく埋めていく。じきにこの窓にもとどくだろう。「気持ちわるい」と私がいうと、久仁子は「なにも」と答えた。私は久仁子の肩を引き寄せ押し倒した。ビールが畳にこぼれた。仰向けの久仁子は窓の外の薄闇を横目で眺めていた。 
 私たちは畳の上でじかにセックスした。考えてみれば私たちはこの家でセックスばかりしてきたのだった。セックスしているとき久仁子は真っ暗な空洞だった。その空洞の中にいて私は、これからもこの崖の上の粗末な一軒屋で林崎久仁子とともに暮らし、そして生涯を終えるのだろう、と思った。悪くはなかった。
 

文学極道

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